光さす庭・前編
全年齢、約3,400字。あらすじ:幼稚園で働いていたキュラソウは、ある些細な悩み事があった。キーワード:幼稚園、カタルシス、子ども
キュラソウは、いつものように朝起きると、身支度を整え、朝食をとり、洗濯物を干してから仕事へ出かけた。のんびりと仕事場までの道のりを歩きながら、この町にも随分と慣れたものだ、と思った。
ここへ越してきてから半年以上が経っていた。さすがに慣れもするだろう。
綺麗に整備された花壇の並ぶ歩道を歩き、擦れ違う人々の表情は穏やかだ。同じように、キュラソウの心中も穏やかだった。
悩みがないわけではない。けれど、悩みというほど深刻なものでもないだろう、と、この道をのんびりと歩いていると思えてしまうのだ。差し迫ったものではない、漠然とした不安、いや、引っかかりのようなものがどこかにあって、ごく稀に、ちくちくと思い出したように棘を覗かせる。
だから、ときおり掠めるその痛みを小ささゆえに、おざなりにしてしまう。
キュラソウの仕事場は、 幼 稚 園 だった。そこにいる子どもたちの様子を見守ることが、キュラソウの仕事だった。子どもたちの顔と名前を覚え、一人一人、普段と違った様子がないか、そういうことに気を配っていた。
子どもたちから直接はもちろん、ほかの職員や、保護者から話を聞くことも多かった。保護者から自分の子どもに関する問題を話される場合は、それらを聞いていると、いつの間にか、話が子どもから親自身の問題へとすり替わっている、という体験をした。キュラソウはいつも、それが不思議だった。
今日も園内を見回し、いつもと違う様子の子どもがいないかを確かめる。
そこで、ある子どもと目が合った。
茶色の髪と眼をした小さなレイは、キュラソウと目が合うと、くるっと向きを変えて走り去った。レイは、いつもそうだった。キュラソウが挨拶をしようとすると、すぐにどこかへ行ってしまうのだ。どうも、まだ心を開いてもらえてないらしい。
心を開いてもらえないのは、キュラソウの努力が足りないからだろうか? それとも、キュラソウが子どもの心をよく理解できていないからだろうか?
ときどき保護者から言われる、あの言葉を思い出し、随分と後ろ向きな気分となった。
メディカルチャートを引っ張り出し、今日の様子を書き込む。レイに心を開いてもらうためにキュラソウができることはなにか、万年筆を指の上で転がしながら考える。
歩み寄りは大切だけれど、心を開いてもらえていない相手へ無理に近付くのも、かえって不信感を招きかねないと思った。だから、キュラソウはこれまで同様に、挨拶や微笑みかけるくらいで、レイの領域へ無理やり踏み入らないようにしよう、と決めた。
この日は、喧嘩をして怪我をした子どもの話をそれぞれ聴き、子どもを迎えに来た保護者の話もそれぞれ聴いた。
彼女たちは、最後には、キュラソウには子どもがいないから、子どもを育てたことがないから、子どもの気持ちをちゃんと理解できないのだ、と言う。
たしかに、子どもがいれば、子育ての経験があれば、より理解が深まることは間違いではない。けれど、この幼稚園の職員の全てが結婚して子どもがいるか、というとそうではない。子どもがいない職員の能力が著しく低い、というとそうでもない。子どものいない小児科医が不人気だ、というとそうでもない。
子どもたちには個性があり、一人一人が違う。子どもを一人育てたくらいでは、劇的な変化は望めないだろうことを、キュラソウは解っていた。そして、彼女たちがキュラソウに言うそれらの言葉は、額面どおりの意味ではなく、ある種の含みを持っているだろうことも。
ちくちくと棘が掠める。
キュラソウは溜息を吐き、眉間を押さえてのろのろと首を振った。この仕事は好きだった。それなのに、ときどきどうしようもなく嫌になる。こんなことで悩んでいる自分に、思わず笑いたくなるのだ。
ふと、キュラソウが顔を上げ、視線を向けた窓ガラスの向こう側のレイと目が合った。レイの表情が驚いたものに変わる。慌てたように、レイが走り去っていく。キュラソウは少し考え、立ち上がって追いかけた。
いつもなら、追いかけない。レイから話したくなるまで、待とうと思っていたのだ。だから、追いかけるのは初めてだった。




