砂の城・後編
十月に入ったある日、私が家庭教師の家に出かけ、いつも通りの授業をした。私の生徒は少し風邪気味であるようで、何度か咳き込んでいた。
「風邪みたいね。今日の勉強はここまでにしておく? 貴女のお父様も、具合が悪いのに勉強しろとまでは言わないでしょう」
彼女はまた咳き込み、キャランダを見てため息を吐く。
「本当に、風邪を引いたみたい……。キュラソウ先生に来てもらわなくっちゃ」
私はその名前を聞いて、彼女の熱っぽい額に当てていた掌を無意識に外した。あの人と、同じ名前ではないか。
「キュラソウ先生って?」
「主治医よ。眼鏡をかけていて、優しそうな先生」
もしかして、彼かもしれない……。でも、キュラソウなどという苗字はありふれている。このまえ、叔母がお世話になったと言っていた人の名前もたしか、キュラソウだったはずだ。
偶然の一致だろう。
必死で自分を落ち着けると、教科書を閉じ、彼女にゆっくりと休養するように伝え、その部屋をあとにした。書斎にいた彼女に父親に、具合が悪いようだと告げると、すぐさま女中が呼び出され、彼女は電話をかけに走った。
廊下に出た私は、彼女がフォウンの受話器を置くのを何の気なしに見る。そしてまた彼女は、主人の元へと歩いていった。誰もいなくなったフォウンの、横にあった電話帳に書かれてあった電話番号を見たのは、なにかの囁きだったのかもしれない。こともあろうか、その番号を覚えると、自宅へ帰った。
覚えることはできた番号ではあったが、実際にかけることはできないでいた。もし、私の会ったキュラソウさんと、キュラソウ医師が同一人物だとしても、彼が出るとは限らないのだ。
しかし、私はなにかの誘惑に負けて、彼と約束をした日の朝、とうとう電話をかけてしまった。しばらくして、誰かが出た。どうやら子どもの声のようだ。
どうしよう……。私は何と言えば良いのだろう。
そのまま押し黙っていると、いたずら電話かと尋ねられた。そうかもしれない。堪らなくなって、受話器を置いた。
このことは、私を憂鬱にし、やはり電話なんてかけるのではなかった、と後悔の嵐が押し寄せる。彼と会う約束をしていなかったら、今日一日はそんな気持ちでいっぱいだったかもしれなかった。
公園に行くと、もう彼は来ていて、ベンチに座っている。私に気付くと、微笑んだ。
「こんにちは」
時間も忘れて、彼とのお喋りを楽しむ。気が付けば、話の内容は兄のこととは全く関係なかった。相変わらず彼は、私が本当に聞きたかったことの確信的な部分には触れなかったが、それでも会話は楽しかった。
ふと、彼が話を止めて顔を上げる。その視線の先には、公園の入り口で立ち止まった少年がいた。誰だろう、と私も彼を見る。
「よう!」
少年に向かって、キュラソウさんが手を挙げた。ただ挨拶をされただけなのに、少年は飛び跳ねるほど驚いて、返事もせずに逃げ去ってしまう。
「お知り合い?」
「一応ね」そう言って、彼は肩を竦める。
あの少年は、この男性と知り合いなのだ。彼なら、私が聞き出せなかったこの人の名前を知っているのかもしれない。本を手にしていたから、図書館にでも行くのだろうか。特徴のある顔立ちだったので、もう一度見たら必ず分かると思った。
私はすっかり時間を忘れていたし、彼もなにも言わなかったし、時計を見ることもなかったし、気が付くと日が傾いていた。気付いてみれば、空腹かもしれない。幸い、おなかの虫から催促されるような失態は避けられた。彼も、一切の空腹を訴えなかったので、本当に少食なのか、忘れるほど熱中していたか、私が気付かなかったかのどれかだろう。
お喋りをしている時間は、本当に楽しくて、何故このままずっと喋っていられないのだろうとさえ思う。私は彼に、恋をしているのだろうか?
「キュラソウさん、兄ではないと駄目ですか? 私では、代わりになりませんか?」そろそろ帰ったほうが良い、と彼に促され、私は思わず尋ねる。
「君は死にたいと思ったことがある?」予想外の質問をされ、驚いて彼の顔を見た。「もう、帰ったほうが良い」
私がなにも答えなかったので、また帰ることを促される。
「次は……?」
「次はない、と言いたいところだけど、明日の朝、君のお兄さんが来なければ、今回のことは本当に諦めることにするよ」
彼ともう、会えなくなるかもしれない、という事実が無性にショックだった。それでも足は、家へと戻っていく。もう帰っていた兄が、不審そうに私を見た。勉強も手につかない。
兄に言ってみようか、明日、公園へ行くようにと。でも、彼らがどんな約束をしていたのか、私は知らない。私では役に立たないというのだ。
兄に直接聞いてみようか、でも、それはできなかった。
翌朝、朝食が終わると、のろのろと公園に向かう。誰もいない公園で、ベンチにボーっと座った。彼がそのうち現れて、隣に座った。今日も、兄ではなくて私だったので、なにか言われると思っていたが、特に他愛もない会話から始まる。
次第に、今日が最後だと言われたことも、嘘であったかのようにすら思えてきた。私は笑った。笑いながらお喋りをして、ふと気付くと、目の前に兄が立っていたのだ。
「どうも様子がおかしいと思ったら、こいつと会っていたのか!」
「兄さん……」
兄は、彼を睨み付ける。私はどうして良いのか分からない。
「俺が駄目だと判ったら、こいつに乗り換えようとしたのか!」
「とんでもない、僕は話をしていただけですよ。それに彼女は、望んではいないだろうし……。貴方は、仮契約を破棄しに来たのですか?」
キュラソウは立ち上がり、憤慨しているらしい兄を宥めるかのように言った。彼のそんな態度も気に入らないのか、兄はますます眉間に皺を寄せる。
「ああ、あんな契約、破棄するとも! 最初からこうすれば良かったんだ。破棄だ、破棄!」
兄が怒鳴ると、二人の間でなにかの破裂音が鳴る。興奮した兄は、肩で息をしていた。キュラソウさんは、見えないなにかの欠片を掴もうとして掴めなかったように、掌を握ってまた開いた。
「契約は破棄された。さようなら、エル。もう会うこともないだろう」彼は微笑み、私の頬を風のように軽く撫でると踵を返す。
「ま、待ってキュラソウさん……!」
彼の名を呼ぶ。彼は振り向かない。兄が私の手を掴んだ。
「あいつに近付くな! あいつは死神なんだぞ!?」
兄は彼のことを『死神』と言った。だが、その言葉の意味は説明してくれなかった。いつの間にか彼の姿はなくなり、私は兄の手を振り払う。
結局、私は彼のことをこれ以上知ることはなかった。兄とはしばらく、口さえ聞かなかったが、そのままずっと 蟠 りが続くこともなく、なにかをキッカケにしていままでどおりの日々が戻ってきた。
酷く落ち込んだため、勉強が手につかなくなるかもしれないという心配は、杞憂でしかなく、私は無事に資格試験を合格した。家庭教師の仕事を辞めることになるため、最後の挨拶に向かう。
ライサンスが取れたことと、いままでお世話になった礼を述べ、彼女の父親の部屋を辞した。部屋を出たとき、手にフェリキアの小さな花束を持った少年が通りかかった。彼と目が合う。その顔には見覚えがあった。
「こんにちは、貴方は?」質問に対し、彼は困った顔をする。
忘れもしない、公園でキュラソウさんが声をかけていた少年だ。特徴のある容姿なので間違えるはずもない。
「キュラソウさん、って知っている?」質問を替えた。
「うん……、知ってる」今度は彼も、答えてくれる。
キュラソウさんのことを聞きたかった。いま、どこにいるのか。いま、なにをしているのか。彼のフルネイム、もう一度会いたい。
でも、私は潔く諦めなくてはいけなかった。なにも知らないこの少年に、迷惑をかけるわけにもいかないだろう。これ以上、聞くまいと決意する。
私の生徒だった少女が現れ、彼の名前を呼んだ。その名前は、以前教えてもらった、海を髣髴させるような名前だった。ああ、彼は彼女が恋をしていた少年だったのだ。
「どうしたの? その花束」
「うーん、喜ぶかなと思って」海を連想させる名前にピッタリな色の花束を彼は彼女に差し出した。
「花束なんて貰うとは思わなかった!」
「同感」
私は彼女と少し話し、お別れを言って、その家をあとにした。我が家に帰り着くと、何故か涙が零れ落ちた。どこまでも中途半端で、私は本当になにも知らなかったことだろう。
◆◇◆
私は、海を見ると彼のことを思い出す。
彼のことを思い出すと、幼いころ家族で海へ行ったことを思い出す。
両親と兄と私の四人、夏のよく晴れた日に海へ出かけ、兄と二人で砂のお城を作った。気が付くと満ち潮で、見る間に砂は攫われた。
彼は気が付くと私の心を占めていて、彼に纏わりついていた甘い香りに似たものが花屋の前からするたび、私は足を止めさせられた。
でも、私は彼の中では兄の妹以外の何でもなかったのだろう。
少しずつ、波に洗われた貝殻や石のように角を丸め、記憶が磨れていくことを願う。
いつかは綺麗な思い出になるように。
ああ、所詮あの恋は、波が来てあっという間に攫われ、そして脆く崩れ去る砂の城。
砂の城<了>




