砂の城・中編
次の日は、家庭教師の仕事があったため、予習をして彼女に家に向かった。その家は裕福でお給料がかなり良く、生徒も飲み込みが良かったことから、教えるのに苦労するということもなかった。
私たちは勉強だけではなく、ときどきお喋りも楽しむ。なかなか教育熱心な彼女の父親に一度注意されたことがある。私なんて、普段はお喋りではないのだが、話が弾むと止まらなくなる質なのだ。足音が聞こえると、今度は首にされるかもしれないと冷や冷やした。
「はあ……」彼女は溜息を吐く。
「どうしたの? 今日は溜息ばかりね」
「だって、気になる人ができたの。どこの誰かも分からないんだけど……」
そう言ってため息を吐く彼女は、やっぱり女の子なのだなと思う。自分だって、数年まえはこんな風だった気がする。
「ふ~ん、じゃあ彼の名前を知ることから始めなくちゃね」
「ううん、ファーストネイムだけなら、知っているわ。不思議な感じの男の子で、少し話をしたけど、すぐに彼、いなくなっちゃった」
彼女は、その気になる相手の名前を教えてくれた。それは、私に海を連想させる名前だった。生憎、知り合いにそういった名前の人物は心当たりがない。
「でも、貴女のことだから、簡単に諦めないんでしょ?」
「ええ」彼女はにっこりと微笑む。「また、会えると思うから」
前向きな彼女の答えに好感を持つ。私だったら、彼女のように行動できなかったかもしれない。何をするにも臆病な自分だった。昨日の彼にだって、名前しか聞けなかったくらいだ。次こそは、他のこともちゃんと聞かなくては、と心に誓う。
それから、今日やる予定だった課題が終わると、雑談を少し挟み、彼女が少し眠そうだったので、私は自宅へと引き上げた。
あっという間に約束の日が来る。試験勉強の休憩時間に、彼に聞きたいことをまとめておいた。今日こそはちゃんと、聞き出さなければ!
五分まえには公園のベンチに座っていた。前回と同じ場所だ。彼はまだ来ていない。今日は数人の子どもたちが砂場で遊んでいる。彼らは、砂の山を作っていた。私は昔のことを、少し、思い出す。
人の気配があったので顔を上げると、そこにはキュラソウさんが立っていた。今日は眼鏡をかけていて、真面目そうに見える。きっと、伊達眼鏡だろう。
「あれ……? 今日も代理なの?」
「ええ、残念ながら」もしかして、またキスをされるのだろうか、と戸惑いつつ答えた。
困ったような顔をしながらも、彼はベンチの隣に腰をかけ、足を組んだ。さて、彼もやって来たこどであるし、早速、質問を開始しなければ。
「今日も、良い天気だよね」
「ええ」続けて質問をしようとする。
「僕さあ……、天気が良いと眠くなるんだよね。木陰なんかで、昼寝がしたくなるよ」彼は質問するタイミングを与えず、欠伸をしながら言った。
「ここでも、お昼寝をされるのですか?」
つい、違う質問をしてしまう。
「いやいや、ベンチも悪くないんだけど、居心地が悪いというか……」
「硬いですしね」
ベンチはプラスティック製で、寝転んでも寝心地が悪そうだった。それに、彼の身長だとこのベンチでは十分に全身が収まらないだろう。
「硬いは硬いんだけど、ここで寝ていると子どもに悪戯されるから、落ち着いて昼寝もできないんだな~これが」彼はニカっと笑う。
どうやら、既に何度かベンチで昼寝をしたことがある模様である。好奇心の多い子どもたちのことだ、誰かがベンチで昼寝でもしていようものなら、確実に悪戯をしそうであった。私なら、眼鏡や靴を奪うか、髪の毛を引っ張るだろう。
「膝枕があれば、考えなくもないけど……」
「え?」
私に膝枕をして欲しい、と言っているのかと思ったら、冗談であったようだった。
……駄目だ。つい、会話を膨らませたり、その場の質問をしたりしてしまう。考えてきた質問なんて、まだ一つも尋ねられていない。しっかりしなくては。それとも、彼のペイスに嵌ってしまっているのだろうか?
「……兄は、最近悩んでいるようなのですが、何故か理由は知りませんか?」ようやく一つ目の質問を口にすることができた。
「ああ、君のお兄さん、なにか悩んでいるみたいだね。でも、その理由は知らないな」
ちょっと期待外れの答えだ。
「では、どうして兄が悩んでいることが分かったのでしょう?」
「そりゃあ……、見れば判るよ。職業柄ね」
職業柄? 一体、彼の職業は何だというのか。
「どんな職業をされているのですか?」
「秘密。君にはね」
それを聞けば、また少しなにかが分かりそうだったが、彼は職業を教えてはくれない。私には秘密、とはどういうことだろう。つまり、兄なら知っているのではないだろうか。しかし、兄に直接聞くわけにもいかない。自分で調べなくては。
「キュラソウさん、ファーストネイムを教えてもらえませんか?」
帰ってから、調べてみるつもりだった。
「通常、ファーストネイムは教えないことにしているんだ。僕だって、君の名前を知らない」
「では、私の名前も秘密です。どうせ、苗字はご存知なのでしょう?」
「まあね」
成り行きで、自分の名前まで秘密にしてしまうことになった。特に私は、彼に名前を教えても不都合でもなかったのだが。何故彼は、ファーストネイムを教えてくれないのだろう。キュラソウというのも、偽名なのかもしれない。
「そういえば、よく私が兄の代理だと分かりましたね」
「三時に待ち合わせ、だったんでしょ? 彼に妹がいることは知っていたし、よく見れば少し似ている。さて、僕は君を何と呼べば良いのかな?」
「さあ、何とでも。それか、当ててみて下さい。頭文字はLですから」
「じゃあ……、エルって呼ぼうかな」
名前を教えなかったばっかりに、エルと呼ばれることになってしまいはしたが、それもまた悪くもなかった。それからまた、彼といくつかの話題を話した。予め作っておいた質問リストの中からも、いくつか消化することができたが、どうも彼と話をしているとおかしいのだ。彼は、兄のことをあまり知らないらしい。
彼の仕事と、兄と彼の間とでなされた約束というのが、重要な意味を持つことになりそうだった。ただ、肝心なその部分は、どうしても聞き出すことができなかった。
「君のお兄さん、もう来ないかな……?」
「さあ、また気が変わるかもしれません」
曖昧な返事をしてしまう。聞いた限りでは、兄はもう彼と会うつもりはないのだ。それなのに、期待を持たせるようなことを言ってしまった。
「じゃあ、来月の十三日の今度は九時に、ここで」
「ええ」
「……また、君が来るの?」苦笑しながら彼が言う。
私は驚いた。私は、兄のためだと思いながら、彼に会いたいのかもしれない。ああ、どうしよう、どうすれば良いのだろう。
それからあとのことは、正直あまり覚えていない。気が付くと、家で夕食の準備をしていた。タマネギが目に染みる。涙が出た。目が痛くて、とてもそのまま切り続けることができなかった。
兄に、彼のことを話してみようかとも考える。だが、彼から逃れようとしていた兄なのだ。話したとしても、それがかえって兄を悩ますことになるだろうことは、疑う余地すらなかった。私は悩んだ。それでいて、彼に憧れた。
これらのことは、頭の一部を悩ませはしたが、私から勉強を遠ざけるには至らなかった。休憩時間に彼のことを考える以外、いままでどおりの日々が過ぎる。




