砂の城・前編
全年齢……のはず、約10,500字。あらすじ:私は兄の代理で、ある男性と会った。兄と彼の関係を探るべく行動していたつもりが……? キーワード:恋、失恋、思い出
私は、海を見ると彼のことを思い出す。
彼のことを思い出すと、幼いころ家族で海へ行ったことを思い出す。
両親と兄と私の四人、夏のよく晴れた日に海へ出かけ、私と兄は心行くまで浜辺で遊んだ。引いては満ちる波に触れずに、どこまで足跡をつけられるか競争したり、綺麗な貝殻を探したり、砂浜を走り回ったり。
本当に楽しかった。
中でも、兄と二人で作った砂の城は、濡れた砂を掘って入り口や窓をつけ、落ちていた木切れや貝殻を飾った。なかなか上手い具合に完成し、これを家まで持ち帰れないことが、ひたすら残念だった。
楽しかった、昔の思い出……。
◆◇◆
最近、兄の様子がおかしい。
そのことに気付いたのはいつだったか。思い出してみると、たしかに、ここのところ小首を傾げずにはいられないような行動が数えるほどあった。だが、その理由を深くは考えもしなかったのだ。
兄と私は、郊外に住んでいる。両親はまだ健在であるが、私は学校に通うために、親元から離れて暮らしている兄のところで厄介になっていた。しかし、その学校も卒業してしまい、本来なら仕事に就いているはずなのだろうが、運悪くも必須のライサンスを一つ落としてしまい、少し自虐的に毎日を過ごしている。
趣味は散歩、クロスワード、読書。空想をするのも好きだ。十一月にある検定試験に向けて、目下勉強中。前回の試験も、あと少しのところだったので、今度こそは気を抜かずに頑張りたい。
兄は、近くの部品工場で働いており、朝と晩の食事は一緒にしていた。元より口数が多い兄ではなかったが、最近は何だか違う。疲れているというか、やつれてきたというか、どこか思い詰めたような表情をすることがあるのだ。
何度かそのことで尋ねてはみたものの、『何でもない』や『気のせいだ』などの返事しかないし、それでも私が諦めずに追及していると、この話題になるたびに彼は黙り込んでしまうようになった。
今朝だってそうだ。朝食の最中にその話をしたところ、彼は答えることなく黙々と食事を平らげて、さっさと仕事に出かけてしまった。
ああ、私も自分のことで精一杯のはずなのに、兄のことなど心配していて良いのだろうか。試験まで、もう二ヶ月もない。今度、ライサンスを落とそうものなら洒落にならないのだ。勉強に集中しなくてはならないのだから。
それでも、たった一人の兄のことだ。その後、私は何度かこの話題を振り、彼がそれに答えることはなかった。
ところがある日、仕事に行くまえの兄が、何だかそわそわしたような雰囲気で部屋の中を歩いていた。
「どうしたの?」
尋ねられると、兄は驚いたように私を見る。
「お前……、今日は暇か?」
「暇ではないけど、特に外せない用事はないわ」
そう答えると、彼は少し考えている風に俯いた。
「……じゃあ、今日の午後三時に、公園へ行ってくれないか?」
「公園へ? 何故?」この質問は、最もだと思う。
「いや、詳しいことはいえないが、ベンチに座っていたら男が来るはずだから、そいつに約束はなかったことにしてくれ、と言って欲しいんだ」
「その人は誰なの?」
「名前は……知らない。背が高くて、眼鏡をかけていると思う」力なく兄は言った。
もっと詳しく話を聞きだそうと思ったが、これ以上知らないのか、言いたくないのか、兄は話してくれそうにもなかった。仕方なく、私はこの願いを受け入れることにする。公園に来る男性とやらに、詳しい話を聞けば良いのだ。
これまで話すことを渋ってきた兄だから、聞き出そうとしても無駄だろう。それよりも、そう、その眼鏡をかけている男性からなら、聞き出せるかもしれない。
まさか、借金の取立てではないだろうか? などと心配もしながら、午前中は机に向かって試験勉強をした。
午前中はそうでもなかったが、午後からは駄目だった。全く勉強が 捗 らないのだ。目先に気になるものがあると、どうも駄目だ。近所の公園までは、徒歩で十分程度だったため、一時間まえになると相手に質問する項目をメモウに書き出してみたり、どんな返答があるのかを予測したりさえする。
待ち合わせの相手が男性であることは、注目すべき点だろう。兄は名前を知らないが、顔を知っているという。つまり、少なくとも一度は会ったことがあるということだ。しかも、そのときの用件が名前を名乗るようなものではない。
さらに注目すべきは、『約束はなかったことにして欲しい』という伝言だ。約束とは一体何なのだろう。私に代理を立てるくらいなのだから、兄が直接断らなくても良いような種類のもので、しかも、彼はわざわざ相手に会いたくないのではないか?
特に格好良いような兄ではないから、考えもしなかったが、実は兄に恋人がいて、彼女と結婚の約束をしていたのに恋敵が現れた、などという可能性もあるかもしれない。
想像は、どんどんあらぬ方向へと進みつつあった。早く確かめたい! 気ばかりが焦る。
三時が近付いてくると、机を離れ、一応どんな相手なのか分からないので身なりを整え、手ぶらで公園まで出かけた。
公園にたどり着き、備え付けの時計を見ると、まだ三時になっていない。ベンチは二つあり、どちらに座ろうかと迷った。兄はどのベンチとは言わなかったので、どちらでも良いのかもしれない。
噴水の前には誰か先客がいる。彼が待ち合わせ相手かもしれないと、公園をブラブラする振りをして様子を窺った。彼はサングラーシズをかけていて、上着のポキットに両手を突っ込み、ぼーっと噴水から溢れ出す水を眺めていた。
公園を一周すると、近くにあったほうのベンチに座った。天気は良い。そうだ、家を出るまえに洗濯物を取り込んでくれば良かった。
ふと、私の顔に影が差し、見上げると噴水の側に立っていた男性がいた。
「横、座っても良いですか?」
「ええ」断る理由もなかったので、そう答えた。
「もしかして、ここで待ち合わせしてます?」
隣に座った彼は、当然といえるような質問をしてきた。私も相手が来るまで暇だったこともあり、彼の質問に答える。
「ええ、三時に待ち合わせなんです。貴方は?」
当然のこと、こちらから質問をする権利はあると思った。
「ああ、僕は仕事の一環……かな」
どんな仕事だろうか、と私は興味を持つ。仕事中にサングラーシズをかけているなんて、大丈夫なのだろうかと余計な心配もした。
「公園で、お仕事ですか?」
「いや、別にここで仕事をしているわけじゃないけど、営業活動中」
分かり切ったことを尋ねてしまったようだと、私は少し恥ずかしくなり、苦笑いをした。
それにしても、彼は黒い細身のトラウザーズにジャキットを着ていて、おまけにサングラーシズまでかけている。そんな格好で、どんな営業活動がされるのであろうかと、ますます興味は深まるばかりだ。
時計の長針は、12を過ぎた。
それからしばらく雑談をして、また時計を見る。もしかすると、相手は兄がいないことを遠くからでも確認し、帰ってしまったのかもしれない。
「そろそろ、帰ろうかな。おなかも空いたし」彼が少し伸びをして言った。
「おなかが空いたのですか?」少し笑って、ポキットに飴が入っているのを思い出す。「私、飴を持っていますけれど、食べます?」
蜂蜜味の飴を一つ、差し出す。彼が帰ったら、私も帰ろうと思った。
「ありがとう」
にっこりと微笑んだ彼は、私の手の上に手を伸ばしたが、飴を手に取るわけでもなく、手を握るようにして何故かキスをされる。彼の冷たい唇が触れ、そっと離れ、意識が途切れるように眩暈を感じた。
「ごちそうさま」多分、彼は笑ってそう言った。
「あの……!」
掌の飴がベンチの上に落ちる。彼は立ち上がった。
「これは代償ということで、お兄さんに宜しく。来週また来るので、気が変わったらどうぞ」
ようやくそこで、彼が兄の待ち合わせ相手であったことに気付いた。兄と待ち合わせするには、酷く不似合いな風貌だ。どんな接点があるというのだろう。彼はもう立ち去ろうとしているのに、私はまだ、なにも質問をしていなかった。
「貴方のお名前は?」それだけが言えた。
「……キュラソウ」
彼は、『キュラソウ』と答えたと思う。ファーストネイムは教えてくれなかった。仕事だからだろうか。それにしても、何故、私は彼の名前など聞いたのだろう。少なくとも、辛うじて一つは情報が増えたわけだ。
彼の背中が見えなくなると、ベンチに落とした飴を拾い、ポケットに入れる。飴がずっしりと重い。確認するまでもないのに、時計を見た。
ゆっくりと立ち上がり、おぼつかない足取りで家へ帰ったのだった。
家へたどり着いても、勉強を再開する気が起きなかった。謎は解決するどころか、ますます深まっただけだ。彼の名前を言ってみたところで、兄からなにかを聞きだせるわけでもなかろう。
来週、また来る、との発言が正しいのであれば、来週もあの公園に彼がやって来るのだ。そのときに、今度こそ聞き出せはしないだろうか。兄からは聞き出せない。彼から、聞き出さなくては。今度は、相手の顔も分かっていることだし、今日のような失敗だけは避けられるだろう。
そうしよう。来週、またあの公園に行って、彼から兄のことを聞き出すのだ。
私は、そう決意した。
だから、兄が帰宅して、今日の塩 梅を尋ねたときも、待ち合わせ場所には誰も来なかったと答えた。すると兄は安心したような表情をした。嘘は良くないとは思いつつも、この嘘は、心配事を抱えている彼をこれ以上心配させないための嘘なのだ。
これは、自分自身に吐いた嘘でもあったかもしれない。




