幕間:コード・ガントレット
パチリ、と小さく爆ぜる焚き火の火の粉が、夜の帳を朱色に染め上げていた。
百年前、東へ向かう旅路の途上。冷たい夜風が吹き抜ける岩陰の野営地で、少年だったレンは、焚き火の明かりに両手をかざしていた。
十本の指先は、どれも見るも無惨に赤黒く腫れ上がっている。
魔法の素質を何一つ持たない無属性の落ちこぼれ。
それでも仲間たちの背中に追いつくため、生計を立てるため、少年は極細の頑丈な釣り糸を素手に巻き付け、荒れ狂う水辺の魔獣や怪魚を力任せに手繰り寄せてきた。糸の張力に耐えきれず、皮膚は幾重にも裂け、爪の根元からは絶えず血が滲んでいる。
「……痛えな」
少年が小さく呟き、泥だらけの布切れで血を拭おうとした、その時だった。
「当たり前でしょ、この大馬鹿あんぽんたん!」
怒声とともに、乱暴な足音が近づいてきた。オレンジ色のショートボブを激しく揺らし、真鍮の偏光ゴーグルを額に跳ね上げた女性――エレノアだった。重い工具を軽々と扱う引き締まった体幹、レンとほぼ変わらないすらりとした長身。彼女は仁王立ちで眉をつり上げ、豊満な胸元を包むタイトな耐火ワークウェアを揺らしながら、レンの目の前に膝をついた。
「ひっ……! な、なんだよエル、いきなり……!」
「なによじゃないわよ! 毎日毎日、素手に糸なんか巻き付けて! 指の骨が折れたらどうする気!? アンタが魚を釣ってくれなきゃ、誰があたしの焼き魚の骨を取ってくれるのよ!」
「そこかよ!?」
「そこよ! 大問題よ!」
エルは怒鳴り散らしながら、レンの手首をひっ掴んだ。声こそ荒々しかったが、その節くれだった細い指先を包み込む手つきは、まるで薄氷に触れるかのように信じられないほど優しかった。
作業用の清潔な布を道具袋から引っ張り出すと、傷口に沁みないようそっと息を吹きかけながら、指先にこびりついた乾いた泥と血の塊を丁寧に拭い去っていく。
家族を持たず、泥水の中で生きてきたレンにとって、その叱責の裏にある無骨で不器用な情愛は、焚き火の熱よりもずっと深く胸の奥を焦がした。
「……ほら、黙って手を出しなさい」
エルはまだ口元を尖らせながらも、腰のツールバッグの奥底から、真新しいひと組の装具を慎重に引き出した。そして、まるで弟の手に手袋を嵌めてやる姉のように、レンの両腕へ滑り込ませる。
黒革と無機質な真鍮、そして樹角族の集落で手に入れた変異巨獣のしなやかな生体腱を丹念に編み込んだ、異形の工学装具。レンの指の一本一本に吸い付くように、精密な金属リングと薄い腱の皮膜が滑らかに密着していった。
「……これ、手甲……? でも、指先が全部金属と革で覆われてるぞ……」
「ただの手甲じゃないわよ。あたしがアンタの糸の癖を何百回も観察して設計した、世界に一つだけの特注品――『十指魔導糸手甲』よ!」
エルは胸を張り、自慢げに人差し指を立ててみせた。
「聞きなさい。
親指は【結】――結節の強度を極限まで高める命綱アンカー。
人差し指は【断】――超高周波の摩擦振動で鋼鉄だろうと一瞬で断ち切る絶対切断。
中指は【貫】――剛芯を糸に通して神経を一撃で遮断する、アンタの得意な『活け締め』用。
薬指は【涸】――獲物の血を抜いて鮮度を保ち、魔力を吸い取る排液機構。
そして小指は【操】――放った糸を生き物みたいに遠隔誘導するための同調端子よ!」
レンは息を呑み、ゆっくりと十本の指を曲げ伸ばしした。驚くべきことに、指を厚い金属板で覆われている感覚は皆無だった。
極薄の生体腱の膜が、指腹の皮膚と完全に同化している。
焚き火の熱風が運ぶ微細な空気の対流、糸の極微小な振動、大気の湿り気――アングラーにとって何よりも命となる「指先の触覚」が、鈍るどころか、むしろ研ぎ澄まされて神経へと直接伝わってくる。
そして、糸を力任せに握り締めても、肉を裂くような激しい張力は内部のギアが完全に逃がし、指先には痛みの欠片すら走らない。
「すげえ……! 指が全然痛くねえ……! それに、糸の先の小さな震えまで、素手の時よりはっきり伝わってくる……!」
「ふふん、当然でしょ! 天才エル様を誰だと思ってんの!」
エルは誇らしげに八重歯を覗かせて笑い、レンの黒髪を両手でわしゃわしゃと乱暴に撫で回した。
レンは照れくさそうに身を縮めて顔を背けながらも、鼻の奥をツンとさせ、唇を結んで嬉しさを噛み締めていた。そんな少年の横顔を見つめるエルの双眸には、からかいの奥に、どこまでも深く温かい家族の祈りが宿っていた。
「いい? レン。道具ってのはね、誰かを痛めつけるためにあるんじゃないの。アンタが怪我をせず、美味い魚をいっぱい釣って、あたしたちみんなで腹一杯飯を食うためのものなのよ。……だから、もう二度と血まみれの手で飯を食おうなんてすんじゃないわよ!」
『みんなで笑って暮らせる、あたたかい世界』。あの夜、焚き火の向こうで笑っていた彼女の顔は、少年にとって世界で最も眩しい光のひとつだった。
――それから、百年が流れた。
「…………」
赤褐色の天蓋の下、カルデラ外輪山の黒煙の稜線に、一人の青年が音もなく佇んでいた。
肉体年齢20歳のまま凍りついた身体。感情の起伏を示す表情筋の動きが完全に消失した、絶対零度の死人の能面。魔王――レン。
青年の両腕を覆っていたのは、かつてあの夜に手渡された、温かな真鍮の手甲ではなかった。
祝勝晩餐会の夜、エルが自爆し、ダンカンが盾となって果て、クラリスが命を燃やし尽くして絶命した夜。
レンの底知れぬ絶望と先代魔王の呪悪を呑み込み、生体金属化して禍々しい黒金の鉤爪へと歪に肥大化した異形の爪――『禍刻の十指魔手甲』。
かつて魚の鮮度を保つために作られた薬指の【涸】は、戦場全域から水分とマナを吸い尽くして大地を白灰に変えるミイラ化更地魔導『大赤潮(万象涸渇)』へと凶悪に反転した。
魚の延髄を締めて苦しませずに命をいただくために作られた中指の【貫】は、不可視の極細鋼線で数千人の軍勢の延髄を一瞬で落とす『百式断髄』へと変異した。
仲間を守るための道具が、世界を終わらせる絶対の虐殺兵器へと成り果てていた。
「……ヴォルク」
感情のない、平坦な声が虚空へ落ちる。背後に控えていた灰翅族の巨躯の鳥人が、畏怖を込めて深々と頭を垂れた。
「ハッ。先遣隊が下層街へ突入、ブラント家の対空迎撃網を炙り出しました。中央溶鉱炉、および重砲弾頭の製造プラントの座標、すべて補足完了しております」
「そうか」
レンは胸元に埋め込まれた、哀しく澄み渡る真紅の結晶――『真紅の魔核』を一瞥することもなく、黒革のローブの懐へと静かに左手を差し入れた。
指先が触れたのは、小さな歪んだ金属の輪。百年前、帝都で爆散したエルの工房跡から、レンがただ一つだけ拾い上げた、煤けてひび割れた丸眼鏡だった。
冷え切った指先で、壊れたレンズの輪郭をそっと撫でる。
心臓は脈打たず、涙も流れない。ただ、胸の奥底の冷たい空洞に、かつての言葉だけが木霊していた。
『痛いのを我慢して戦うなんて、絶対にバカのすることなんだから!』
「……お前の言う通りだ、エル」
死人の唇が、小さく動いた。
「痛みを我慢する必要は、もう何もない。……世界ごと、すべてを平らに均してしまえばいい」
レンは懐から手を引き抜くと、鋭利な黒金の鉤爪を、眼下に広がる軍需都市ヘパイストスへと無機質に向けた。
「……作業を、始める」
絶対零度の災厄が、炉壁の都市へ向けて静かに指先を振り下ろした。
(第三節へ続く)
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