序章:其の三『最果ての水辺、散りゆく祈り』
帝都の外郭門を抜け、暗夜の荒野を駆け抜けて、どれほどの刻が流れただろうか。夜明け前の冷え込みが大地を包み込む頃、二人が辿り着いたのは、帝国の勢力圏外との境界に横たわる広大な沼沢地――『霧沈の沼』だった。立ち込めるのは、枯れた葦と腐植土が醸し出す重たい泥の匂い。
水深は浅いが、底には足首を吸い込む粘土質の泥濘が広がり、水面には白く重たい朝霧が蛇のように職回っている。風が吹くたび、背丈を超える枯れ葦の群生が乾いた擦過音を立て、視界を白く遮っていた。
ここは、かつて辺境の孤児だったレンが、命を繋ぐために泥水をすすりながら粗末な仕掛けで魚を追っていた原点だった。
そして――かつて帝国の看板として祭り上げられた「偽りの聖女パーティー」の飾り神輿として担ぎ出され、魔獣の群れを前に真っ先に見捨てられて泥水に沈んでいた少女を、レンがその鋼糸で水底からすくい上げ、命を救った運命の場所でもあった。
「……は、ぁ……っ、ふ……」
レンは泥濘に足を取られながら、生い茂る葦の根本、冷たい夜風が遮られる小高い土手へと少女をそっと横たえた。
背後を振り返る。
エルの工房を呑み込んだ炎も、ダンカンが仁王立ちで塞ぎ止めた外郭門の地鳴りも、数刻に及ぶ逃避行の末に遥か地平の彼方へと置き去りにしてきていた。ダンカンが命を削って稼ぎ出してくれた半夜の猶予によって、帝都の追手は完全に撒いたはずだった。
「クレア……大丈夫か?」
レンが震える手でその頬に触れた。
クラリス・フォン・シルフィード。教会の祭壇の上で、あるいは帝国の貴族たちの前で彼女を縛り付けるその仰々しい名ではなく、出会ったあの日、焚き火の傍らで「二人だけの時だけでいいから、そう呼んでほしい」と少女が恥ずかしそうに乞うた、愛おしい本当の名。
少女の皮膚には、微かな温もりが戻り始めていた。
帝都の大聖堂を満たしていた『聖毒』の濃厚な香油から距離を置いたこと、そして過酷な魔大陸を生き抜く中で培われた生命力が、驚異的な粘りを見せていたのだ。
首筋の『聖別印』から広がっていた黒紫色の血管は、その毒々しい色をわずかに薄め、喉元を塞いでいた激しい吐血も収まっている。
「……ん……っ、れん……」
掠れた、だが確かに輪郭を持った声が、少女の薄い唇から零れ落ちた。
ゆっくりと開かれた菫色の瞳が、夜霧を透かして青年を見上げる。
視界に映ったレンの顔は、泥と血煙に塗れ、今にも泣き出しそうなほど歪んでいた。過酷な戦場でも決して弱音を吐かなかった青年が、まるで自分の命を削り取られたかのように痛ましげに眉を寄せ、必死に恐怖を押し殺して自分を見つめている。その不器用で、どこまでも温かい眼差しに触れた瞬間、少女の胸の奥に安堵の熱が満ちていく。
「レン……わたし、生きて……る?」
「ああ、生きてる。息も落ち着いてきた。毒が少しずつ抜けてるんだ。……撒いたよ、クレア。ダンとエルが、道を繋いでくれた」
レンは自分の荒れた指先で、彼女の額に張り付いた白銀のシルキーストレートの髪を優しく払った。
立ち上がり、周囲の情景へ鋭い視線を走らせる。
朝霧の切れ目、東の空の低い位置に、かすかに白み始めた稜線の影が見えていた。右手には、かつて魚の通り道として頭に叩き込んだ蛇行する旧水路の澪筋。冷たい風は北西から吹き抜け、帝都の方角から立ち上るはずの硝煙も、追手の掲げる魔導松明の光芒も、この深い霧の帳の向こうには一切見当たらない。地形の起伏と風の流れを読み解くアングラーの感覚が、二人が確実に帝国の防衛境界線を越え、哨戒網の外縁へと抜け出たことを告げていた。
この沼沢地を抜ければ、追撃部隊の索敵範囲を完全に脱することができる。
そこからさらに南へ数日下れば、二人が夢見た、帝国の掟も貴族の欲望も届かない「誰も知らない海」へ辿り着けるはずだ。
エルとダンカンを喪った喪失感は胸を引き裂くほど痛かったが、それでも「二人だけでも生き延びられるかもしれない」という切実な希望の光が、レンの胸に微かに灯りかけていた。
「海……行けるかな、レン」
少女がそっと、震える右手を伸ばした。
レンは迷わず膝をつき、泥に汚れた自らの両手で、その冷たく小さな掌を包み込んだ。
ただ握るだけではない。まるで二人の命の輪郭を確かめ合い、二度と引き離されないように祈るように、指と指を深く、硬く絡め合わせる。伝わってくるのは、荒削りな青年の体温と、それに寄り添う少女の微かな脈動。二人の祈りが、泥濘の中で一つに溶け合っていくようだった。
「行ける。絶対に行けるさ。俺が連れて行く」
クレアの口元に、ふわりと、いつもの穏やかな微笑みが浮かんだ。
彼女は胸元、かつて渓谷の夜営地でレンが鋼糸で編んで贈ってくれた青い小石の首飾りに、もう片方の手をそっと重ねる。
その奥に隠された小さな革ポーチ――そこには、今日がレンの二十歳の誕生日であることを祝うために、彼女が旅の合間に手作りした『木製のルアー』が大切にしまわれていた。
レンが削り出した荒削りの木片に、クレアが小さな筆で愛らしい黒い瞳を描き込んだ、世界に一つだけの宝物。
(海に着いたら、渡すんだ……。「お誕生日おめでとう」って、笑って言うんだ……)
――だが。その小さな、ささやかな祈りを冷酷に切り裂くように、朝霧の奥から重い蹄の音が泥を跳ね上げて近づいてきた。
「追いついたぞ、下民の勇者よ」
霧のカーテンを押し分けて現れたのは、帝国の高級貴族たるシルフィード伯爵だった。
そしてその背後には、教皇庁との密約によって貸与された、銀色に輝く甲冑で身を固めた教会親衛騎士団の精鋭が扇状に散開し、無音のまま間合いを塞ぎにかかる。
「なっ……!?」
レンの息が止まった。撒いたはずだった。帝都からここまで、足跡を消すために水路を選び、風下を縫うようにして泥濘を疾走してきたのだ。なぜ、この広大な沼沢地の、それも二人が潜む葦原の場所を寸分の狂いもなく捕捉できたのか。伯爵は馬上から、レンの絶望と戦慄を愉しむように薄笑いを浮かべた。その手に掲げられていたのは、淡い魔導光を明滅させる真鍮の羅針盤――神聖術探知儀だった。
「貴様は我がシルフィード家の血を引くその娘の首筋に、何が刻まれているか忘れたのか?」
伯爵の底冷えする侮蔑の声が、葦の葉を揺らす。
「その『聖別印』は、神樹イグニス・アルボルの根幹マナと直接同調する霊的楔なのだよ。どれほど泥に潜ろうと、我が手元の探知儀から逃れる術など、この大陸のどこにも存在せぬわ」
「貴様……ッ!」
レンの血が逆流した。
最初から、逃げ場など用意されていなかったのだ。
エルが工房を爆破して散ったのも、ダンカンが門の真ん中で仁王立ちして命を捨てたのも、すべてはこの男の手のひらの上で嘲笑われていたというのか。
「あの野良犬の狂戦士が門で死に損ないの壁になったせいで、少々時間を浪費させられたがな。……帝立教会の神聖なる生贄を回収せよ。反逆者の首は叩き落とし、帝都の外郭門へ見せしめに吊るせ」
伯爵の冷徹な号令とともに、教会の親衛騎士たちが一斉に抜刀し、泥濘を蹴立てて包囲を縮める。
「クレア、後ろにいろッ!」
レンは泥を蹴り、少女を背に庇って十指の魔導手甲を構えた。
だが――右手の指先から放たれたはずの【断】の極細鋼糸が、わずか数メートルの空中で力を失い、泥水の上へ力なく垂れ落ちた。
全身の筋肉が、まるで鉛を流し込まれたように重く軋む。
数刻に及ぶ限界を超えた全力疾走、そして先代魔王レヴィアの心臓を介錯した際、全身に浴びた高濃度の排液と呪詛のマナが、青年の肉体を完全に蝕み切っていた。
潮目を読むはずの視界が二重、三重に歪み、立ち上がることすら覚束ない。
「死ね、下民が!」
先頭の騎士の魔導剣が、閃光となって振り下ろされた。レンは躱そうとしたが、泥濘に足を取られ、体勢が崩れる。銀閃一過。深い斬撃がレンの左肩から胸元を斜めに切り裂いた。
「が、あッ……!?」
鮮血が霧の中へ飛散する。
間髪を入れず、左右から繰り出された刃が、レンの脇腹、太腿、そして背筋を無残に貫き抜けた。
骨を削る鈍い音。
焼けるような激痛の果てに、レンの全身から熱い血が泥水の中へと際限なく吐き出されていく。
「レンッ……!!」
クレアの悲鳴が夜気を引き裂いた。
膝をつき、泥水の中へ突っ伏したレンの視界は、自らの血で真っ赤に染まり、急速に光を失っていく。
(……ここまで、なのか……。ダン……エル……俺は、クレアを……)
その血だまりの中へ、泥を蹴ってクレアが身を投げ出した。
彼女は冷たい泥水に膝をつき、瀕死のレンの上へと覆い被さるようにして抱きしめた。
「おやめなさい、クラリス」
馬上の伯爵が、無感動に鞭の先を向けた。
「その男はもう死ぬ。神樹のために命を温存せよ。これ以上見苦しく足掻くなら、その下民の首を即座に叩き落とさせるぞ」
クレアはその声を、完全に拒絶した。
彼女の瞳から大粒の涙が零れ落ち、レンの血塗れの頬を濡らす。
(嘘つき……嘘つきです、レン……)
今日、この水辺で伝えるはずだった言葉。
二人で迎えるはずだった、青年の二十回目の誕生日。
泥の底で息絶えようとしている青年は、かつて偽りの聖女として遺棄され、孤独の底に沈んでいた自分に「生きる温もり」をくれた、たった一人の光だった。
「……ごめんね、レン」
クレアの掠れた唇が、レンの冷えゆく耳元で小さく囁いた。
「約束……守れそうに、ないや」
少女が、胸元にある七色のペンダント――『星彩の誓石』を、両手で固く握りしめた。
その瞬間、首筋の『聖別印』の呪縛を己の魂ごと強引に破断させ、少女の瞳孔の奥深くに――夜明けの水平線のような、神々しくも透き通る【黄金の光芒】が静かに灯った。
それは、教会の神聖術などという枠組みを遥かに超越した力だった。
自らの魂と寿命、残されたすべての生命力を燃料として一瞬で完全燃焼させる、不可逆の【最後の奇跡】。
クレアの全身から、夜の沼沢地を白昼のように照らし出す、圧倒的で清らかな光の奔流が立ち昇った。
「クラリス……ッ!? 貴様、何をする気だ!!」
馬上の伯爵が初めて顔色を変え、叫んだ。
「生きて……どうか、生きてください……。レン」
クレアの両手から溢れ出した黄金の光粒が、レンの胸、腹、四肢に穿たれた致命の傷口へと吸い込まれていく。
切断された筋繊維が超常の速度で編み直され、砕かれた骨が結合し、失われた血液が熱を持って全身を巡り始める。
だが、それは奇跡の代償として、クレア自身の命の灯火が、一滴残らずレンの肉体へと注ぎ込まれていることに他ならなかった。
「やめろ……クレア……っ! やめてくれ……!!」
レンは叫ぼうとしたが、喉から溢れるのは涙と嗚咽ばかりだった。
光の中で微笑むクレアの姿は、恐ろしいほどの美しさを保ったままだった。
髪が枯れることも、肌が老いることもない。
出会ったあの日と同じ、透き通るような白銀の髪と陶器のような白い肌のまま、ただ純粋に、彼女をこの世に繋ぎ止めていた生命力そのものだけが、静かに天へと溶けていく。
黄金の光が収束し、レンの致命傷は完全に消え去っていた。
奇跡を注ぎ終えたクレアの身体が、ゆっくりと力を失い、レンの腕の中へ倒れ込む。
だが、その瞳からは、まだ微かな光が失われていなかった。
残された魂の最後の熱を振り絞るように、少女は震える指先で首から七色のペンダントを外すと、レンの血塗られた掌の中へそっと握らせた。
「海……見たかったな」 途切れ途切れの、だが愛おしさを余すことなく込めた囁きが、夜風に溶けていく。
「青くて、広くて……レンと二人で、ずっと……」
少女の瞳から、一筋の透き通った涙が零れ落ち、レンの手の甲を濡らした。そして、愛する人を救い切った者だけの、この世で最も穏やかで優しい微笑みをその唇に刻み――
「……わたしの、最初で最後の……愛してる人」
その言葉を最期に、クレアの瞳から光が静かに溶け去り、胸の微かな上下が、永遠に止まった。
抱きしめた身体は、息絶えてなお清らかで美しい姿のまま、冷たい夜気の中へと静かに沈んでいった。
「ちっ……忌々しい小娘めが。己の魂を焼き潰して死ぬとはな」
馬上のシルフィード伯爵の冷酷な舌打ちが、沼沢地の静寂を冒涜するように響いた。
「だが、死体であっても神樹の苗床としての触媒価値はある。……骸を回収しろ。その下民の首は、今度こそ確実に叩き落とせ」
騎士たちが再び魔導剣を構え、無造作に泥を踏み荒らしながら近づいてくる。クレアの冷たい亡骸を抱いたまま、レンは動かなかった。
叫びも、涙も、慟哭すら出なかった。
呼吸の音すら消え失せ、青年を包む大気の温度が、一滴ずつ、絶対零度へと堕ちていく。
握りしめた掌の中――七色の光を放っていたはずの『星彩の誓石』が、少女の命懸けの愛と、青年の中に眠る暗き深淵に触れ、不気味な脈動を刻み始めていた。
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