第四十六話:『因果の糸と救済の聖剣』第二節:誰も犠牲にしない誓い
「……やめろ」
青年の喉から落ちたのは、悲鳴にも似た掠れた呟きだった。
両足が凍りついたように動かず、それでも青年は、胸元へ直結した真紅の糸を左手で強引に引き千切ろうと、爪先を軋ませて後ずさる。
「見せるな……そんなものを……ッ! 俺たちだって……俺たちだって、そうだったんだぞ……!」
声が震えていた。
怒鳴り散らすことすらできない、胸の奥底に溜め込んできた血の混ざった慟哭。
魔王として世界を平らに押し潰すための大義名分――「人間など誰もが他者を踏み台にする醜悪な屑だ」という冷徹な防壁が、アリアたちの記憶に触れたことで粉々に砕け散っていた。
「俺たちだって……あんな風に、泥水をすすりながら笑い合っていたんだ……! なのに……俺が守れなかった……! 俺が弱かったせいで、ダンも、エルも、クレアも……全部死んだんだ……ッ!!」
青年の膝が、ガクガクと崩れかける。
百年間、世界を更地に均すことでしか保てなかった心の帳が剥がれ落ち、冷たい大理石の床の上で、ただ大切な仲間を奪われた二十歳の少年が、一人きりで泣き叫んでいた。
「見せるなよ……! そんなもの見せられたら……俺が、俺たちがやってきた百年間が……全部、ただの馬鹿みたいじゃないか……ッ!!」
その痛切な自嘲が神殿に木霊した瞬間、因果の糸を通じて逆流する激痛の重圧に、アリアの華奢な膝が折れかけた。
百年の孤独の重さは、生身の人間の精神が耐えられる限界を遥かに超越していた。
アリアの視界が暗転しかけ、神刀を取り落としそうになった、まさにその刹那――
「倒れんじゃないよ、アリアッ!!」
血塗れの咆哮が、アリアの背中を叩いた。
リンが砕霊甲の軋む腕でアリアの肩を抱き止め、八重歯を剥き出しにして前を睨みつける。
「あたしたち全員でここまで来たんだ! 目の前の男一人救えないで、何が新星勇者だッ!!」
「因果の逆流による脳圧上昇、僕の数理でバイパスします……ッ!」
折れた魔導杖を床に突き立て、ルシアンが血を吐きながら『アストロラーベ・ワンド』の天体環を逆回転させた。
アリアの頸椎に走っていた過負荷の術式コードが、ルシアンの四元素結界へと強引に逃がされ、青年の白い頬に痛々しい亀裂が走る。
「前だけを見なさい、アリア殿下! 貴女のその愚直な熱量だけが、あの人をあの暗闇から引きずり出せる唯一の解だ……ッ!!」
「クラリス様……どうか、レン様をお救いください……!」
フィリアが砕け散ったファンネルの最後の光粒をかき集め、アリアの足元へと翠玉の命の息吹を注ぎ込んだ。
仲間の手が、声が、魂が、アリアの身体を支え上げる。
アリアは息を呑み、ゆっくりと、だが二度と揺らがぬ力強さで顔を上げた。
頬を伝う大粒の涙は、もはや痛みに耐えかねた弱さの雫ではなかった。
青年の抱えてきた底なしの悲哀も、絶望も、血を吐くような後悔も、そのすべてを自らの両腕で抱きとめ、必ず救い出してみせるという不退転の祈り。
菫色の瞳の奥に灯ったのは、暗夜を切り裂いて黎明をもたらす、至高の星の光彩だった。
悲しみを力へと転化させ、少女は両足でしっかりと黒氷の床を踏み締める。
握りしめた真紅の糸が、アリアの脈動と呼応して青白い光条を帯びて唸りを上げた。
「馬鹿なもんかッ!!」
響き渡ったのは、星が選んだ救世の勇者の叫びだった。
神話の絵画から抜け出してきたかのような息を呑む美貌の奥底から放たれる、冬の早朝の氷を打ち砕く清水のように澄み渡り、凛とした気高き声。
「あんたのやってきた破壊を、綺麗事で全部許すなんて言わないわよ! 帝都を更地にして、世界中を恐怖で凍りつかせたその罪は……あんたが一生背負わなきゃいけないものよ! だけどね――!!」
アリアは力強く、青年へ向けて踏み出した。
「あいつらとの約束を守りたくて……あいつらの笑顔を守るために、たった一人きりで、泣きながら百年間耐え続けてきたあんたの生き様を……あたしは絶対に、否定なんかしないッ!!」
青年の漆黒の瞳が、信じられないものを見るように見開かれた。
同情ではない。
断罪ではない。
泥にまみれ、同じように理不尽な世界と戦い抜いてきた新世代の勇者だからこそ放てる、青年の百年の苦闘に対する、魂からの完全な肯定。
「あんたは弱くなんかない! 誰よりも優しくて、誰よりも仲間を愛していたから……だから、こんなにボロボロになるまで止まれなかったんでしょッ!?」
瞬間、神殿を満たしていた冷気の風が、ふっと凪いだ。
大気中の荒ぶるマナが静まり、水底に落ちたひとしずくの露が広がるような、完全な静寂が訪れる。
背後の永久氷晶――『ステシス・クリスタル』が、淡く温かな黄金の光を放ち始めていた。
氷の中で眠る少女の遺骸が、光の粒子をふわりと周囲へ散らす。
アリアの首元の『星彩の首輪』が限界を超えて七色に輝き、その光条がアリアの神刀の刃へと吸い込まれていく。
そして――静まり返る氷晶宮に、透き通るような声が響いた。
アリアの気高く凛とした声に、重なるように。
永久氷晶の深奥から、春の陽だまりのように柔らかく、すべてを慈しむようなソプラノの調べ――百年間、どれほど禁忌の術理を貪り尽くそうと二度と聞くことの叶わなかった、初代聖女クラリスの言霊が、美しい二重唱を奏でたのだ。
『――もう、いいのよ、レン』
青年の全身が、雷に打たれたように硬直した。
「……っ!?」
幻聴であるはずがなかった。
この世のあらゆる法則を更地に均してでも、魂を探し出し、引っ張り戻すと狂気の中で焦がれ続けた、世界でたった一つの温もり。
青年の漆黒の瞳孔が、息を呑むような驚愕に見開かれる。
大理石のように強張っていた表情が激しく崩れ、信じられないものを見つめるように、そして――暗闇の底でようやく最愛の光を見つけ出した幼子のように、その顔筋が安堵と痛切な哀傷に歪んだ。
『あなたは十分に戦ったわ。……あの子たちの言う通りよ。もう、一人で世界を背負わなくていいの』
「もう終わりにしなさい、レン! あいつらが待ってる場所へ……あんたが本当に目指したかった、あの約束の海へ、あたしたちが連れて行ってあげるからッ!!」
青年の唇が、小さく震えた。
光を反射しなかった漆黒の瞳の奥、百年間決して流れることのなかった涙が、ひとすじ、ふたすじと、青白く引き攣った頬を伝って零れ落ちた。
「……あ……、クレア……見つけた……見つけたよ……っ」
青年の手甲の鉤爪から、完全に力が抜けた。
もはや世界を拒絶する刃は存在しない。
魔王の呪縛が完全に解け去り、そこにはただ、迎えに来てくれた光を前にして、泣き笑いのような表情で立ち尽くす一人の青年の素顔があった。
胸元の『真紅の魔核』が、激しい拒絶の明滅を止め、息を呑むほど透き通った、痛切なまでに清らかな朱色の輝きとなって、静かにその身を晒していた。
(第三節へ続く)




