第四十六話:『因果の糸と救済の聖剣』第一節:濁流の記憶、百年の渇き
不可視だった魔導糸が、二人の心臓を結ぶ鮮烈な真紅の導線へと転じた瞬間、神殿の輪郭が音もなく掻き消えた。
床も、壁も、頭上にそびえる氷晶の天蓋すら存在しない。
アリアの網膜を焼き尽くしたのは、言語というフィルターを介さずに直接脳髄へと叩きつけられる、圧倒的な質量を持った「百年の記憶」の濁流だった。
(っ……あ、ぐ……ッ!?)
頭蓋の奥で血管が破裂するかのような激痛。
アリアの小さな身体が、目に見えぬ奔流に打たれて大きく軋む。
流れ込んできたのは、冷たい大理石の玉座で、たった一人で世界を均し続けてきた青年の、凍てつくような漆黒の視界そのものだった。
――雨が降っていた。
鉄の錆びた臭いと、焦げた肉の脂の臭いが混ざり合う、息の詰まるような豪雨の夜。
帝都の外郭大門。
泥水に塗れた石畳の上で、無数の槍衾と矢の雨をその分厚い肉体に受け止め、仁王立ちのまま絶命していた巨漢――ダンカン。
その鋼鉄の大盾は半ばから叩き折られ、血反吐に塗れた口元は、追撃を食い止め切った満足感のまま、かすかに歪んで固まっていた。
――火の海が広がっていた。
帝立アカデミーの追っ手を道連れにするため、自らが愛した工房の魔導炉を過負荷暴走させた夜。
崩れ落ちる瓦礫と黒煙の向こう側、煤だらけの顔で、眼鏡の奥の瞳を悪戯っぽく細めていた女性――エレノア。
「あたしの人生の最高傑作は、兵器なんかじゃない! 世界中のどんなデカい魚も、絶対に釣り上げなさいッ!!」
そう叫んで笑った姉貴分は、最後に振り返ることもなく、高濃度の火炎魔導の中に自らの命を呑み込ませていった。
そして――何よりも痛切にアリアの魂を引き裂いたのは、帝国の勢力圏外、夜明け前の冷え込む葦原――『霧沈の沼』の冷酷な静寂だった。
泥水に塗れた土手の上。
二十歳を迎えたレンの腕の中で、陶器のように青白く冷え切っていく少女の温もり。
致命傷を負ったレンの命を繋ぎ止めるため、初代聖女クラリスは、自らの残された寿命と霊魂のすべてを燃やし尽くし、『最後の奇跡』を行使したのだ。
「……生きて、レン。……生きて、海を……」
こと切れたクラリスの胸元から、かつて二人が誓い合った七色のペンダントが滑り落ちる。
その美しい結晶は、絶望に哭く青年の流した血を吸い上げ、先代魔王の残滓を調律しながら、息を呑むほど透き通った『真紅の魔核』へと反転していった。
魔大陸へ渡り、魔王の力を手に入れた青年は、狂ったようにあらゆる禁忌の術理を貪り尽くした。
大気のマナを注ぎ込み、因果の糸を編み直して彼女の心臓を動かそうとした。
だが――どれほど至高の蘇生魔導を施そうとも、冷え切った少女の身体に熱が戻ることは二度となかった。
彼女の魂は、青年を生かすための代償として、すでに輪廻の彼方へと完全に燃え尽きていたのだ。
『――この世に魂がないのなら、世界中を壊してでも魂を探し出し、引っ張り戻す』
どんな理を尽くしても彼女を連れ戻せない絶望の底で、青年の魂は完全に狂気に染まった。
魂を取り戻す術がこの世界の法則にないのなら、世界の枠組みそのものを平らに押し潰して更地にするしかない。
怒鳴ることも、狂笑することもなく。
ただ、死んだ仲間たちの笑顔を守るために。
クラリスに約束の海を見せるという、たった一つの狂気じみた約束を果たすために、青年は心を殺し、感情を氷漬けにして、百年間淡々と予定表を消化し続けてきた。
どれほどの孤独だったか。
どれほど、喉が裂けるような渇きだったか。
誰にも弱音を吐けず、自分を罰するように冷たい玉座に縛り付けられ続けた百年の年月。
アリアの目から、とめどなく涙が溢れ出していた。
痛い。
胸が張り裂けそうに苦しい。
これほどの暗闇を、この人は、たった独りで歩んできたのか。
だが――。直結した因果の糸は、一方通行のパイプラインではなかった。
「……っ、ぐ……!?」
青年の喉から、短く息を呑む音が漏れた。
レンの意識の奥底へ、今度はアリアたちの記憶が、火傷しそうなほどの熱量を孕んで猛烈に逆流していたのだ。
帝都スラムの埃っぽい空気。
地下闘技場で、身分をかなぐり捨ててリンと素手で顔面を殴り合い、ダブルノックダウンの末に泥まみれで大笑いした瞬間。
大衆食堂の油染みた木の長机。
昔話盛りの麦飯を囲み、焼き魚の骨が喉に刺さって涙目になるアリアを、ルシアンが小言を並べながら介抱し、リンが豪快に背中を叩く日常。
そして――大聖堂の地下深く、二代目の生贄として使い潰されかけていたフィリアの華奢な手を、国家の軍勢を敵に回してでも力づくで引き戻し、四人で抱き合って涙を流した夜。
「な……んだ、これは……ッ!?」
レンの身体が、よろめくように後退した。
漆黒の双眸が、激しい眩暈を覚えたかのように大きく見開かれる。
魔王として世界を更地に均すため、青年が胸の奥に打ち込んできた絶対の楔――「人間は都合が悪くなれば仲間を裏切り、生贄にして使い潰す醜悪な生き物だ」という諦念。
その大義名分が、流れ込んでくる新世代の記憶の前に、ガラガラと音を立てて砕け散っていく。
目の前にいるのは、かつての自分たちだった。
貧しく、泥だらけで、国家に追われながらも、誰一人として仲間を見捨てず、誰も生贄に捧げることなく、命を預け合ってここまで歩んしてきた四人の姿。
「……あ……っ」
百年の氷が、ついに決壊した。
大理石のように血の気の失せていた青年の頬に、耐え難い感情の熱が朱となって差し込む。
表情筋の麻痺が解け、眉根が激痛に耐えるように痛々しく引き絞られ、薄い唇が子供のように小刻みに震え出した。
光を一切反射しなかった漆黒の瞳孔の奥に、激しい困惑と、胸を引き裂くような切なさが、生々しい人間性の光となって揺らめく。
手甲から伸びる真紅の糸が、青年の指先ごと激しく震えていた。
それは魔王の威厳などではない。
ただ大切な人を喪い、暗闇の底で途方に暮れていた、あの日と同じ「二十歳の少年の顔」だった。
「なぜ、お前たちは……仲間を裏切らず、使い潰さずに、ここまで笑っていられたんだ……ッ!?」
擦れ、震えるその声には、かつての冷酷な平熱など、もうどこにも残されていなかった。
(第二節へ続く)




