第四十四話:『四重奏の攻防』 第三節:反転の切先
青年の小指が、わずかに跳ねた。
水中の獲物に誘いをかける、釣り師の繊細極まるジャークの所作。
ただそれだけの指先の跳躍が、神殿全域の大気を切り刻む狂乱の境界線へと変貌させた。
神殿の側壁に突き刺さっていた『黒骸の断罪柱』の外殻から、甲高い破断の気配とともに、十数基の黒鉄製ブレードが一斉に剥離する。
かつて魔導技師エルが青年と共に夢見て鋳造した、魚を模した金属ルアー――メタルジグの成れの果て。
不可視の【操の糸】に引かれた黒鉄の群れは、飢えた肉食魚のナブラそのものとなって、全方位から不規則な超高機動の跳弾軌道を描き、虚空を乱舞した。
――『十凶殲刃・貪食の群れ(ブラック・スクール)』。
刃の雨が、アリアの全身を四角四面から挟み撃つ。
玉座へ踏み込んだアリアの神刀の切先が、レンの首筋を捉えるよりも速い。
一太刀を届かせる代償に、全身を数千の細片へと削ぎ落とされる絶対の死線。
「アリアッ!!」
叫びと共に割り込んだのは、血煙を纏った赤銅色の影だった。
全身の筋繊維を軋ませながら跳躍したリンが、両脚のスラスターを逆噴射させてアリアと青年の間に割って入る。
腰背部から旋回させた『緋金の尾刃』と、両腕の『緋金剛・砕霊甲』を連動させ、死角から殺到する黒鉄のジグを力任せに打ち払った。
火花が激しく散り、砕けた真鍮の破片が氷面を走る。
だが、音速を超える不規則な跳弾を、生身の格闘家がすべて防ぎきれるはずもなかった。
迎撃の網をすり抜けた二基のブレードが、リンの太ももと脇腹を深く抉り去る。
鮮血が霧となって舞い散り、リンの身体が激痛に大きく傾いだ。
「リンッ――!?」
「振り返るなッ! 前を見ろ、アリアッ!!」
鮮血に濡れた口元から八重歯を剥き出しにし、リンは激痛を怒号でねじ伏せて叫んだ。
その仲間の血と咆哮が、アリアの踏み込みを加速させた。
全身の毛細血管を巡る『蒼血』が、青白い光条となってアリアの瞳を染め上げる。
首元の『星彩の首輪』が、激しい熱を帯びて七色に脈打った。
アリアはリンの背中を飛び越え、残された全膂力を神刀の切先へと凝縮させる。
『蒼水神刀 アルビオン・レガリア・改(真打)』。
水流のように滑らかな弧を描き、一切の躊躇を捨てた刃が、青年の喉元へ寸分の狂いもなく吸い込まれた。
しかし――。
青年の左手が、わずかに引かれた。
壁面に突き刺さっていたはずの巨大な断罪柱が、空間そのものを手繰り寄せるように青年の前へと瞬時に引き戻されていた。
アリアの渾身の一撃が、吸い寄せられるように柱の漆黒の装甲へと激突する。
その瞬間、断罪柱が弓なりにしなった。
内部に潜むエルの超高精度リールが、摩擦熱の白煙を噴き上げながら、限界ドラグの軋みを激しく立てる。
アリアが放った『蒼血』の運動エネルギー、神速の刃の衝撃のすべてが、柱の弾性へと一瞬にして吸収・蓄積されていく。
――『虚空歪曲・天災の跳ね返し(カタストロフ・リジェクト)』。
蓄積された衝撃が、倍返しの黒炎衝撃波となってアリアへと解き放たれた。
大気が破裂するような圧縮空気の暴風。
アリアの華奢な身体が木の葉のように吹き飛ばされ、神殿の天井へ向けて放り出される。
「アリア殿下ッ!」
側壁の瓦礫に埋もれていたルシアンが、血を吐きながら折れかけた魔導杖を振るった。
「――『真空の減速網』ッ!」
空中に幾重もの空気の層が編み上げられ、吹き飛ぶアリアの背中を辛うじて受け止めて床へと滑り落とす。
黒氷の床面を滑走したアリアは、神刀の切先を突き立てて辛うじて踏みとどまった。
刀を握る両腕は完全に痺れ、口元から血が垂れ落ちる。
骨折の激痛に蹲るルシアン。
血塗れの太ももを押さえ、荒い息を吐くリン。
そして、砕かれた二基のファンネルの反動に耐え、唇を噛み切って立ち尽くすフィリア。
新星勇者カルテットの全力を注ぎ込んだ連携すら、青年に一歩の後退すら強いることができなかった。
圧倒的な敗北の影が、四人を塗り潰そうとしていた。
だが――。
血に滲む瞳を凝らし、前を見据えていたルシアンの眼鏡の奥で、知性の光が鋭く瞬いた。
アリアの捨て身の一撃をドラグで受け流した、まさにその刹那。
激震によって裂けた断罪柱の外殻――ダンカンの八角装甲の隙間から、内部の構造が白日の下に晒されていたのだ。
「……見えました……ッ!」
ルシアンが血を吐き捨てながら、叫び声を絞り出した。
「あの柱は……単なる魔導兵器ではありません! 三つの因果が、幾重もの層となって重なり合っている……ッ!」
「……え……?」
肩で息をするアリアが、視線を走らせる。
「最外殻は、ダンカン氏の遺した金砕棒を鍛え直した漆黒の盾装甲! その奥でドラグを調律しているのは、エレノア氏が命と引き換えに遺した超精密魔導リール! そして……最深の芯に眠っているのは……百年前、四人が泥水の中で分かち合った、あの素朴な釣り竿です……ッ!!」
ルシアンは荒い呼吸のまま、胸を押さえて言葉を継いだ。
「あの人の肉体をどれほど狙っても無駄です! あの柱がすべての衝撃を吸い上げ、理不尽に反射し続ける限り、僕たちの刃は絶対に届かない! ……それだけじゃない。あの人は、あの柱という過去の棺桶の中に、自らの魂ごと閉じこもっているんだ……!」
神殿の空気が、凍りついた。
青年は、魔王となって世界を更地に均しながらも――
かつて命を預け合った仲間たちとの思い出を、その杖の最深部に隠し、ダンカンの盾で外敵から守り続けていたのだ。
それは外敵を拒絶する絶対の防壁であると同時に、自らを苛み続ける絶望の檻そのものだった。
「……そうか」
アリアの唇から、震える声が漏れた。
口元の血を手の甲で無造作に拭い、少女はゆっくりと立ち上がった。
神刀の切先が、青年の心臓ではなく、自律浮遊する漆黒の柱へと据え直される。
「狙うべきは、レンの命じゃない。……あいつを百年間縛り続けている、あの哀しい棺桶そのものよ……ッ!!」
アリアの瞳に、迷いのない澄み渡る炎が灯る。
「あの殻をぶち壊して、あいつをあの絶望の中から引っ張り出す! ……あたしたち四人の、全部をぶつけるのよ!!」
満身創痍の四人の瞳に、再び折れぬ光が灯った。
先代の遺した未練と虚飾を打ち砕き、擦り切れた青年を救い出すための、真の攻略点。
青年は感情の動かぬ能面のまま、胸元の『真紅の魔核』を痛切に脈動させ、静かに両手を構え直した。
百年の因果を断ち切るための、魂の解体劇へ――
(第四十四話 完 / 第四十五話へ続く)




