第三十三話:『帝都包囲、白銀の帰還』 第一節:風を追う白銀の翼
城塞都市アイゼンガルテンの最上層、外郭防壁から張り出した軍用離着陸場。 冷涼な高地の突風が吹き抜けるなか、飛空艇ストーム・ペレルの双発魔導推進器が低く重厚な唸りを上げていた。
船体各部には、アイゼン家の熟練工兵たちが総出で施した追加装甲と、鉱山採掘用の超高圧魔導ブースターが鋼の親柱でがっしりと固定されている。
タラップの前に立つアリアたちの前で、粗末な革鎧を纏ったアイゼン公爵が腕を組み、仁王立ちで四人を見据えていた。
「推進機関の換装、および魔導燃料の補給はすべて完了した。……これ以上の速度で飛べば船体が空中分解しかねんほどの代物だ。振り落とされるなよ」
「ありがとうございます、公爵様。……街を守るための大切な備蓄を、あたしたちのために」
アリアが深々と頭を下げると、公爵は無骨な髭面をわずかに歪め、低く息を吐いた。
「礼などいらん。ダンカン殿の遺志と、この街の壁を守り抜いてくれたのは貴様らだ。……それに、わしは帝都の玉座にふんぞり返る豚どもの顔色を窺うのは、とっくに飽き飽きしていたところでな」
公爵の濁りのない双眸が、遥か西の空――偽りの栄華を誇る白亜の帝都アルシリアの方角を射抜いた。
「四大門閥の他家はすべて落ちた。ヘパイストスの軍需工場群は灰燼に帰し、ヴェネツィア・アルシアの大運河は濁流に呑まれ、アエリアの天空港も沈黙したと聞く。残るは帝都ただひとつ。……中央の連中は、今頃自らの犯してきた欺瞞の重さに怯え、震え上がっているはずだ」
公爵は一歩踏み出し、アリアの肩を重々しく叩いた。
「行け、アリア殿下。帝国を救うためじゃない。あの街の壁の内側には、何も知らされずに今日を生きている何十万もの無辜の民がおる。……その命を、お前たちのその新しい刃で救ってこい」
「――はいっ!」
アリアは迷いのない声で答え、顔を上げた。
その唇元に浮かんでいたのは、立ち込める戦雲すら一瞬で吹き飛ばしてしまうような、希望に満ちた明るい笑顔だった。 少女の菫色の瞳には、これから始まる決戦への恐怖ではなく、誰かを救い出すための眩い光が満ち溢れていた。
四人はタラップを駆け上がり、厚い気密ハッチが重々しい音を立てて密閉された。
係留索が解かれ、増設された魔導ブースターから青白いプラズマの噴射炎が轟然と吹き上がる。
ストーム・ペレルの船体が軋み、大気を切り裂いて垂直に浮上すると、一陣の白銀の矢となって西の空へと急加速した。
▼▼▼
高度3,000メートル。
分厚い魔導強化ガラスで覆われたキャビン(艦橋)の外側では、引き裂かれた白い雲海が壁紙のように凄まじい速度で後方へと流れ去っていた。
船体全体を揺らす猛烈な震動。 中央の円形航法テーブルを囲み、アリアは腰の黒革ベルトに佩いた『蒼水神刀 アルビオン・レガリア』の柄にそっと指先を添えていた。
白銀と藍色の美しい鞘を通じて、折れた痛みを乗り越えた相棒の、力強く温かな脈動が手のひらに伝わってくる。
「……どう、アルビオン。あたしたちの新しい風は」
呟くアリアの正面で、航法卓の魔導計器と睨み合っていたルシアンが、青白くなった顔で手元の胃薬の小瓶を握りしめつつ顔を上げた。 右目のアナライザー・モノクルが激しく青く発光し、幾千もの数理コードがレンズの表面を滝のように流れている。
「アリア殿下、アエリアで得た天蓋観測データと、この空域のマナ圧の照合が完了しました」
ルシアンがアストロラーベ・ワンドを旋回させ、卓上に立体的な幾何学天球図を投影した。 球体の外殻を取り巻く、目に見えない巨大な潮の満ち引き――外宇宙『星海』の重力干渉波。
「星海の引力による天蓋潮汐……その引き波が帝都上空の神樹結界へ到達し、位相減衰が極小値に達するのは、今から正確に【24時間後】です」
専門用語の羅列に、アリアは小さく首を傾げた。
「……つまり?」
ルシアンは眼鏡の位置を人差し指で直し、息を吸い込んで即答した。
「つまり――明日のこの時間、帝都を覆うあの絶対の結界が、通常の三分の一以下にまでペラペラに薄くなるということです! 魔王軍が軍事的に合理的な集団であるならば、無駄な損害を避けるため、結界が自然に綻ぶその刻限を待って総攻撃を仕掛けるはずです!」
「へぇ、上出来じゃないか、眼鏡!」
ルシアンが言い切った瞬間、横からリンが踏み込み、その細い背中を豪快にバシィンと叩いた。
「ぐふっ……!?」
激しい前屈みになって航法卓に突っ伏しかけたルシアンが、涙目で眼鏡を押さえながら悲鳴を上げる。
「ちょっ、リン! 船が揺れている最中に全力で叩かないでください! ただでさえ胃がひっくり返りそうなのに、肺胞が潰れるところでしたよ!」
「情けねえ声出すんじゃないよ! 頼りにしてるって褒めてやってんだろ!」
リンは両腕の『ギア・ナックル(緋金剛・砕霊甲)』の調律歯車を軽快に鳴らし、不敵に八重歯を覗かせた。 バウルとの死闘を経て、その拳にはダンカンの青銅琥珀の闘気が揺るぎない芯となって宿っている。
「ふふっ、お二人とも本当にいつも通りですねぇ」
操舵席の脇から、フィリアが【風のワンド】を胸元に抱き、ふわりと柔らかく微笑みながら歩み寄ってきた。 過保護な重装ローブを脱ぎ捨て、自らの意志で歩む決意を固めた少女の表情には、かつてのような怯えや迷いは微塵もなかった。
胸元の偏光クリスタルが、淡く澄んだ翠玉の光を放っている。
「フィリア、怖くない?」
アリアが優しく問いかけると、フィリアは静かに首を横に振った。
「はい。……教会の皆さんが私を『二代目の生贄』として育てていたこと、そして神樹の恵みが他の方々の犠牲の上に成り立っていたことを知った時は、目の前が真っ暗になりました。……でも、今の私には、アリア様たちがいます。誰かを犠牲にする嘘の祈りではなく、目の前で生きている方々を守るために、私は私の奇跡を使いたいんです」
フィリアの真っ直ぐな言葉に、アリアは胸の奥が熱くなるのを覚えた。
自分たちが向かっている場所は、かつて生まれ育ち、そして裏切られた白亜の牢獄。 四大門閥の罪、教皇庁の狂気、老聖帝の欺瞞。 すべてを知った今、国家という枠組みそのものには、もはや守るべき価値などひとかけらもない。
だが――。
アリアは、白藍の装束の胸元をぎゅっと握りしめた。
脳裏に浮かぶのは、スラムの狭い路地で串焼きを頬張っていた子どもたちの笑顔。
泥濘の川べりで魚を獲り、必死に命を繋ぎ止めていた名もなき民衆の姿。
教会の嘘にすがらなければ、明日を生きることすらできなかった何十万もの普通の人々。
「……国を救うためじゃない」
アリアの凛とした声が、キャビンを満たす機械の唸りを切り裂いて響いた。
「あいつらが築き上げた嘘の都は、きっともうすぐ崩れ去る。……でも、そこに生きている人たちまで、あいつらの道連れにして死なせたりは絶対にしない。あたしたちが、全員の逃げ道をこじ開けるのよ!」
「おうよ! 邪魔する壁は、あたしの拳で全部ブち抜いてやるさ!」
「僕の数理で、最短かつ絶対の退路を構築してみせます」
「私の光のすべてで、皆さんの命をお守りします!」
四人の拳と祈りが、航法卓の上で固く重ね合わされた。
防風窓の向こう、西の地平から重苦しい鉛色の暗雲が広がり始めていた。
雲の裂け目から漏れ出るのは、神樹の人工の光輪と、それを包囲するように迫る無数の影。
白亜の帝都アルシリア――100年の因果がすべて収束する決戦の地へ向け、ストーム・ペレルは雲海を突き破って突進していった。
(第二節へ続く)




