少しだけ冷めた紅茶
定休日の店内は、静かだった。
人の気配がないだけで、店はいつもと別の場所みたいに見える。
布を絞る音だけが、やけに響いた。
営業中には手が回らない場所まで掃除しているせいか、普段より手間も多い。
リナは床を拭きながら、小さく息を吐いた。
そのとき、扉を叩く音がした。
一度だけ。
リナは手を止めて顔を上げる。
少し迷ってから、扉の方へ向かった。
扉を開けると、そこに立っていたのは、あの男だった。
「……あ」
男はほんの少しだけ気まずそうに目を伏せる。
「定休日、よく忘れちゃって」
照れたように笑って言った。
リナは思わず少しだけ目を丸くする。
騎士らしくないその言い方に、少しだけ肩の力が抜けた。
「そうなんですね」
口にすると、自分の声も少し柔らかくなる。
男は軽く頷いた。
「また来るから、大丈夫」
そう言って、男はそのまま帰ろうとした。
「あの」
気づけば、呼び止めていた。
男が振り返る。
「お茶くらいなら、出せます」
別に、特別なことじゃない。
そんなふうを装って、リナは言葉を置く。
男は少しだけ目を丸くして、それから小さく笑った。
「……じゃあ、少しだけ」
そう言って、店の中へ入ってくる。
椅子を引き、自然と向かい合う形になる。
リナは店の奥へ向かい、茶葉を取り出した。
湯を沸かし、カップを二つ並べる。
静かな店の中に、湯気の立つ音だけが響いた。
茶葉へ湯を注ぐと、香りがゆっくり広がっていく。
少しだけ時間を置く。
その間、会話はなかった。
けれど、不思議と気まずさは感じなかった。
紅茶をカップへ注ぎ、リナは男の前へそっと置いた。
「どうぞ」
「ありがとう」
男はカップを持ち上げ、静かに口をつける。
その仕草が、妙に目に残った。
無駄がないのに、どこか柔らかい。
リナはふと視線を外す。
「そういえば、まだ名乗ってなかったね」
穏やかな声が落ちてくる。
「アルトです」
自然な調子で続けられて、リナは一瞬だけ目を瞬かせた。
「リナです」
少し遅れて返すと、アルトは軽く頷く。
アルトはカップへ顔を寄せ、そっと香りを確かめた。
「……いい香りだね」
短い言葉だった。
それだけなのに、少しだけ距離が近づいた気がする。
「ありがとうございます」
リナは答えながら、自分の分にはまだ手をつけず、向かいへ座っていた。
「こういうの、普段から飲むんですか」
「たまに。時間があるときだけ」
答えは簡単だった。
けれど、その言い方は嫌じゃない。
アルトはカップを置く。
「落ち着くね」
ぽつりとこぼれた声に、リナは小さく頷いた。
店の奥で、時計の針が小さく鳴る。
静かな時間だけが、ゆっくり流れていた。
やがて、アルトは立ち上がった。
「今度は、ちゃんと開いてる日に来るよ」
少しだけ笑って言う。
「お待ちしてます」
リナも自然にそう返していた。
扉が閉まる。
それと一緒に、店の中へまた静けさが戻ってきた。
リナはしばらくその場に立ったまま、閉まった扉を見ている。
やがて、ゆっくりとカップへ手を伸ばした。
一口、紅茶を飲む。
少しだけ冷めていた。
香りはまだ残っている。
けれど、さっきとはどこか少し違っていた。
リナはカップを見下ろす。
立ちのぼる香りをぼんやり眺めてから、小さく息を吐いた。
そして静かに立ち上がる。
店の奥には、まだ拭き終わっていない床が残っていた。




