マーブル
うちの事務所には絵を描く道具がたくさんある。油絵具はないけれど、ペンでも色鉛筆でも水彩絵の具もある。パソコンを使っていても、やっぱり手で書くのは違うというか、イメージを形にするにはいいらしい。
だから事務所の至る所に絵を描く道具が散らばっていることはよくあって、私がそれを片付けるのもいわば日常茶飯事だった。
今日はソファの前のローテーブルの上に絵の具が広げられていた。傍の紙には赤や黄色の人目を引く鮮やかな色でイラストや文字が描かれている。
その色の鮮やかさから、これは本田さんが書いたかな、と予想する。
片付けるつもりなのに、つい見てしまう。私は本当に軽い気持ちでパレットに残った青の絵の具を筆に取る。
それを水に溶くと、濃い青が水に溶けて淡い淡い青になる。誰もみていないのをいいことに、私は紙に絵の具を広げていく。
何も考えずに、紙の上に青い色を広げていく。絵とも言えない、ただ筆を動かすだけで色が濃くなったり薄くなったりする。それが楽しかった。
だけど出来上がったものはやっぱり子供の落書きレベルで、デザイン事務所の職員が書いたと思えないと思った時、後ろから声がした。
「上手くかけた?」
本田さんが私の絵とも言えない絵を見ていた。そしていつもの明るい笑顔で私を見た。
「絵の具って楽しいよね」
「そうですね。つい楽しんじゃいました」
照れ隠しに笑いながら、私は置いてあった紙を手にする。
「これ、描いたの本田さんですか?」
「そう。わかる?」
そう言ってニカっと笑った。
「なんか鮮やかな色だから、本田さんっぽいなって思いました」
そうかな、と言って本田さんは笑った。
「絵の具って久しぶりで、新鮮です」
「そうだね。結構楽しいよ」
小学生の時は嫌だったのにね、と言って二人で顔を見合わせた。
そろそろ片付けようと散らばった筆をまとめた。それを見た本田さんが済まなそうな顔をする。
「片付け、ごめんね」
私は笑って首を横に振った。
紙ごみを片付けに行って戻ると、今度はソファの前には野上楓が座っていた。
黙って絵と絵の具を見ている。
「野上くんも、絵の具を使う?」
そう言ったら、顔だけこっちに向けた。
野上楓は私の書いた物を見ていた。あんな落書きを、この人に見られているのが恥ずかしくて、私は慌てた。
ひどい絵だと思っているだろうな、と気持ちが落ち込む。
「あんまりみないで。恥ずかしいから」
だけど、野上楓はゆっくりと腕を伸ばすと、筆を手に取ってパレットに残った絵の具をとった。赤の絵の具を水で溶いて、さあっと私の描いた絵の周りに広げた。
その色は柔らかいピンク色で、私の広げた青い色と馴染んでいく。スルスルと紙を滑る筆は、新しく色をのせて、どんどん紙を鮮やかにしていく。
自分の描いたものが、みるみるちゃんとした作品になっていくのから、私は目を離せなかった。
しばらく無言で手を動かしていた野上楓は手を止めると、私を見た。
「どう?」
私は彼と、それから彼の絵をみて、もう一度彼をみた。
「すごく……いい、と思う」
そう言ったら嬉しそうに笑った。
「本当?」
「うん。すごく、いい。すごいのは野上くんだけど」
「良かった」
そう言った彼の横顔は、嬉しそうだった。
私は野上楓の持つ紙を見つめる。
私の落書きは、野上楓の手によって一つの絵画になっていた。
スケッチブックの上で私の水色と野上楓のピンク色が混じり合っている。混ざり合ったマーブル模様のような絵は、相反する色をうまく同化させている。
その具合がお互いの良さを消さず、決して主張しすぎず、絶妙だった。
違うからこそ、お互いがイキイキして見えた。
すごいな、と素直に思う。
この匙加減がとても重要で、やりすぎるとうまく行かない。だけどそれをこれ以上なく上手にやってしまう。
私の落書きを見てこうして絵をイメージできて、それを思い通りに描けるのも、結局は才能なんだと思う。
そこが他の人にない、彼だけの物なのだと思う。
私が抱く彼への気持ちは複雑だ。
だけど、彼の作品は好きだと素直に思う。
「すごくいい」
そう言ったら、野上楓は嬉しそうな顔をした。
「でも、半分は藤沢さんだよ」
「え、私のなんて落書きだよ」
野上楓は独り言みたいにつぶやいた。
「いい色だね、この青」
青は私の塗った分だ。
適当に薄めただけで、特別な物のように言われると恥ずかしい。
「この藤沢さんの色、今度使いたい」
いい?振り向いた顔がじっと私を見る。
私はどう答えていいか困る。
「色は私のものじゃないよ。誰のものでもないでしょう」
「なら、使う。藤沢さんの色」
そう満足そうに笑った。
「これ、もらうね」
野上楓は嬉しそうにそれを持って自分の机に戻る。よほど気に入ったのか、机の目立つところに飾っている。
そんなところに飾らなくてもいいのに、と思って、恥ずかしくなる。
その日の仕事が終わった後に、私は事務所の本棚を眺めていた。
ずっと先延ばしになっていた勉強をようやくやる気になったのだ。
きっかけは今日の野上楓の絵だ。
人の力で自分の落書きがいいものになったから、勉強欲が盛り上がっているのだけれど、仕事のためにも勉強しようと思っていたのも事実だ。
だから事務所の本を読んで勉強しようと思ったのだ。
でもその本が構図の本、色彩の本、絵画の写真集……たくさんあって、どれがいいかわからない。
読みやすい物が良いと悩んでいると、後ろから声がかかった。
「何か探してるの?」
床に座り込んで本を見ていた私の隣に、本田さんが座り込んだ。
「勉強する本を探していて」
本田さんは私へ視線だけ向けた。
「私、美術のこと何も分からないので、少しでも勉強しようかなって。知らないと仕事にも差し支えるし」
そう言ったら、本田さんは笑った。
「美波ちゃんは真面目だなあ。自分の仕事だけやればっていう子もいるよ」
「まだ仕事も半人前なので、なんとも言えないですけど」
私は苦笑いして本田さんをみた。
「でも、ちゃんと勉強したら、もっといいと思うんです」
でも本田さんはその意見に頷いてくれた。
「そっか、じゃあ読みやすいのにするか」
私たちはしばらく並んで本を選ぶ。私の質問に本田さんが答えてくれる。それがわかりやすい。なるほど、と何度も呟いてしまった。
「本田さん、すごいですね。すごくわかりやすい」
「そう?」
照れているのか、本田さんは顔を赤くした。
「まあ、そういう専門の勉強をしてるからさ」
「少しわかったような気がしました。本田さんすごい」
本田さんはますます顔を赤くした。
そして、そうだ、と手を叩いた。
「使う用語とかまとめた本を貸そうか?それなら仕事にも役立つんじゃない?」
「え、いいんですか?」
本田さんは立ち上がって、自分のデスクへ向かう。
「俺のだから、書き込みもあって汚いけど」
「構わないです」
本田さんは自分のデスクから本を数冊とった。そこから2冊の本を渡してくれた。
「ひとまず、コレとコレ」
「え、2冊も。ありがとうございます」
「もっと知りたいことがあったら、また教えて」
そう言ってニカっと笑った。
この笑顔を見ると、なんだか元気になる。
「ありがとうございます」
もう一度お礼を言って、自分の机に戻る。
視線を感じて顔を上げると、野上楓と目があった。
その目が物言いたげに私を見つめる。
「の……」
だけど私が声をかけるより先に、野上楓は視線をあっという間に逸らしてしまった。
何かあったのか。
疑問には思って、だけどそこに涼子さんが声をかけてきた。話が終わって顔を向けたら、もうこっちは見ていなかった。何も言われないから、それをすっかり忘れてしまった。
そういう時って、実は大事なものを見逃しているのに。