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薄暮の乙女

前編

足を踏み入れたら最後というように、少女の意思を無視して身体は沈んでしまう。身体を突き刺す冷たさは拒まれているようだが、なら何故こうも捕らえられているのか。散らばる一つのピースがこの光景を記憶していたはずだったのだが当の本人は知らずじまいで、なすがままに水底へ引き込まれていく。自由を奪われた足には藻が絡み付いており、靴擦れした傷口からはまた血が滲んでいた。履き慣れたローファーはもう主人を置いて先に底に沈み、底無し沼のような深い湖でも底が存在していることを知らせる。水底には何が待ち構えているのだろう。

群青と契約を交わした世界と似ても似つかぬ、この孤独感は徐々に心を蝕む。二つのブレスレットが輝く手首を握り締め、自分は一人ではないと萎みかけた心を奮い立たせる。少女を追いかけて湖に共に飛び込んだ蛇はもう泡のように溶けてしまい、もう再生することはなかった。その姿は本来のものに戻っていくようで、また何処か神秘的でもあった。生物を模した何かなのだと改めて認識させられるが、寸分の狂いもなく模倣した捕食は思い出しただけでも吐き気が込み上げる。"蛇の捕食は獲物を絞め殺してから丸呑みし、胃の中でゆっくりと酸で溶かされるらしいな。"とと恐ろしい事を呟いた彼はきっとあの能面のような顔に意地悪そうな笑みを浮かべていたはずだろう。恐怖のあまりに開かれた瞳孔は今はもう冷静に状況を判断しようと細められている。もう逃げ惑っていた彼女は何処にもいない。覚悟を決めた瞳であった。

───もう底は近い。象や鯨など絞め殺さなくとも丸呑みにしてしまいそうな口を持った蛇は蜷局を巻いて、宝石トパーズのように輝く瞳は見定めるように少女を凝視している。身体は鎧を纏ったように鱗がびっしりと生え揃い、口には人間なんぞ一突きで肉片化としてしまう鋭く立派な牙が生えていた。彼が動けば少女は一溜まりもなく、波が逆巻いて起きた巨大な渦潮に飲み込まれることだろう。それほどまでに彼の身体は大きく、人間の目では全てを映すことは出来ない。ぼうっと見つめ合っているとヒール音が何処からともなく響き、それを合図に足に絡みつく藻により勢い良く引っ張られて蛇の頭の上に落とされる。ガツンと打った頭は朦朧と。ぐらぐらと揺れる視界の中では金色の髪を掻き上げ、ドレスを纏う女性が少女を見下ろしていた。

<"何度も言うけれど、貴方は此処に来るべきではないのよ。">

真紅のルージュが塗られた唇からは流暢な英語が紡がれる。アイスブルーの瞳には少女の真っ青な顔が写っている。世間知らずで穢れを知らない純白のドレスを身に纏う彼女は恐ろしいほど美しい。この世のものではない美しさは絵画のようでもあり、彫刻のようであり、それは人を狂わすものであった。頬を撫でる手は白魚のように透き通っており、陶器のような無機質の冷たさで、決して交わることなく結衣の僅かに残っていた熱すら奪って行く。凍てついた心を溶かそうと吸い上げるも、たった一人の熱ではビクともしない。凍えた身体はまだ熱を求めていた。しかし彼女が危険だと判断したときには、もう──

「…思い出したぞ。お前が倒すべき異物の一つらしい。なら倒されてくれ、こいつのためにも、俺のためにも。」

現れた空気のたまは上へ上へと自由を求めて昇っていく。突き立てた爪は皮膚を模したもの引き千切り、外壁が剥がれた箇所からは膿が溢れた。触れた指先はそれらを飲み込むように黒ずんでいく。声にならない叫びは本性を呼び覚まし、目も口も釣り上げては歯茎を丸出しにして怒り狂ったように少女の首を絞めた。短く切られた爪には皮膚が食い込み、女の爪に少女の血が滲む。はらりはらりと化粧(かめん)は剥がれ、黄と白が入り混じった斑の肌へと変わっていく。秋結衣の首が絞まるのが先か、呪いが身体を蝕むのが先か。それとも…。

地面が揺らぐ。結衣の意識が途絶えかける、その瞬間、指先に当たった何かを握り締める。釣られて引き抜かれたもう片方は水底に沈んでいく。

牢を満たす酸は自我をも溶かし、大蛇は痛みに喘ぐように水流を巻き起こした。異物は吐き出される。返せ、返せと群がるように蛇は獲物に巻き付いて離れようとはしない。そして少女の指はピクリとも動くことはなかった。

***

指先は詰まらなそうにストローを摘まんで氷入りのジュースをかき混ぜる。それはカラカラと清涼な音を響かせ、回るたびに炭酸は徐々に抜けていく。玉虫色した甘い水はさらに喉に潤を求めさせた。

「…森崎さん、少しは質問に答えようという姿勢ぐらい見せてくれないかしら?」

額に拳銃を突き立てられようとも森崎は目を細めるだけで、今にでも欠伸をしそうな雰囲気である。彼女とペアを組む城崎はこんな態度では怒り狂うだろうが、そこらへんは上手に彼女を操っているのだろう。ちゃらんぽらんのようだが、こう見えても森崎樹という少女は暮橋紅葉と共に二人で何年も戦ってきた戦士である。しかし思考回路はどのようになっているのか、彼女にも分からない。だからこそ警戒すべき人間の一人だった。

「愚問だからだよ。そんなものに答える必要が何処にあるってわけ?人に聞く前に考えなよ、それとも考えつかなかったから僕のところに来たのかな。だったら見当違いも甚だしいよ。彼女の求めてるものを考えなよ。それでも分からなかったら幼馴染のところに行くんだね。」

掴まれた銃身は硝子のように砕け散った。苛立ちを隠せないでいる声音は低く、こうしていれば彼女は男ようだと目を細めた。はあと溜め息を吐く。得るものは無いに等しい。だが彼女には深い繋がりがあると見えた。あいつはこの案件でも裏で糸を引いているはずだ。やはり秋結衣は、彼女は扉の向こうにいる…!!

求めるものは力。しかし始めたばかりの訓練ではまだ得られそうにはない。手っ取り早く使い熟すには実践が一番だ。暮橋も今は亡き姉と慕っていた彼女からそう教わったのである。一人で行くなんて無謀だ。いや行かされたと言った方が正しい。何せ彼女は言われるがままに着いて行っただけの被害者なのである。右も左も分からぬ生まれたての雛。ああ、私が馬鹿だった!やかしてしまった!!

ゴムを口に咥え、走りながら髪を結う姿はいつもの冷静さは伺うことは出来ない。城崎がこの暮橋の姿を目撃していれば、指をさしながら大笑いしていただろう。そんなことは起こることはなかったが、もう既に内心では落ち着きを取り戻しつつあり、目当ての人物の元に着く頃にはあの慌てようは消え去っていた。彼にノックは不要。この時間帯はもっぱら読書に耽っている。

借りた本はデスクに積み上げ、大量のメモ用紙はクリップで挟められているが、もう彼は限界に近い。その上には暮橋が最近見つけた穴を開けずに閉じるというホチキスで纏められた書類もあり、贈ったものがちゃんと使われているのは良いことだと嬉しさが込み上げた。声をかけるとエメラルドグリーンの瞳はようやく暮橋の姿を映し出す。

「すまない、ノックを聞き逃した。用件は何だ?」

眼鏡を軽く上げて目頭を揉む。腕時計に視線を落とせば正午は過ぎており、昨晩から何も取ってないことを思い出した。心なしか腹が鳴っている。本に栞を挟み閉じる。この少女が訪ねてくるのは珍しくはない。しかし暇潰しでやってくるような人間でもなかった。かと言って彼女は面倒事と共に現れるのが通例である。

「秋結衣という子が彼方側に渡ったの。扉が開いたのは確かで、それで開けた人間が居る。それが誰なのか特定して欲しい。」

「特定して何になるんだ?」「確証が欲しい。ただ、それだけよ。」

少女は言い淀みもなく間髪入れずに答えた。確証を得ることが出来れば彼女の推論は真実へと繰り上がる。人間は感情を抜きにして物事を考えることが出来ない傾向にある。しかしこの少女は見事に感情を密閉し、思考することが出来た。酷く痛々しい姿だったが口にすることはない。それがトリガーとなってしまえば、と思うと口にすることなど出来ないのだ。傍観に徹しているのだから。半ば諦めたように溜息を吐いた。パソコンを立ち上げてソフトを開き、扉から解錠者と通行者の名前がダウンロードされて行く。

「解錠者は"Shuya Kita"、通行者は"Tatuki Morisaki"、"Yui Aki"、…の三名だ。」

三人の名前の他に"unknown"と表示された画面を閉じる。本人以外にはただの膨大な文字の羅列にしか見えないが魔法というのは本来秘匿すべきものである。

──"unknown"というものは稀に表示され、人の目では捉えられないものを示している。そしてユイ・アキという何方が苗字で名前なのか混乱する少女。部屋に施していた魔法陣は初日に全て破壊されている。多くの悪魔を引き寄せるほど強い思いがあるのかと考えていたのだが、どうも違うらしい。こいつの仕業だったのだ。シューヤの言う通り、この女の子は少し特別だ。クレハ達と同じように見えて、シューヤ達にも酷似している。

「…俺も行こう。今週の鍵持ちはアカリ、あの子はクレハには協力しない。」

引き出しからピストルを取り出して腰に挿す。殺傷能力もあり命中精度も高い。軍で鍛え上げられた腕ならば問題はない。此方側での話ではあるが。一際大きい白く輝く扉を見上げた。塗装の剥がれた箇所を撫でれば、あの記憶が鮮明に脳裏に浮かぶ。早く開けなさいよと言いたげに腕を組んでいる彼女もあまり思い出したくないのだろう。最期を看取ったのは暮橋紅葉。この少女だった。

「此処の近くにはいない…、でも蛇が脱皮した皮が落ちてるわ。」

しかしそれは一匹分だけ。応戦した痕跡もない、彼女は逃げたようだ。これでは秋結衣は何処に居るのすら分かりようがない。思わず頭を抱えた暮橋にアドルフの口が曲がる。俺を誰だか忘れているらしい。中指に指輪を通し、しゃらりと揺れ始めるペンデュラム。中心でほんのり青く灯った光は命を持ったように揺らぐ。クリスタルに導かれるままに虚構世界を歩む。サポート役であるアドルフはこの世界に足を踏み入れたことは片手で数えられるほどしかない。溢れる好奇心に負けて調査をしていたが、彼はこの世界の住人達にめっぽう好かれやすかったのだ。キインと耳鳴し始めると彼らが近づいてくる合図であり、同時にゆるく円を描いていたペンデュラムも動きを止めた。

「…クレハ、あの子はこの先らしいな。」

敵は此方に気づかず茶色の革靴に群がっている。彼らは人間では分からないような微かな血の臭いでも獲物だと追っていく。何の前触れもなく彼らは突如として泡へと変わり、身体は血が沸騰したかのように沸き立ちて肌は波打った。膨張に耐え切れなくなった皮膚は割れる風船のように弾き飛び、べちゃりと暮橋の頬を汚す。

唸り声と共に立った水柱。今度は血飛沫から水飛沫へと変わり、血に汚れた身体はずぶ濡れとなった。暮橋とアドルフは顔を見合わせるが、考えていることは同じだった。

彼らが探していた少女、秋結衣はそこに居た。いや囚われていた。何かから守るように胸に抱き締めているのは薔薇の飾りが美しいサンダル。そこから溢れるように伸びた茨は新たな宿主として彼女を取り込もうとしている。手は呪いに犯されたように黒く炭化しており、彼女に絡みつく蛇は執拗にそれを狙っていた。牙から滴る毒は皮膚を溶かすも赤々とした肉は見えず、相当深いところまで達しているのだと唇を噛む。もう時間の限界だ。棒立ちのまま暮橋は結衣へと手を伸ばした。柔らかな光が指先に灯り、優しげな印象を与えるが彼女の手は殺戮兵器。一歩半後ろに下がって被害に合わないよう、そして敵の様子を伺う。見えない何かは蛇に絡みついて横にスッと線が入ったと思えば、ぼとりと地面に落ちる。眈々と蛇を輪切りにする彼女の目には何の感情も見られない。もし仲間が敵に回ったとしても彼女は何の躊躇もなく、この蛇たちと同じように切り刻むのだろう。

「…やっぱり駄目、みたいね。切っても切っても再生していく。あれが何なのか心当たりはない?」

頭と離れた身体は痙攣し、近くに落ちた自分の破片と寄り添いあってまた結合する。頭は彼女の手に食らいついたまま離れることはない。かといって攻撃しようとしても彼女の手は崩れ落ちてしまうだろう。一匹捕獲してくれと頼めば、いとも簡単にひょいと釣り上げられた蛇は顔に叩きつけられる。妙なところで雑だ。踏みつけた蛇の皮膚にとある液体をかけるが何の変化も見られない。

攻撃を無効化する身体に、悪魔払いが効かぬ悪魔。そして蛇。その条件に該当する悪魔は、レヴィアタン。サタンやベルゼブブに匹敵するほどの力を持った魔神。あまりにも強大で彼に恐れた神達は繁殖を抑えるために雄を殺したという。奪われた夫の代わりに与えられたのは不死の身体。やはり今まで通りの方法で彼らを倒さねばならない。彼女達を救う道など存在しないのだ。悪魔の名が判明したと言っても今はこの子をどうにかして湖から離さねばならない。手袋を嵌めて毒牙の餌食にならぬよう慎重に頭を掴んで湖に放り投げた。


薄く開いた唇は紫色をして、血色の悪い頬に手を寄せると氷のように冷たい。薔薇の飾りがついたサンダルを抱き締める手は硬く、彼女がこうなってしまった原因であろう代物からは引き離せそうにはない。湖を離れて扉の近くまで少女を運んだは良い、彼女を元に戻す方法は分からなかった。手首に枷のように巻きつく茨を引き千切ってはみるも、茨はもっと手を伸ばしてアドルフにも絡みつき始める。それを撃ち抜いてもサンダルから離れたと言うのに意思があるのか、自身を成長させてまた初めに戻る。放っておけば彼女のようになるのだろうがこんなところで無駄に弾を消費するわけにはいかない。

「一度戻りましょう。それが一番だわ。此処で負った傷は戻れば治る…、ねえ、そうでしょう?」

現実ではない世界で負った傷は認識されずに身体は彼方側へ渡った前に戻り、受けた傷は異物として世界から抹消される。治るとも言えるだろう。

「クレハ、落ち着け。冷静になれ、お前は焦ると思考が鈍くなるのを直せ。タツキ、アカリも呼んできてくれ。俺は此処に残って、この子を守ろう。…いいな?」

紅玉のように輝いていた薔薇は濁り、青色が混ざり込んで最早不気味である。徐々に侵食して蒼玉に生まれ変わるだろう。しかし侵食速度は遅くなっており、赤紫色で停滞している。サンダルから生えるこれは茨の姿をしているが、触れた者から魔力を吸い上げる根の役割を持っているのである。カリ、と地面を削る音は止む。刻んだものを踏まぬよう一人分のスペースが空いている中央に足を踏み入れば、奇妙な図形は魔法陣として漸く完成された。発動する瞬間、陣は光り輝き───何て演出地味たものなんて起こりはしない。うんともすんとも言わず、描いた本人さえ「これは成功しているのか?」という状態である。杖を持ってチチンプイプイ!など漫画や小説の世界だけである。箒で空を飛んだりしないのだ。薬を作る際には鍋でグツグツと怪しげな液体を掻き混ぜるが、"老婆が高笑いしながら"など断じてやらぬ。魔術や錬金術などはひたすら地味でコツコツと積み重ねが必要な、言うならば学問というもので一朝一夕で出来るものではない。夢で見るようなものではないのだ。呪い殺すよりピストルで脳天を撃ち抜いた方が確実で早い。文明の利器を使わずに何とする。…自分の手を汚さず、時間が掛かっても最終的に死ねばいいと考える人間が手を出すのだろう。

──なら何故、あんたは裏の世界に身を置く?

「出てくればいい。俺以外に誰もいない。わざわざこれを媒介にして話しかけなくても俺は答える。」

見るものを引き込んでは離さず、あまつさえ飲み込もうとする瞳は小さな海を閉じ込めていた。せせら笑うかのように細められた月には、呆気に取られた自分の顔が映っている。口車に乗って本当に出てくるとは思いもしなかった。

「あんたなら知っているだろうと思っただけだ。」

俺が何者であるか、をな。

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