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異セカイは夢日記とともに…  作者: 悠月 柚裕
十災攻略

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14/14

そして、セカイは繰り返される

悠月と申します。


今話から第二章へと突入していきます。書き溜めもなくなってしまいましたが、毎日投稿は続けていこうと思っています!


厳しいお言葉含め、感想・アドバイスお待ちしております。

第14話 そして、セカイは繰り返される


 声が聞こえた。


 それだけが確かだった。それ以外の全ては曖昧で、不確かで、輪郭を持たなかった。自分がどこにいるのか。目を開けているのか閉じているのか。立っているのか、座っているのか。何ひとつ断言できない。ただ暗い。果てのない暗闇の底に、俺という意識だけがぽつんと在った。


 浮かんでいる、と言えるだろうか。足の裏は何にも触れず、背中を支えるものもない。地面も天井も壁も存在しない。世界という概念が剥ぎ取られた空間に、俺は一人、何の力もない微生物のように放られていた。


 それでも声だけが、在った。声だけが確かだった。


 穏やかな声だ。女のものか、それとも性別という区分さえ持たない何かの声か。抑揚がほとんどなくて、それなのに鼓膜の奥に沁み込んでくる。病室の隅で点滴が落ちる音——嫌でもなく心地よくもなく、ただ確実に存在する、あの静かな一滴。声はそれに似ていた。


 単語の端が水に溶けるように崩れて、意味までは掴めない。


 けれど——不思議なことに恐怖はなかった。


 怖くないどころか、妙に落ち着いていた。暗闇に放り出されて、体の感覚もなくて、知らない声が聞こえている。普通なら恐慌を来たす状況だ。だが俺の頭は、まるで自分の部屋でラノベの続きを読んでいるかのように、くつろいでいた。


(——これ、あれだ)


 暗闇。穏やかな声。肉体の感覚がない。三つの条件を、自分でも意外なほど冷静な頭が整理する。弾き出した答えは、実に明快だ。


(異世界転移のチュートリアルだ)


 声の主はたぶん案内役だ。女神、精霊、管理者——名前は何でもいい。テンプレートで、様式美で、そうあるべきと決まっている。そうだとすれば、次に来るものも当然——


「なあ」


 声を出した。暗闇の中に自分の声だけがやけに鮮明に残った。反響はない。壁のない空間では音は跳ね返ってこない。ただ放たれて、消えていく。


「聞こえてるか? えーと、女神様? 精霊? ナビゲーション?」


 声が一瞬、途切れた気がした。


「まあ、何でもいいけどさ。なんだろうな、俺は勉強熱心というかさ、意外と慌てたり困惑はしてないんだ。初めてだけど慣れてるっていうか。だから、面倒くさい諸々は飽きてるんだ。で、単刀直入に一番大事なことを聞くぜ?」


 俺は暗闇に向かって、にやりと笑った。たぶん。顔があるのかどうかも怪しいが、口角が上がったような感覚はある。


「——チート能力は何をくれるんだ?」


     ◇


 最初に戻ってきたのは、音だった。


 蝉——に似た何かの鳴き声が、低く、太く、腹の底を直に揺さぶるように押し寄せてくる。木々の間から、地面の下から、空の上から。方向が判らない。音が空間を満たしていた。地鳴りにも似たその響きは、空気そのものを震わせている。


 次に戻ってきたのは、痛みだった。


 背中に硬いものが食い込んでいる。根か、枝か、石か。とにかく地面だった。さっきまでの無重力が嘘のように、重力が俺の体を大地に縫い止めている。重い。体が重い。自分に質量があるということを、こんなに強く感じたのは初めてだった。


 最後に戻ってきたのは、色だった。


 目を開ける。ゆっくりと眼球を動かしてみる。右へ。左へ。もう一度右へ。


 木。樹。黄。見渡す限りの「き」であった。


 黄金。


 見上げた空を覆い尽くすほどの巨木が幾重にも重なり、その全てが鮮やかな黄色い葉を湛えていた。真夏の空気の中に広がる、季節を間違えたような天蓋。陽光がその葉の隙間を縫って細く千切りになり、森の底に白い点描を撒き散らしている。風が吹くたびに光が揺れ、あたり一面がちかちかと明滅した。


 空気が重い。湿気を含んで、肌にまとわりつく。汗が吹き出す前に、皮膚が先にぬるりと濡れている。暑い。日本の夏とは次元の違う、原始的な暑さだった。煮えた大気の底に沈められたような息苦しさ。


 俺はしばらく仰向けのまま、瞬きを繰り返した。黄金色の天蓋が、瞬くたびに揺れる。


(……さっき、誰かと話してなかったか?)


 記憶を手繰り寄せようとする。暗い場所に居た気がする。誰かの声を聞いた気がする。けれど何を話したのか、何を言われたのかは、指の隙間からこぼれた砂のように取り返せない。思い出そうとするほど、手を閉じるほど速く零れていく。


 不思議と、その喪失に対する焦りもなかった。大事なことを忘れているはずなのに、不思議と危機感が湧かない。


(気のせい、か)


 体を起こす。見える範囲で全身を確認した。手がある。足がある。指は十本。爪も無事。服は——大学から帰る途中だったから、Tシャツにジーンズ。足元はスニーカー、数年前に徹夜で並んで手に入れた限定モデルだ。こんなところで泥に汚すために買ったんじゃない。背中にはリュック。自分の顔は確認できないが、この調子じゃあ、イケメンになっているなんてこともなさそうだ。


 リュックの中身を漁る。教科書二冊、ペンケース、スマホ、財布、半分残ったペットボトルの水。生存キットとしては心許ないが、ないよりましだ。


 

 「ん?」


風が吹いた。強い風が吹き、金の天蓋を形作っていた木々が揺れた。その揺れは一筋の光を作り出し、俺のリュックの底を照らし出した。そして——リュックの底に、もう一冊。


 風は革張りの、古びたノートが沈んでいることを気付かせた。


「……は?」


 声が、勝手に出た。


 こんなものを、リュックに入れた覚えはない。大学の授業で使うルーズリーフは今日は持ち運んでいない。それに革表紙の手帳など、そもそも持っていない。


 リュックの底に手を入れて、引き上げる。


 革表紙は、ずいぶん使い込まれていた。角は擦れて、革紐の通し穴が一箇所だけ広がっている。長く誰かが触ってきた、という形をした古さだった。


 俺は表紙を、眺めた。


 暫く革表紙と見つめ合い、今度は別の内ポケットを開けて、財布の小銭の数を数えた。教科書の中身も一応開いてみた。ペットボトルの水も、半分残っている。


 それで、確認は終わりだ。


 ノートの方は、もう一度リュックの底に戻しておく。覚えのないものが入っていた、というだけのこと。それよりも今は他に、もっと大事なことがある。


 スマホを取り出す。画面は点灯する。時刻は14時37分、水曜日。ここまでは正常。


 ―圏外。


 画面右上の二文字が、静かに現実を突きつけた。電波は一本もない。ブラウザを開いても白いページが虚しく返ってくるだけだ。


「……うーん」


 少し考えてから、電源を切った。バッテリーは有限だ。使いどころは選ばないといけない。


 顔を上げて、周囲を見渡す。


 森だった。どこまでも森だった。道と呼べるものはない。下草が膝の高さまで生い茂り、苔と蔦が幹を覆い、朽ちた木が斜めに倒れかかっている。注意して見れば、獣道らしき痕跡が一筋、薄暗い奥へと消えていた。


 深呼吸をする。


 空気に混じるのは、甘い腐葉土の匂いと、もうひとつ——何か獣めいた、生臭い体臭のような気配。匂いの形をした警告だった。


(知らない場所。知らない森。地面に放り出された俺。スマホは圏外)


 頭の中で事実を積み上げる。


(つまり、やっぱり、おそらく、きっと、絶対、多分)


 立ち上がり、リュックを背負い直す。


(異世界ってところだろ)


 不思議と恐怖がなかった。戸惑いすら薄い。状況そのものは——想像の範囲内だ。


     ◇


 二十一歳。大学二年の夏。何の取り柄もない能力もない、つまらない人間。染谷真司。名前にも人生にも、特筆すべき何かがあるわけではない。だが異世界ものの小説やアニメなら腐るほど摂取してきた。妄想なら全国大会でも上位に食い込む自信がある。


「さて」


 リュックのベルトを締める。


「やることは分かってる。まずは人里を探す。情報収集。ギルドがあれば登録して、通貨を手に入れて——」


 がさり、と、左の茂みが揺れた。


 反射的に振り向く。


 そこに居たのは、恐ろしい獣でも盗賊でもなかった。三人組が立っていた。


     ◇


 最初に視界に入ってきたのは、灰色。


 灰色の軽装。胸元に、月のような銀の紋章。腰には剣が一本、革の鞘の中で音もなく収まっている。


 それから両脇に、二人の男たち。革と鋼の混ざった、もう少し重い装備。剣に手はかけていないが、いつでも掛けられる構えだ。


 三人とも、こちらを見ていた。こちらが一通りの観察を終えたころ、中央の人物が、最初に口を開いた。


「動かないで」


 女の声だった。落ち着いた、低めの声。


 俺は、動かなかった。いや動こうとしても、動けなかった、というほうが正確だった。三人の立ち位置が、絶妙に俺の逃げ道を塞いでいる。背後は太い幹。左の茂みは彼女たちが出てきた方向。右と前に、男二人がさりげなく回り込んでいる。


 女が、こちらに二歩、近づいた。


 近づきながら、彼女の視線はちらりと俺の顔ではなく背中——リュックの底のあたりに、向いていた。それから、視線は俺の顔に戻った。


「失礼ですが、お名前を」

「……ソメヤ、シンジ」

「ご出身は?」

「えーと、日本」

「ニホン」


 女は、その音を口の中で確かめるように繰り返した。確かめてから軽く一度、頷いた。


「聞いたことのない国名です。そこからどうやってお越しになりましたか」

「分からない」

「わからない?」

「気付いたら、ここに居た」

「気付いたら」


 女は、俺の答えを一回ずつ、自分の中で並べ直しているような間で、聞いていた。聞き終わって、彼女は少しだけ口元を緩めた。緩めた、というより、緊張を一段下げた、という感じの動きだった。


「分かりました。何か身分を証明できるものはお持ちですか?」

「…なにも」

「訳あり、というわけですか」


 彼女の言葉は、丁寧で淡々としていた。


「私たちは、聖王国の聖騎士です。ここは帝国領のため、あなたの捕縛や尋問は残念ながら私の仕事ではありません」

「せい、おうこく」

「この大陸の南にある国です。今日、我々は別の任務でこの森の周辺を巡回しておりました。あなたの存在は、偶然、視界に入っただけです」

「偶然」

「ええ」


 偶然、という言葉が、本当に偶然なのかは、俺にはまだ判断できなかった。けれど、彼女の口調に嘘の硬さはなかった。少なくとも、嘘をつくのが下手な人間ではないと思った。


「あなたは、ここがどこか、ご存知ですか」

「えーと、いいえ」

「ふむ」


 彼女は、左手を軽く挙げた。


 挙げた手の合図で、両脇の男二人が剣の構えを解いた。


「この森は、ヴィブルニウセ帝国の南西部です。最寄りの人里まで、徒歩で半日。馬で二刻ほど」

「帝国」

「ええ、目的地はありますか?今の帝国領は、身分の不確かなものが一人で歩くには適していませんよ」

「そうなんですか」

「皇帝陛下は、長らく公の場に出ておられず、各地の派閥が独自に動いている状態です。さらに、この一か月ほど、街道筋に怪しい盗賊団の目撃情報も複数」

「……マジか」

「マジです」


 彼女は、こちらの口語にわずかに合わせた。合わせ方が自然だったので、これは戦闘訓練だけでなく、対人交渉の訓練を相応に積んでいる人物だ、と俺は思った。ともすれば、目の前にいるのはそこそこに良い身分の人物の可能性がある。


「ご提案があります」

「はい」

「どこか目的地はありますか?」

「えーと」


 俺は頭をフル回転させる。今までに得た情報を並べて推測し、1つの答えを脳裏に浮かべる。これ以上、怪しまれるわけにはいかない。


「王国…とか?」


 王国という呼称で通じる場所があるかどうかは賭けだった。しかし、ここは推定異世界だ。帝国や聖王国なんてものがある世界ならば「王国」もあるだろう。


「よろしい。先程、私たちの任務は終了しました。これより南へ進路を取り、聖王国の本国へ戻る予定でした。よろしければ王国までお連れします」

「え?」

「あなたの当面の安全を考えると、帝国内に留まるよりは、王国まで同行して、そこで身元を整える支援を受けたほうが、はるかに安全です。あなたの言う王国が、私の知るクリッツケルド王国と同様の場所であれば、ですが」

「同行してくれる、ってことか」

「ええ」

「俺は、断れる?」

「もちろん、人間の自由意志はどんな場合にも尊重されるべきです。ただし、断った後の安全は、こちらでは保証できません」


 彼女の答えは、即答だった。その早さから、嘘がないことだけは確信できた。断ることはできる。ただし断った場合に、たぶん俺は今日中に死ぬ。


 頭の中で、選択肢を並べて、わざわざ天秤にかける必要もない結論だった。


「同行する。お願いします」

「賢明な判断です」


 彼女は、頷いた。頷いてから、ふと、思い出したように付け加えた。


「申し遅れました。私はセレーネと申します。両脇は、ロタスと、ハグル」

「セレーネ、ロタス、ハグル」

「ええ。よろしく」


 よろしく、と言った時の彼女の声は、はじめて、わずかに人間らしい温度を帯びていた。


     ◇


 彼らの移動手段は、いわゆる馬車だった。人が詰めて四人程度乗れる箱状の乗り場に、馬が2匹つないである。しかし、馬は俺の知っているものと少し違った。馬の形はしていたが、たてがみが銀色だった。足が細く、脚の運びは、競走馬のそれよりも、もう一段軽い。


「銀の脚を持つと言われる帝国の馬です。帝国が大陸に誇る移動手段なんですよ。一日で王国の南端の街、リーセヴァルに着きます」


 ロタス、と呼ばれた男が馬の鼻面を撫でながら、簡単に説明した。


「一日って、で一日?」

「あなたは二日を一日と呼ぶ国からいらっしゃったのですか?」


 俺は、口を閉じた。時間感覚や通貨、言語について、異世界で確認しなければいけないことは多い。それらは世界の常識の部分だ、怪しまれないように情報を得なければいけない。何度も妄想した世界は、実際に訪れてみれば慣れるのが面倒だった。


 馬車の中は、外から見るよりも広かった。木の椅子が向かい合わせに配置されていて、中央に、低い卓があった。卓の上には、何も載っていなかった。揺れで落ちるからだろう、と俺は勝手に納得した。


 俺はセレーネの向かいの席に座った。両脇のロタスとハグルは、馬車の前と後ろに分かれて見張りに付いた。


 馬車が動き出すと、セレーネは、膝の上で両手を組んで、しばらく窓の外を眺めていた。


「シンジさん、で良いですか」

「うん、それでいい」

「シンジさん。王国までは一日かかります。眠れるなら、眠ったほうが、王国に着いてから楽ですよ」

「眠れる、かな」

「眠れます。森を抜ける時、あなたは、息をきちんと吸えていなかった」

「……そう、見えた?」

「見えました」


 彼女の目は、俺の顔をまっすぐ見ていなかった。馬車の窓の外を、半分ほど見ながら、もう半分でこちらの様子を測っていた。


「この馬車は安全です。危険な道を通る予定もありません。安心してください」

「うん」


 うん、と返したけれど、最初の十数分は、当然、眠れなかった。知らない人間に囲まれて、知らない馬車の中で、知らない国に向かっている。本当に王国に向かっているかすら分からない。少しうかつな行動だったかなと反省する。


 ただ、馬車の揺れは奇妙に均一だった。


 車輪が拾う段差はあるが、車軸がそれをほとんど吸収しているように、上下のリズムが規則正しい。リズムが規則正しい揺れというものは、人間の眠気を、ゆっくりと引き出す力を持っている。


 俺は、十数分の緊張の後で、椅子の背に頭を預けた。預けた頭の重さで、首の後ろの筋肉が、少しずつ、緩んでいった。


 目を閉じた。


 閉じる前に、リュックを、自分の足元の椅子の下に押し込んだ。押し込むときに、ノートのことが、少しだけ頭をよぎったが、よぎっただけで、すぐに強い眠気の波に押し流された。


 夢は、見なかった。


     ◇


 目覚めた時、馬車の外の光がすっかり変わっていた。


 頬の脇に、唾液の跡が、薄く残っていた。眠っていた、と分かる程度のしっかりした眠りだった。


「お目覚めですか」


 向かいでセレーネが、相変わらず両手を膝に組んで、こちらを見ていた。


「ずいぶん、寝た気がします」

「三刻ほど」

「三刻」

「あなたの国では、時間の数え方も違うようですね」


 セレーネは鋭い女性だった。こちらの些細な表情の機微を観察しあらゆる情報を正確に得ていた。


 俺は、まだ少し重い頭を振った。振ってから、首の後ろを揉み、伸びをして、それから、足元のリュックの位置を確認した。リュックは、椅子の下に、押し込まれたままあった。


「あと半刻ほどで、王国の南端に着きます」

「王国って、どういうところ?」


 口が疑問を発してから、思考が追い付く。しまった。自分で目的地を王国と言いながら、どんな場所かすら知らないなど、怪しすぎる。ちらりと様子を窺うと、セレーネは何も気にしていない様子で、こちらを見ていた。


「あー、とんでもなく辺境の小さな小さな村の生まれでして。その、訳ありで。ほんとに何も知らないんです。この辺りのこと」

「ええ、そうでしょうね」

「…」


 分かる。自分でも無理があると思う。アドリブは苦手なんだ。奇妙な沈黙が馬車の中を支配した。次の瞬間にはドアを開けられ、道端に転がされても文句は言えない。


 沈黙を破ったのはセレーネだった。


「王国は大陸の三大国のひとつです。」


 セレーネは多くのことを教えてくれた。大陸には6つの国があること、6つの国には超人と呼ばれる戦力があり、均衡が保たれていること。王国は魔術研究に優れた国であり、国を超えて多くの子どもが魔術を学びに王国を訪れること、など。俺の頭に浮かぶ確認事項に一通り答えてくれた。


 異世界にもいろいろあることを俺は知っていた。少なくとも、俺が今いる世界には魔術があり、特殊能力があり、冒険者がいるという。


 俺は、自分だけのチート能力に思いをはせながら、馬車の小さな窓に、顔を寄せた。


 いつのまにか外の景色が、変わっていた。


 森の代わりに、緩やかな丘の連なりが、地平線の向こうまで続いていた。丘の斜面に、麦畑が、光を受けて、淡い金色に揺れていた。畑の合間に小さな家の集まりが、いくつか点在している。


 しばらく、揺れに体を任せていると風景の遠くに、城壁が見えた。灰色のしっかりした長い城壁。城壁の向こうに、塔の先端がいくつか突き出している。


「あれが、リーセヴァル。王国の南端の街です」

「思ったより、大きいな」

「王国は、各地に商業都市を整えています。リーセヴァルは中堅ですが、それでも宿屋と市場がきちんと機能しています。今夜は、この街で休みます」

「明日は」

「明日の朝、さらに東へ向かいます。昼前にはエルメンガード——王都の手前の街につくでしょう」

「王都じゃなくて、手前か」

「ええ。目的地が王国のどの町か分からなかったので。エルメンガードであれば、王国のどの町に行くにも不便はしないでしょう」

「なるほど」


 俺は、頷きで返した。頷きながら、頭の中の半分で王国の地理を、聞いた範囲で組み立てていた。エルメンガードという街の名前を覚えた。リーセヴァルという街の名前も覚えた。クリッツケルド王国、という国名も覚えた。


 頭の中の事実を、できるだけ整理して並べておく。それが、知らない場所で生きる第一歩だ、とテンプレで何度も読んだことのある作法だった。


     ◇


 馬車は、丘を一つ越えて、もう一つ越えて城壁の門の前に止まった。


 門番が二人、こちらを認めて軽く敬礼した。セレーネが小さく頷いて、ロタスが書類のようなものを見せた。検問は、それで通った。


 馬車から降りた俺の前に、リーセヴァルの街並みが広がった。


 石畳。両脇の二階建ての家。屋根の赤瓦。窓辺の小さな鉢植え。夕方の市場のざわめき。子供の笑い声。鍛冶屋の音。パン屋の前から漂う焼きたての香り。


 ファンタジー世界の街、というものを、俺はテンプレで何百回も摂取してきたつもりだった。けれど、目の前の街はテンプレの上に、もう一段、生活の重みが乗っていた。本物の人間が、本物の生活をしている街の重み。


「シンジさん」

「うん」

「こちらの宿坊に、お部屋を取ってあります。今夜は休んで、明日の朝また出発します」

「うん」

「夕食は、後ほど運ばせます。この街は外見ほど治安が良くないので、お一人での外出は、おすすめしません」

「分かった」


 俺はセレーネに頷きを返して、案内された宿坊の二階の部屋に入った。


 部屋は簡素だった。寝台が一つ、机が一つ、椅子が一つ、洗面の桶が一つ。窓は街の通りに面していて、夕方の光が、机の上に淡く差していた。


 俺は寝台に腰を下ろして、机の上にリュックを置いた。


 置いて、息を、吐いた。


 吐いた息は、自分でも驚くほどに長かった。短い間にいろいろあったぶん、肺の底に溜まっていた空気が、ようやく、ぜんぶ、出ていった、という感じの息だった。


 窓の外で夕方の鐘が鳴った。鐘の音は、低くて長かった。寺の鐘とも、教会の鐘とも違う、もう少し金属の硬い、しかし芯の柔らかい音だった。


 俺は、しばらく、その音を聴いていた。


 聴いていると、だんだんと自分が異世界にいるという実感が迫ってくる。気づけば森の中に倒れており、聖騎士なんて仰々しい職業の人達に保護され、見たこともない美しい体の馬に引かれて知らない町の宿にいる。現実感は、まだない。もう少し、興奮すると思っていた。もう少し、上手くスタートを切れると思っていた。


 異世界転移というのは、戦闘から始まるものだと思っていた。例えば、見たこともない恐ろしい姿をしたモンスターにいきなり襲われるとか、鎧を着た女騎士に助けられるとか、英雄に手を引かれて不思議な冒険をするとか。


 しかし、まあ、とりあえず、死んでいない。追放もされていないし、ハズレ能力に絶望もしていない。ただ、生きて文明の中に入れた。今日はそれで良しとしよう。


 ふっ、と笑いが漏れた。テンプレ通りでない、というのは、悪くない感覚だった。


 鐘の音を十分に聴き終わってから、寝台の上に、仰向けに転がった。天井には白く塗られた木の梁が、四本走っていた。木の節目がそれぞれ違う形をしていた。一つは丸、一つは楕円、一つは細長く、一つは何かの動物の顔のように見えた。


 異世界の天井を、こんなふうに見上げる日が来るとは。俺は、目を閉じた。瞼の裏で、最後にもう一度、馬車の中の規則正しい揺れの感触が、戻ってきた。眠気に身を任せる。


 今日はもう、何も考えなくていい、と頭の片側が言った。


 もう一度寝てもいい、と頭のもう片側が答えた。


 外の鐘が、もう一度鳴った。


 鳴り終える前に、俺の意識は、二度目の眠りに、滑り落ちていった。


     ◇


 馬車が王国の南端に向かう道の途中、ソメヤ・シンジは深い眠りの中にあった。


 馬車の規則正しい揺れと、馬の銀の脚の足音と、車輪が石を踏む乾いた音だけが、車内の沈黙を満たしていた。最初は浅かったシンジの寝息も、半刻ほどで深くなった。


 セレーネは、向かいの席で、シンジの寝息の深さを長く確かめていた。シンジが深い眠りに沈んだころ、彼女は、ようやく自分の膝の上で組んでいた両手を解いた。


 彼女は、椅子の下のシンジのリュックに視線を落とす。


 彼女の左手がゆっくりと伸ばされた。紐をほどく動作は、寝息の上下に合わせて、息を止めて行われた。リュックの底に手を入れ、彼女は、革表紙のノートを引き上げた。


 ノートを膝の上で開く動作も、最小限だった。彼女の灰色の目は、ページの上をほんの三秒だけ撫でた。ペラペラと数ページを確認した彼女は、軽くうなずきノートを閉じる。


 閉じたノートは彼女の外套の内側の、革の包みの中に収められた。


 彼女はリュックの紐を、最初と同じように結び直した。結び目の位置も、紐の通し方も、彼女が手をつける前と寸分違わなかった。仕事が終わると、彼女はもう一度、両手を膝の上で組み、組んだ両手の上に、しばらく視線を落としていた。


 視線の重さは、今日一日の任務の重さからくるものではなかった。


「……何だ、これは」


 声には出さない呟きが、彼女の口の形だけで馬車の沈黙の中に、漏れた。


 馬車は、丘を一つ越え、また一つ越えて、王国の城壁に向かって、進んでいった。


 車内のシンジは、深い眠りの中で、何も知らないまま眠り続けていた。



 彼の瞼の裏に、夢はなかった。


ここまで読んでいただきありがとうございます。

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ぜひ、考察やツッコミしながらお楽しみいただけると幸いですm(__)m


続きは明日19時ごろ更新予定です。


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