悪夢の始まり
新連載です。
本日、第3話まで公開しています。厳しいお言葉含め、感想・アドバイスお待ちしております。
第1話 悪夢の始まり
ーーー声が聞こえた。
それだけが確かだった。それ以外の全ては曖昧で、不確かで、輪郭を持たなかった。自分がどこにいるのか。目を開けているのか閉じているのか。立っているのか、座っているのか。何ひとつ断言できない。ただ暗い。果てのない暗闇の底に、俺という意識だけがぽつんと在った。
浮かんでいる、と言えるだろうか。足の裏は何にも触れず、背中を支えるものもない。地面も天井も壁も存在しない。世界という概念が剥ぎ取られた空間に、俺は一人、何の力もない微生物のように放られていた。
それでも声だけが、在った。声だけが確かだった。
穏やかな声だ。女のものか、それとも性別という区分さえ持たない何かの声か。抑揚がほとんどなくて、それなのに鼓膜の奥に沁み込んでくる。病室の隅で点滴が落ちる音——嫌でもなく心地よくもなく、ただ確実に存在する、あの静かな一滴。声はそれに似ていた。
単語の端が水に溶けるように崩れて、意味までは掴めない。けれど——不思議なことに恐怖はなかった。
怖くないどころか、妙に落ち着いていた。暗闇に放り出されて、体の感覚もなくて、知らない声が聞こえている。普通なら恐慌を来たす状況だ。だが俺の頭は、まるで自分の部屋でラノベの続きを読んでいるかのように、くつろいでいた。
(——これ、あれだ)
暗闇。穏やかな声。肉体の感覚がない。三つの条件を、自分でも意外なほど冷静な頭が整理する。弾き出した答えは、実に明快だ。
(異世界転移のチュートリアルだ)
声の主はたぶん案内役だ。女神、精霊、管理者——名前は何でもいい。テンプレートで、様式美で、そうあるべきと決まっている。そうだとすれば、次に来るものは当然——
「なあ」
声を出した。暗闇の中に自分の声だけがやけに鮮明に残った。反響はない。壁のない空間では音は跳ね返ってこない。ただ放たれて、消えていく。
「聞こえてるか? えーと、女神様? 精霊? ナビゲーション?」
穏やかな声が一瞬、途切れた気がした。
「まあ、何でもいいけどさ。なんだろうな、俺は勉強熱心というかさ、意外と慌てたり困惑はしてないんだ。初めてだけど慣れてるっていうか。だから、面倒くさい諸々は飽きてるんだ。で、単刀直入に一番大事なことを聞くぜ?」
俺は暗闇に向かって、にやりと笑った。たぶん。顔があるのかどうかも怪しいが、口角が上がったような感覚はある。
「——チート能力は何をくれるんだ?」
◇
最初に戻ってきたのは、音だった。
蝉——に似た何かの鳴き声が、低く、太く、腹の底を直に揺さぶるように押し寄せてくる。木々の間から、地面の下から、空の上から。方向が判らない。音が空間を満たしていた。地鳴りにも似たその響きは、空気そのものを震わせている。
次に戻ってきたのは、痛みだった。
背中に硬いものが食い込んでいる。根か、枝か、石か。とにかく地面だった。さっきまでの無重力が嘘のように、重力が俺の体を大地に縫い止めている。重い。体が重い。自分に質量があるということを、こんなに強く感じたのは初めてだった。
最後に戻ってきたのは、色だった。
目を開ける。ゆっくりと眼球を動かしてみる。右へ。左へ。もう一度右へ。
木。樹。黄。見渡す限りの「き」であった。黄金。
見上げた空を覆い尽くすほどの巨木が幾重にも重なり、その全てが鮮やかな黄色い葉を湛えていた。真夏の空気の中に広がる、季節を間違えたような天蓋。陽光がその葉の隙間を縫って細く千切りになり、森の底に白い点描を撒き散らしている。風が吹くたびに光が揺れ、あたり一面がちかちかと明滅した。
空気が重い。湿気を含んで、肌にまとわりつく。汗が吹き出す前に、皮膚が先にぬるりと濡れている。暑い。日本の夏とは次元の違う、原始的な暑さだった。煮えた大気の底に沈められたような息苦しさ。
俺はしばらく仰向けのまま、瞬きを繰り返した。黄金色の天蓋が、瞬くたびに揺れる。
(……さっき、誰かと話してなかったか?)
記憶を手繰り寄せようとする。暗い場所に居た気がする。誰かの声を聞いた気がする。けれど何を話したのか、何を言われたのかは、指の隙間からこぼれた砂のように取り返せない。思い出そうとするほど、手を閉じるほど速く零れていく。
不思議と、その喪失に対する焦りもなかった。大事なことを忘れているはずなのに、不思議と危機感が湧かない。
(気のせい、か)
体を起こす。見える範囲で全身を確認した。手がある。足がある。指は十本。爪も無事。服は——大学から帰る途中だったから、Tシャツにジーンズ。足元はスニーカー、数年前に徹夜で並んで手に入れた限定モデルだ。こんなところで泥に汚すために買ったんじゃない。背中にはリュック。自分の顔は確認できないが、この調子じゃあ、イケメンになっているなんてこともなさそうだ。
リュックの中身を漁る。教科書二冊、ペンケース、スマホ、財布、半分残ったペットボトルの水。生存キットとしては心許ないが、ないよりましだ。
スマホを取り出す。画面は点灯する。時刻は14時37分、水曜日。ここまでは正常。
――圏外――
画面右上の二文字が、静かに現実を突きつけた。電波は一本もない。ブラウザを開いても白いページが虚しく返ってくるだけだ。
「……うーん」
少し考えてから、電源を切った。バッテリーは有限だ。使いどころは選ばないといけない。顔を上げて、周囲を見渡す。
森だった。どこまでも森だった。道と呼べるものはない。下草が膝の高さまで生い茂り、苔と蔦が幹を覆い、朽ちた木が斜めに倒れかかっている。注意して見れば、獣道らしき痕跡が一筋、薄暗い奥へと消えていた。
深呼吸をする。
空気に混じるのは、甘い腐葉土の匂いと、もうひとつ——何か獣めいた、生臭い体臭のような気配。匂いの形をした警告。
(知らない場所。知らない森。地面に放り出された俺。スマホは圏外)
頭の中で事実を積み上げる。
(つまり、やっぱり、おそらく、きっと、多分、絶対)
立ち上がり、リュックを背負い直す。
(異世界ってところだろ)
不思議と恐怖がなかった。戸惑いすら薄い。状況そのものは——想像の範囲内だ。
◇
二十一歳。大学二年の夏。何の取り柄もない能力もない、つまらない人間。染谷真司。名前にも人生にも、特筆すべき何かがあるわけではない。だが異世界ものの小説やアニメなら腐るほど摂取してきた。妄想なら全国大会でも上位に食い込む自信がある。一度、自分でオリジナル小説を書いたこともある。ああ、いい。その話はやめておこう。せっかくの異世界の門出を、黒歴史の残り火で燻してはいけない。
「さて」
リュックのベルトを締める。
「チュートリアルがあったかどうかは……覚えてないけど、やることは分かってる。まずは人里を探す。情報収集。ギルドがあれば登録して、通貨を手に入れて、あー、能力も試しておきたいな。魔法とかあるのか、あとは——」
ーーがさり。
背後の茂みが揺れた。
振り向くより先に、匂いが来た。目を殴られたような衝撃だった。獣臭が視覚を潰しにかかってくる。涙が滲んで、鼻腔の粘膜が焼けるように熱い。両手で目と鼻をこすりながら、音のした方へ必死に顔を向けた。
涙の膜の向こうに、影が浮かぶ。
犬だった。犬のような——何か。
徐々にモザイクの晴れていく視覚が捉えたのは、禍々しいどこか生物として歪な姿だった。
肩の高さが俺の腰ほどある。毛並みは灰色ではなく紫がかった黒で、瞳は黄色く濁っていた。牙の隙間から唾液が糸を引いている。そして何より、耳が四つあった。左右に二対。全てが俺の方を向いて、ぴんと立っている。
(……ファーストエンカウントが、これ?)
心臓が跳ねた。足が竦む。脳が「逃げろ」と叫んでいる。しかし、体は動かない。全身の神経が悲鳴を上げているのに、筋肉だけが命令を拒否している。
獣が低く唸る。
声ではなかった。喉の奥から湧き上がる、地面を這うような振動だ。今からお前を食ってやるぞなんて、コミュニケーションのためのものではない。ただ、単純に獲物を前に高揚して漏れてしまった殺意。空気を伝って、俺の骨を直に揺らす。膝が震え、歯が鳴った。
こいつは——ゲームの雑魚モンスターなんかじゃない。
生きている獣が、俺を獲物として見ている。捕食者の目だ。品定めなどしていない。もう決まっている。視線の重さが、冷たい手で首筋を掴むように全身にのしかかった。
ここは画面の向こうじゃない。リセットボタンはない。死んだら、死ぬ——そのことが、冷水を浴びせられたように肌の内側に染み渡った。
(動け。動けよ俺の体。走れ。どっちでもいい——走れ!)
獣が地を蹴った。
「くそぉっ」
紫の影が、弾丸のように飛んでくる。
反射だった。考えるより先に体が横へ転がっていた。枝が頬を裂き、背中のリュックが地面を打つ。口の中に泥の味が広がる。記念すべき、異世界で最初の味だ。笑えない。
獣はそのまま俺が立っていた場所を駆け抜けて、大きく旋回する。戻ってくる。二度目。今度は逃げ場がない。背中に木の幹が当たる。追い詰められた。
「っ——」
来る。
そう確信した瞬間、甲高い金属音が森を裂いた。
銀色の線が空間を走った。獣の突進の軌道を、横から断ち切るように。紫の影が弾け飛び、もんどりうって地面に叩きつけられる。ぎゃん、と短い悲鳴。
それきり、獣は動かなくなった。代わりに俺の目の前に立っていたのは、男だった。
背が高い。俺より頭半分は上。日に焼けた肌に、短く刈り込んだ茶髪。旅装束の上に軽い鎧を重ね、腰には革の帯。右手には血のついた両手剣が一振り。
所謂ファンタジーの戦士のような姿をした男だ。武器は両手剣か、なかなかよく手入れがされていそうだ。いや、武器のことなんて全く分からないが。
男がこちらを振り返った。
目が合う。切れ長の、濃い緑色の瞳。そこにあったのは警戒でも敵意でもなく、ただ純粋な驚きだった。こんなところに人間がいるのか、という驚き。
「……大丈夫か?」
低い声だ。落ち着いた、低い声。たった今、獣を一刀のもとに斬り伏せたとは思えないほどの静けさが、その声にはあった。
「あ……ああ。助かった」
木に手をついて立ち上がる。心臓がまだ暴れている。手が震えている。膝が笑っている。情けないが、仕方ない。まだ、生きている。
男は剣の血を布で拭い、一息で鞘に収めた。ひとつの動作が終わると次の動作が始まる。継ぎ目がなかった。その美しい所作に、魅入る。
「この辺りの森は出るぞ、四耳狼が。一人で入るもんじゃない」
「四耳狼っていうのか、あれ」
「知らなかったのか?」
「あ、ああ」
男の眉が僅かに上がった。
返答を間違えたか。異世界における第一村人との会話は重要だ。相棒になったり、ヒロインだったり、実はラスボスだったりする。いや、残念ながら目の前にいるのは男だ。ヒロインの線は消しておこう。とにかく、初手の会話ミスで即殺されるなんて展開も、まあ、なくはない。
「あー、見てのとおり、ちょっと訳ありでね。この辺の地理にも疎くて」
「訳あり、ね」
男の視線が俺の身体を這った。Tシャツ。ジーンズ。スニーカー。リュック。一周して、Tシャツ。ジーンズ。スニーカー。リュック。もう一周。ゆっくりと、品定めするように。
うん、まあ、どう見てもこの世界の住人の格好ではなかった。ウニクロがこのセカイに進出してでもいない限り、このラインナップは成立しない。
「旅人か?」
「まあ、そんなところ」
声が少しだけ硬くなったのを自覚する。
「行き先は?」
「……未定」
男は少しだけ黙った。間があった。それから、ふっと息を吐く。笑ったのかもしれない。何をしても爽やかな男だ。
「俺は東に向かってる。帝都のほうだ。途中まで一緒に来るか?」
その提案は、俺にとって砂漠の真ん中で差し出されたペットボトルのように感じられた。
「頼む。是非」
「即答か」
「状況的に迷う余地がない」
男は今度こそ笑った。口の端がわずかに上がるだけの、抑えた笑みだった。
「カルセウムだ」
そう言って手を差し出す。硬い掌。剣ダコだらけの、戦士の手。
俺はその手を握り返しながら思った。
(よし、パーティメンバー一人目、ゲット)
森の奥から、何度目かの遠吠えが聞こえた。
カルセウムは音の方向をちらりと見て、剣の柄に手を添えた。
「行くぞ。立ち止まると、次は群れで来る」
「了解」
カルセウムの背中を追いかけるように、俺も森の中へ踏み出した。
黄金の葉がひらりと一枚落ちてきて、肩を掠めた。風もないのに。
ーーーーーリュックの底で、一冊のノートが、誰にも気づかれないまま揺れていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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続きは明日19時ごろ更新予定です。




