鳴り響く電話
午後の診察が始まる前から玄関先には多くの患者が並んでいた。
「おや? なんか今日、混んでるねぇ。東堂さん、時間早いけど開けちゃおっか。受付よろしく」
「あっ、はい!」
診察開始までだいぶ時間はあるが、羽賀の許可が下りたので扉を開けて患者を院内に招き入れる。薫が一人一人から診察カードを受け取り、診察番号と名前、伺った用件を用紙に記入していると羽賀がやってきて、用紙をちら見した。
「先頭は長谷川さんかー。もう呼んでいいよ。一番の診察室に入ってもらってね」
よつば動物病院は完全予約制だが、体調不良などの急患が入った場合は診察を受け入れている。今日は予約していた患者とは別に急患が二件入ったため、羽賀は早めに診察を行うことにしたらしい。
最初に受付した患者を一番の診察室に呼び入れて診察を行う傍ら、次に受付した患者を二番の診察室に通すように指示を出されたので従った。
獣医一人で二人の患者を対応するのは大変そうだ、と思いつつ、フードや薬を受け取りに来た患者や診察終了した患者の会計を担当した。
本日、何組目かも分からない会計を行い終えた時、何本目かも分からない電話が院内に鳴り響いていた。
電話は止まる気配もなく、また誰も出る気配もないため薫は受付から処置室の様子を伺った。羽賀は分厚い本を開いて、タブレットと見つめ合い、浅野は診察室から出てこない。清水は入院患者の嘔吐物を片付けているため、電話に気付いているが出れなそうだ。
となると今手が空いている薫が電話対応をすべきなのだろう。
しかし、まだ初日。電話対応をしていいと言われていないため、困っていると羽賀が間延びした声で薫の名を呼んだ。
「ごめーん。みんな、手が空いていないから電話とってくれる?」
「あ、はい!」
慌てて薫は受話器を手に取った。清水と浅野の電話対応を思い出しながら「はい、よつば動物病院です」と名乗る。
清水が心配そうな目を向けてきたのに気が付き、頷いて大丈夫なことを伝えた。
『初めてなんですけど、今日ってすぐみてもらえますか?』
切羽詰まった声が受話器越しで聞こえた。若い女性の声だ。薫はペンを片手に「どうされました?」と問いかけた。
『あのっ、うちのマロンが、犬が、帰ってきたら変で、それで、吐いたのかな? 変な、黄色の泡みたいなのも、それで——』
混乱しているのか要領を掴めない。とりあえず、今聞いた情報を組み立てると〝飼い主である女性が帰宅すると愛犬が嘔吐し、様子もいつもと違っている〟だろうか。
『いつもはお出迎えしてくれるのに、今日は寝てて、でも呼吸荒い気がして』
飼い犬の異変に不安を煽られたのか女性は堰を切った風にまくしたてる。受話器越しにも伝わってくる女性の感情に薫は冷や汗をかきながら相槌をうつ。
こういう時、どうすればいいのだろうか。必要な状況は〝患者の容態〟と〝病院へ連れてくるまでの時間〟あとは……。
飼い主の焦りが伝わってしまい、まともに思考することができない。
「先生に確認してくるので、少々お待ち下さい」
悩んだ末に女性の話を中断させると保留を押して、走り書きしたメモを手に羽賀の下へ向かった。
「あの、いいですか?」
電卓を叩く羽賀の邪魔をしないため、近くにいた清水に声をかける。
「どうかした?」
「始めての方からお電話が入っていて、飼い主さんが家に帰ったらわんちゃんの様子がいつもと違ったらしく、それで、吐いたのか黄色の泡みたいなものもあったと言われて。飼い主さんは混乱しているらしくていまいち内容が……」
「電話変わるわね。羽賀先生がお薬の値段が合っているか確認しているから、それが終わったら小泉チョコラちゃんっていう子のお会計お願いできる? それで、お会計が終わったら薬が出来上がるまで待合室で待っていてもらって」
「は、はい」
薫が頷くと清水は受話器を手にすると新患となる女性の話に耳を傾けた。あいも変わらず女性は混乱しているようで、彼女を落ち着かせるべく清水は「落ち着いて、ゆっくり話してください。不安はわんちゃんにも伝わりますから」と優しく語りかけている。
(なるほど。そう返せばよかったのか)
考えて見れば簡単だが、実際に電話対応をしていると抜け落ちてしまう。薫は次は気を付けようと誓い、清水の対応を学ぶべく、耳を傾けた。
「わんちゃんの様子が普段と違うとお伺いしたんですけど、飼い主様は……佐々木様のご自宅からここまでどれほどかかりますか? はい、十五分ですね。……そうですね、他の患者さんの診察もありますので一旦お越しいただいて、ええ、はい、実際に容態を確認してから——」
「よし、じゃあこれで締めてお会計まわして」
バッと目の前に突き出されたタブレットを、薫は驚きながらも受け取った。清水の会話に集中し過ぎて忘れていた。
言われた通りの仕事をしなければ、とタブレットを見つめる。今日の日付の隣には患者の体重や様子がこと細やかに記されており、更にその隣には薬の名前が並んでいる。APPやBID、よく分からない単語はきっと業界用語だろう。
「東堂くん、カルテの情報をパソコンに飛ばす方法って教えてもらった?」
「いえ、それはまだです」
「まあ、受付を担当してもらうから覚えなくていいかもなんだけど、そこまで難しいものではないし、教えるよ。僕、今から調薬しにそっち行くし」
そう言うと羽賀はタブレットを指で叩いた。
「うちは少人数でやっているから電子カルテを使用しているんだよ。手入力しなきゃいけないところもあるけど、ペンで書くよりも打ち込んだ方が早いし、薬の種類と量を入力したら自動計算されるんだ。再診料と薬代、処方料とか諸々、ほらここに表示されてるでしょ?」
んで、と次は一番下の〝保留〟を指差す。
「ここ押せば、保存されて受付のパソコンの方でも開けるようになるから——」
「楽しそうですね」
背後から声をかけられた羽賀は大袈裟なほどに肩を跳ねさせた。恐る恐る背後を振り向くとそこにいた人物の姿を見て、あからさまにほっと胸を撫で下ろした。
「あ、浅野くぅん……。驚かさないでよ。心臓が飛び出るとこだったよ。わざと声も似せたでしょ」
「別に。サクラさんの点滴終わったんで、挨拶ぐらい行ってください」
「冷たいなー。この姉弟、見た目は違うのに性格はそっくりだよね」
こっそりと耳打ちされても反応に困る。薫は愛想笑いを浮かべた。
「サクラさん、持っていくものないんで計算は前と同じで締めますよ」
「薬足りる?」
「次の点滴までの分はあるそうです」
「なら挨拶してくるから浅野くんは東堂さんのお会計を見たげてよ。慣れてきているとはいえ、まだ初日だし」
「いいですけど、姉さんは?」
「電話対応中〜。なんか面倒臭そうな飼い主さんな予感するよ」
「そんなこと言わないで、早くサクラさんに挨拶行ってください」
「はいはい、サクラちゃんも僕に会いたいだろうし、ちょっと話し込んでくる」
ひらひらと手を振ると羽賀は〝1〟と書かれた診察室へ入っていく。残された薫は伺うように浅野の顔を見つめた。気さくなのは知っているがいかんせん接点が少なすぎるので、どう話したらいいのか分からない。
薫の視線を受け取った浅野は悩むように眉を軽く寄せるとため息をはいた。
「先に言っておきますけど、俺は姉さんと違って教えるの下手くそなんで。分からないと思ったら聞いてください。まあ、さっきから会計してるし大丈夫そうですけど」
「よろしくお願いします」
「じゃあ、受付に行きましょうか」




