所有権について
カーテンの隙間からこぼれ落ちた光が眩しくて、薫は身をよじる。そろそろ起きなければ、と思いつつももう少しだけ眠っていたい気持ちとの葛藤をくりかえして、寝返りを打った。
しばらく、シーツの上でまどろんでいると射し込む光の筋が、温かみを帯びてきたことに気がついた。もうすっかり朝なのだと思うと、さすがにこれ以上、惰眠をむさぼるわけにもいかない。
気だるげに体を起こして、ベッドから降りると階段を下り、一階へ向かった。
「……おはよう」
リビングへ入り、誰にともなく呟いた朝の挨拶。少し前は笑顔で返してくれた祖父母もいない家はがらんとしていた。
いつまで経っても返事はこない。薫が奥歯を噛み締め、寂しさを紛らわせようとするとポケットの中のスマホが震えた。確認するとよつば動物病院から着信が届いていた。
今現在、早朝七時前。さすがに電話がくるにしては早すぎる時刻だ。
(もしかして、あの子になにかあったとか?)
薫が不安に苛まれているその間にもスマホは震え続けている。一向に切れる気配はない。この時点でかけてきた人物が誰であるか薫は悟った。
『やあ、今日も面会にくる?』
出て早々、名乗りもなく羽賀の声が聞こえた。薫の予想通りだ。清水や浅野なら出ないと分かったら一旦切ってかけ直してくるが羽賀は根性勝負をしているのか薫が出るまで待ち続ける。
それに、こんな早朝から電話をかけてくるなんて病院の二階に住んでいる羽賀しかありえない。
「おはようございます。お昼頃、お伺いしようと思っています」
『うん、いいよー。今日の手術は簡単なやつだからすぐ終わるし、待ってるね』
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
『はいはーい。扉開いてるから勝手に入ってきてね』
ブッと通話が切れた。通話画面からホーム画面に変わったスマホを眺めながら薫はうずくまる。
(よかった。猫ちゃんはなにもなかった)
はあ、と息を吐き出す。三毛猫は偶然拾ったばかりで関わりは薄いが両親と祖父母の死を間近で見てきたため、もしかしたらと考えるだけで恐ろしく感じてしまう。
(大丈夫。羽賀先生達がいるもの)
そうだ、大丈夫。そう何度も自分に言い聞かせる。
三毛猫が入院して今日で二日目、あれだけぐったりして元気がなかったのに今ではご飯をねだるほど元気になった。本来なら猫は環境の変化に弱く、慣れない場所だと食事を摂らない場合が多いのだが三毛猫はその逆で、病院で用意されたフードのサンプルをどれも残さず食べて、更に催促するほどに食に貪欲だ。
骨折と脱臼のため、後ろ足は動かないが、あれだけ食べて、寝て過ごしているのだから心配する必要はない。
(あの子、やっぱり誰かに飼われていたのかな……)
誰かが近付くと警戒し、耳を伏せて瞳孔を丸くさせるが決して爪や牙で攻撃はしてこない三毛猫を羽賀は「誰かに飼われていたのでは?」と言っていた。
もし、それが本当なら三毛猫の家族は心配しているに違いない。
そう考えると朝食を食べる気にもなれず、薫は素早く外出の準備を整え、その足で三毛猫を拾った場所まで行くことにした。
*
電気が落とされて薄暗くなった院内を覗き込み、「失礼します」と声をかけた。羽賀からは入院室まで自由に入ってきていいと言われているが礼儀を欠くのは駄目だと受付で待機する。
少しして清水が奥から顔を覗かせた。
「待っていたよ。ごめんね、羽賀先生ったら朝早くに電話かけたんだって? 迷惑だったよね」
「いえ、起きていたので大丈夫ですよ」
「嫌なら嫌って言っていいからね! 羽賀先生は本当に他人のこととか考えないもの」
何度も顔を見合わせたおかげか清水とは初日と比べて仲良くなった、と薫は思う。
屈託なく笑う清水のお陰で、胸の奥にあった鬱屈とした気持ちが軽くなった。
しかし、清水の目は誤魔化せなかったようだ。ん? と器用に片眉を持ち上げて、薫の顔を——特に目をまじまじと観察し始める。
「なにかあった?」
「えっ、と」
薫は言い淀む。隠していたつもりなのになぜバレたのだろうか。
「言いたくない?」
「いえ、そういうわけではなくて……」
本心を言えば、心のモヤを霧散するために聞いて欲しい。けれど、どう言葉で表せばいいのか分からず、薫は無意識に視線をさまよわせた。
その様子を見ていた清水はこれ以上、無理に追求することはせず、一転して優しく笑った。
「言いたくなったら言ってね。相談のるから」
「……すみません」
「悩み事は誰かに話せば軽くなる場合もあるし、自分で考えるのもいいし、そこらへんは東堂さんのしたいようにすればいいと思うわ。それじゃあ、猫ちゃんに会いに行こっか」
踵を返して清水は奥へと移動する。
その背中を追いかけながら、薫は午前中にあった出来事について考えていた。
*
くしくしと前足で顔をこすり洗うと三毛猫は大きくあくびをした。眠たいのか薄く目を開けては、完全に閉じ、また薄く目を開く。
眠れないのはきっと薫の存在があるからだ。
その証拠にその目は入院室の入口に立つ薫に注がれている。清水と違って時々しか訪れない薫は三毛猫にとって部外者でしかなく、警戒を緩めれないらしい。
「あの子、本当に肝が据わっていてね。普通だと入院した直後にご飯なんて食べないし、私達の前で寝ないし、近づくとシャーって怒ったりするのに、それがまったくないのよ」
清水は三毛猫のことを思ってか声を小さくして囁いた。
「やっぱり飼い主さんいるのかしらね」
その言葉に薫は肩を跳ねさせた。
清水は気付いたようで不思議そうな目を向けてくるが言葉で問いただしたりはしない。薫から話すのを待っていてくれているようだ。
「……今日、あの子を拾った場所に向かったんです。ご家族と会えるかなって」
ぽつりと呟けば、清水は「うん、どうだった?」と小首を傾げた。
「近くに住むおじいさんが野良猫に餌をあげてて、あの子もその一匹だと聞いて、会いに行ったんです」
ぽつり、ぽつりと薫は語る。
その老人は一人暮らしで、十数匹もの野良猫に餌をやっていた。
だが、どの猫も避妊や去勢がされておらず、餌を与えるだけで世話をしないため、近所の人々には嫌がられていた。
餌付けされた猫たちは人間を恐れず、自由に庭に入り込み、排泄したり、道路に飛び出して車に轢かれそうになったりしていた。そうした危険から、近所の人々は何度も注意したが、老人は全く耳を貸さなかった。
薫がその老人の家の場所を尋ねると、皆が渋々顔を顰めて教えてくれた。今思えば、彼らは関わりたくなかったのだろう。
「この子はおじいさんの飼い猫ですか?」
薫が家を訪ねると庭先に猫に餌を与えていた老人がいた。不機嫌そうに薫を睨みつけてきたが、入院中の三毛猫の写真を見せると「ああ」と頷き、はっと鼻で笑う。
「轢かれて死んじまったのかと思ったわ。生きてたんか、アイツ」
まるで興味なさげに言うので薫は面食らった。曲がりなりにも自分が餌を与えて、可愛がっているはずの存在なのに心配する様子はまったくない。
「俺は金出せねーぞ」
それどころか老人は手術費のことだけを心配した。年金暮らしに手術費を出せというのか、お前が拾ったんならあの猫はお前の物だから金は自分で払え、いっそのこと轢かれて死んじまえば良かったのに。あの三毛猫に恨みでもあるのか、その老いた口から次から次へと飛び出てくるのは耳を塞ぎたくなるような言葉ばかり。
「なんか、悲しくて、やるせなくて……。逃げてきちゃいました」
こんなこと言われても清水が困るだけ。
そう分かっていても言葉にすることで胸が軽くなった気がした。
「別に治療費が欲しいわけじゃなかったんです。あの子は無事ですよって伝えたかっただけなんです」
「それは災難だったね」
そう思ってもいなさそうな軽薄な口調に清水と薫はそろって背後を振り返る。入院室の入口で、羽賀が腕を組みながら首をもたげていた。
「でも〝その猫は東堂くんの〟って言質とったんならラッキーだね。誓約書を書いてもらった方が確実だけど、話聞く限りそこまで愛情持ってなさそうだし、これで何やっても訴えられることはないよ」
歯を見せて笑う羽賀を清水が冷めた目で睨みつける。
「そういう話してないんですけど」
「いやいや、大切だって。ほら、野良猫に避妊手術施したら実は逃げ出した猫で、飼い主から訴えられた! とか道端で拾った怪我した犬を病院連れて行ったら実の飼い主と治療費の支払いでトラブルになった! とか色々あるじゃん」
「……まあ、確かに」
清水が頷くその横で薫は首を傾げる。羽賀の言う通りならあの老人に猫の所有権を放棄してもらった方が治療を問題なく行えるのだろう。
しかし、治療費でトラブルになるのだろうか。避妊の件は分からないでもないが、後者は大切な愛犬を助けてくれたのに。
「んー、なんて言うかね。日本の法律でペットは物扱い。つまり、犬猫の所有権は飼い主にあるんだ。保護した人が自己判断で避妊去勢や治療を施しても〝なんで勝手にやったんだ〟ってなるわけ」
「え、怪我しててもですか?」
「そうだよ。飼い主さんとしては頼んでもいないのに勝手に治療されて、さらに治療費を請求されたらたまったもんじゃないよね」
「……なんて言うか」
言葉に詰まっていると羽賀は肩を持ち上げてみせた。
「正直さ、犬や猫を飼ってるからって心まで綺麗って人は全体の半分いたらいい方なんだよ」
「……半分」
「もう二十年近く獣医やってるけど、色んな家庭の形を見てきたんだ。犬猫をペットじゃなく我が子として可愛がる人もいれば、ただの生き物として飼う人もいる。今回の、東堂さんが会いに行ったおじいちゃんは間違いなく後者だろうねぇ」
からからと笑いながらも羽賀は優しい眼差しを三毛猫に向ける。
「そのおじいちゃんはご飯だけあげていたらしいけど、三毛猫は幸せだったと思うよ。殴られたり蹴られたりした猫だと、こうやって安心した顔しないもん。あと強運! 事故って死にそうになっていたら見ず知らずのお姉さんが助けてくれるなんて超ラッキー!」
「……羽賀先生は、この子をおじいさんの元に返すほうがいいって思いますか?」
え? と羽賀は首を傾げる。
「なんで? おじいちゃん、所有権放棄したんなら東堂くんの子じゃん。気にせず飼っちゃいなよってこと」
「えっ、飼う?」
「うん。東堂くんが飼っちゃえばいいじゃん」
「いや、飼うって三毛猫ちゃんを育てるってことですよね?」
「うん。生まれた時からご飯くれるおじいちゃんがいて、途中からは助けてくれたお姉さんと一緒の方が幸せじゃない? どうせなら死ぬまで幸せで過ごしてもらいたいじゃん」
ぽかん、と薫は口を開ける。羽賀特有の話の流れに乗っていけないでいると清水が長息した。
「あの話するにしては強引すぎですよ!」
「え、そうかなぁ。いい感じに持っていけたと思うんだけど」
ふるふると清水が首を振る。
「えー、じゃあ、単刀直入に聞こうか。ねえ、東堂さん、就活決まった?」
「いえ、まだ」
というよりも今は就活よりも短期バイトでお金を稼ぐ方を優先している。それは前もって伝えておいたはずだが、どういう意味で聞いてきたのか分からず、薫が不思議そうに目を丸くさせると羽賀はいつものようにへらりと軽薄に見える笑みを浮かべながら右手を掲げた。急に見せられた手のひらに、薫が戸惑っていると「五万」と羽賀は言った。
何が五万なのか分からず、薫が小首を傾げると側で会話を聞いていた清水がぎょっと目を見開くのが見えた。
「だから話し方ってものがありますよね?」
「大丈夫だよ」
羽賀からのサムズアップに清水は肩を落とす。
「東堂さん」
「え、あ、はい」
清水に名を呼ばれ、咄嗟に背筋を伸ばす。
清水が唇を開こうとした時、「俺が伝えるよー」と羽賀が間延びした声で茶々を入れた。
「……しっかりと、簡潔に、きちんと伝えてくださいね」
「はいはい。了解了解」
へらり、と羽賀は笑顔で答えると右手を軽く左右に振った。
「スタッフ価格。手術費及び通院費、総額五万でいーよ」
「スタッフ価格ですか?」
「うん。そう。うちは万年人手不足でね。東堂さんがよかった働かない? 手術費も安く済むし、この子を飼うならこれからかかる費用、予防接種だとか血液検査代とかスタッフ割きくからお得だよ」
それは、お得だと頷くほかない。今のところ飼う予定はないが飼い主が見つかるまで飼育するとなると餌代や健康診断費用などかかる。それが割引、しかも就活もクリア。
すぐにでも了承したが懸念点が一つ。
「あの、でも私は動物に詳しくなくて……。資格もありませんし」
「ん? ああ、看護師ってわけじゃなく受付でどう? 電話対応や受付、掃除、慣れたら発注もお願いしたいかな」
羽賀はどこからか一枚の紙を取り出すと薫に差し出した。
「これは?」
受け取って紙上に綴られる文字を読み込む。雇用契約書のようで勤務時間や休日・休暇。給料に賞与などが事細やかに記載されている。
……正直に言えば、高待遇としか言えない内容だ。
「今はちょうど閑散期だからね。僕らもつきっきりで教えることができるし、東堂くんは就職先を探してる。ちょうど良いと思わない? 僕と浅野くんが空いてる今がチャンス! 清水くんは教えるの上手だけど怖いからね」
「それは、先生が不真面目だからです」
清水の叱責に羽賀はうんざりした顔を作る。わざとらしく「ほらぁ、よく怒る」と口にした。
「そうやってあることないこと言いふらさないでください」
「事実じゃん。君のお子さん達だって〝ママによく怒られる〟って言ってるじゃん」
清水の拳が羽賀の頭にめり込んだ。いい音がした通り、痛かったのか羽賀は頭を抱えた。
「……清水くんはひどいな。この人、こうやってバンバン叩いてくるんだよ。お子さん達にも手を出してそう」
「そんなことはしません。先生だけです」
「僕だけ特別ってこと?」
羽賀が頬に手を当てる。冗談めいた上目遣いで清水を見上げた。
それに清水は「気持ち悪い」と一蹴し、薫へと微笑みかける。
「就職って合う合わないがあるからゆっくり考えて見てね。あっ、試しに入ってみるのもいいかもしれないわ」
「あー、いいね。職場体験。三日ぐらい試してみれば?」
「それは短すぎだし、先生は黙って」
「はいはい」
「受付っていってもすぐに仕事を任せるわけじゃないからね。私や賢司……もう一人の男の人が受付の仕事をするからそれを見て、覚えて。少しづつ慣れていけばいいから」
「この人、鬼だよ~。鬼畜。超ドS。聞くなら僕か浅野くんにしなね」
「先生、黙る」
「……はい」
さすがにまずいと思ったのか羽賀は黙り込む。
それをいいことに清水は先程とは違い、穏やかな表情で喋りだす。
「もちろん、試用期間中の給料はでるし、三毛猫完治するまでサポートは必要でしょ? うちで働けば同伴出勤できるからメリットの方があると思うの」
確かにそれも一理ある。退院してからしばらくはレーザー治療のために通院する必要がある。そのため、同伴出勤ができるならこちらとしても負担は少ない。
だが、スタッフ割りを活用すると「やっぱり無理です。働きません」なんて申し訳なくて言えない。
「あの、ありがたいお話なんですけど、一度、持ち帰って検討してみてもいいですか? 少し混乱してて」
「いいよ。僕らも急に誘ったし、ゆっくり考えてみて」
ひらひらと手を振る羽賀に、薫は深く頭を下げた。本当はもう少し三毛猫の様子や動物病院のことを聞きたかったのだが、もう十分もしないうちに午後の診療が始まってしまうため、後ろ髪を引かれる思いで、薫はよつば動物病院を後にした。




