僧帽弁閉鎖不全症
診察室と処置室を区切る扉には小さな小窓がついている。なにかあればすぐ連絡を取り合えるようにするためだと、前に羽賀が教えてくれた。
その小窓からは診療台に伏して、辛そうに顔を持ち上げるマロンと、マロンが落ちないように支える佐々木の姿が見えた。
その前には羽賀が白い紙を眺めつつ、なにか話をしている。その話の内容は薫の位置からは聞こえない。
しかし、いつもの飄々《ひょうひょう》とした顔が険しくなっているので血液検査の結果がよくないのはなんとなく分かった。
(治ればいいんだけど)
ぼんやり眺めていると誰かに肩を叩かれた。驚き、肩を跳ねさせながら薫が振り向くと、驚いた顔をした浅野が立っていた。
「すみません。驚かせてしまいましたね」
「あ、浅野さん。すみません、ここにいたらお邪魔でしたよね」
「いいえ、大丈夫ですよ。気にされていたのが見えたので、どうかしたのかなって」
「あー……。さっき、待合室で、オーナーさんとお話して、あの子、マロンちゃんはオーナーさんが子供の時から一緒にいる妹みたいなものだって。それで、気になって……」
ああ、と浅野は納得した顔をする。
「あの子、肝臓と腎臓の数値がとても悪かったんです。特に肝臓の数値がぶっ飛んでいて、食欲不振や元気消失、吐いたのもそれが原因でしょうね。あと、程度は分かりませんが心雑音もあったと聞きました」
「心雑音?」
「心臓病に診られる症状のひとつです」
心臓は体中に血液を流す重要な臓器の一つだ。心臓の筋肉に異常が起こり機能が低下する〝心筋症〟や寄生虫が原因の〝フィラリア症〟——心臓病も多岐にわたるが佐々木マロンは〝僧帽弁閉鎖不全症〟と呼ばれる犬の心臓病でもっとも多い病気だという。
心臓は四つの部屋に別れていて、その部屋の入口には血液を反流させないための弁がある。加齢により、その弁を閉ざす力がなくなると血液は反流し、ノイズとなって聞こえる。
軽度なら問題は特にないが、重度になると短時間の運動でも息切れを起こしたり、急に意識を失ったりする。特に小型犬が高齢になると発症しやすく、十二歳以上だと五頭に一頭は僧帽弁閉鎖不全症に罹患している、という浅野の説明に、薫は無意識のうちに拳を握りしめた。
「人間と同じように高齢になるとどうしても避けては通れません。犬や猫って喋れないから飼い主が気付くしかないんですよ。でも、彼らは心配かけさせないように隠そうとするから、気付いた時には今回のように限界が近いことが多いんです」
「限界って、治療すれば」
「治療すれば必ず治るってわけじゃないんですよ。……ひどいことを言うかもしれませんが、あの子は今夜が峠だと考えていいです。預かって点滴しても急変する可能性があるので、今回はいくつかの注射と皮下点滴して家で付き添ってあげればどうか、と羽賀先生が説明しているはずですよ」
——治療をすれば必ず治るわけではない。
そんなことは常識だ。
しかし、薫は心のどこかで「羽賀先生ならきっと助けてくれる」とそう思っていた。あの夜、車に轢かれた三毛猫を助けてくれた時のように。
(なんで犬や猫って命が短いんだろう。あんなに愛されて、大切にされているのに……)
マロンの顔を撫でて、話しかける佐々木の姿を薫は静かに見つめ続けた。




