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第70回 / マッチョイズムの落日


ワシントンD.C.への最後の関門。

そこに立ちはだかるのは、合衆国陸軍の精鋭中の精鋭が集う訓練施設、『キャンプ・スパルタ』だった。


正門をくぐった瞬間、私の嗅覚を刺激したのは、鼻が曲がりそうなほどの「男臭さ」だった。

機械油、タバコ、泥、そして濃厚なテストステロンの臭い。

ここには「可愛いもの」や「柔らかいもの」は1ミクロンも存在しない。

あるのは、直角に刈り揃えられた芝生と、コンクリートの壁、そして怒号だけだ。


「――貴様ら、それでも男か! 声が小さい!」

「痛みを感じるのは、弱さが体から抜けていく証拠だ!」

「泣くな! 涙は血液の無駄遣いだ!」


泥だらけのグラウンドでは、数百人の兵士たちが、教官の罵声を浴びながら丸太を担いで走り回っている。

彼らの顔は苦痛に歪んでいるが、誰一人として弱音を吐かない。

いや、吐くことを「去勢」と同義だと洗脳されているのだ。


「……暑苦しいですわね」


私は扇子でパタパタとあおぎながら、その地獄絵図を眺めた。


「ここでは『感情』を持つことが罪のようですわ。

……見て、あの子。足首を捻挫しているのに、歯を食いしばって走っている。

……あちらの子は、高熱があるのに冷水を浴びている」


「効率が悪すぎる」

レンが顔をしかめる。

「メンテナンス不足の機械を無理やり動かしているだけだよ。あれじゃ、いつか精神(OS)がクラッシュする」


「ええ。……彼らが守ろうとしているのは、国ではありません。

『男らしさ』という名の、脆くて重たいプライドですわ」


          ◇


「――止まれぇぇぇ!!」


雷のような怒声が響き、訓練が中断された。

兵士たちが一斉に直立不動の姿勢をとる。

その視線の先に現れたのは、岩石のような巨体を軍服に押し込んだ男。

この基地の司令官であり、「ミスター・タフガイ」の異名を持つ、アイアン・オニール将軍だった。


彼は葉巻を噛み砕きそうな勢いで、私たちを睨みつけた。


「貴様らが、噂の『全肯定』テロリストか。

……フン、女子供に、軟弱なガキ(レン)か。

ここが神聖なる『男の園』だと知っての狼藉か!」


「ごきげんよう、将軍。……『男の園』? いいえ、私には『我慢大会の会場』に見えますけれど」


「なんだと?」


オニール将軍のこめかみに、ミミズのような青筋が浮かぶ。


「我慢だと? 違う! これは『鍛錬』だ!

男は強くあらねばならない! 岩のように硬く、鋼のように冷徹に!

女々しい感情など切り捨てろ! 弱さは罪だ! 筋肉こそが真理だ!」


彼が拳を握りしめると、分厚い胸板が波打った。

その背後で、兵士たちが「イエッサー! マッスル・イズ・ジャスティス!」と唱和する。

一種の宗教儀式だ。


「……可哀想に」


私は一歩踏み出し、将軍の目の前に立った。

身長差は五十センチ以上。

しかし、私は彼を見上げながら、慈悲深い笑みを浮かべた。


「将軍。……貴方のその分厚い筋肉の鎧。

それは、誰かを守るためのものですか?

それとも……『傷つくのが怖い自分』を隠すためのものですか?」


「……ッ、愚弄するか!」

将軍が吠える。

「俺は何も怖くない! 戦場でも、地獄でも生き延びてきた!

恐怖など、軟弱者の妄想だ!」


「本当に?」


私は彼の手元を見た。

握りしめられた拳。その爪が、掌に食い込んで血が滲んでいる。


「貴方、最後に泣いたのはいつ?」


「……泣く? ハッ! 赤ん坊じゃあるまいし!

俺は生まれた時から涙など流したことはない!」


「嘘をおっしゃい」


私は彼のごわごわした剛毛に覆われた腕に、そっと触れた。


「貴方の体は、こんなに震えているのに。

……悲しいニュースを見た時、美しい夕焼けを見た時、本当は心が揺れているのに。

それを『男らしくない』と押し殺して、心の便秘になっているのではありませんか?」


「……黙れ……! 俺に触るな!」

将軍が私を振り払おうとする。

しかし、その動きは鈍かった。

心の奥底にある「図星」を突かれ、防衛本能が揺らいでいるのだ。


「ベルナデット」

「ああ」


ベルナデットが、近くにあった巨大なトラクター用タイヤ(訓練用)を片手で持ち上げ、軽々と放り投げた。

ズドォォォン!!

地響きが鳴る。


「……なっ!?」

兵士たちが度肝を抜かれる。


「力自慢なら、私が相手になろう」

ベルナデットが腕組みをして鼻で笑った。

「だが、貴様らの強さは『張りぼて』だ。

……痛みを隠すことが強さではない。痛いと言えるのが、本当の強さだ」


「……ぐぬぬ……!」

将軍が顔を真っ赤にする。

論理でも、物理でも圧されている。


「さあ、将軍。……もう楽になりなさい」


私はマリアに椅子を用意させ、そこに座った。

そして、自分の膝をポンポンと叩いた。


「え?」

将軍が固まる。


「いらっしゃい。……『男らしさ』なんて重たい荷物は下ろして。

ここなら、誰も見ていませんわ(※全兵士が見ています)」


「な、何を……! 俺に……膝枕をしろと言うのか!?

ふざけるな! 俺は50歳だぞ! 部下の前だぞ!

そんな恥ずかしいこと……!」


「恥ずかしい? 誰が決めたの?」


私は優しく、しかし逃げ場のない瞳で彼を射抜いた。


「男だって、甘えたい時がある。

……パパだって、誰かの子供に戻りたい夜がある。

違うかしら?」


「……ッ!」


将軍の脳裏に、封印していた記憶が蘇る。

厳格だった父。泣くことを許されなかった少年時代。

「男だろ」「泣くな」「耐えろ」。

その言葉の呪縛の中で、彼は必死に「アイアン(鉄人)」を演じ続けてきた。

でも、本当はずっと、誰かに頭を撫でてほしかったのだ。


「……俺は……俺は……」

将軍の足が、磁石に吸い寄せられるように一歩、また一歩と私に近づく。


「ダメだ……! 俺は将軍だ……! 威厳が……!」

理性は抵抗する。

しかし、本能(バブみへの渇望)が、肉体の制御権を奪っていく。


彼は私の前で、ガクンと膝をついた。

そして、吸い込まれるように、私の膝にゴツい頭を預けた。


「……あ……」


ふわ。

シルクのドレスの感触。

石鹸の香り。

そして、母のような温もり。


その瞬間。

鉄人の回路が焼き切れた。


「……マ……ママァァァァァーーーーッ!!」


「!!??」


全兵士がけぞる。

鬼の将軍が、赤子のような声を上げて泣き出したのだ。


「辛かったよぉぉ! 痛かったよぉぉ!

本当は……注射も怖いし……お化けも怖いし……!

『男なら我慢しろ』って……もう嫌だぁぁぁ!」


ダムが決壊した。

50年分の我慢汁(涙)が、滝のように溢れ出す。


「よしよし。……怖かったわね。偉かったわね」


私は彼の短い白髪頭を、優しく撫で回した。

「耳かき、しましょうか?」


「……うん……! してぇ……!」


私はマリアから黄金の耳かきを受け取り、将軍の耳を掃除し始めた。

彼は「うへぇ……」「気持ちいい……」と、完全に幼児退行して、鼻水を垂らして脱力している。


その光景を見て、周囲の兵士たちの間にも動揺が走った。


「……将軍が……泣いてる?」

「あんなに気持ちよさそうに……」

「……俺も……実は……」


一人の兵士が、銃を置いて座り込んだ。

「……俺、本当は花屋になりたかったんだ……。でも親父が『男は軍人だ』って……」

「俺もだ……。スイーツ作りが趣味なんて、誰にも言えなくて……」

「ぬいぐるみ……抱いて寝たい……」


カラン、カラン。

武器が地面に落ちる音が連鎖する。

彼らは互いに顔を見合わせた。

そこにはもう、競争相手としての敵意はない。

同じ「男らしさ」という呪いに苦しめられてきた、被害者同盟としての連帯感が生まれていた。


「……おい、お前……大丈夫か?」

「うぅ……泣いていいのか……?」

「いいんだよ……。俺の胸で泣けよ……」


屈強な男たちが、互いに抱き合い、背中をさすり合い、号泣し始めた。

地獄の訓練場は、巨大な「男子限定・セラピー会場」へと変貌を遂げた。


「……すごい絵面だね」

レンが、男泣きする筋肉の海を見て苦笑する。

「地獄絵図が、別の意味でカオスになってる」


「いいえ。……これが『浄化デトックス』ですわ」


私は将軍の頭を撫でながら、マリアに指示を出した。


「マリア。……大量のホットミルクと、バスタオルを。

彼らの水分補給と、涙拭きが必要ですわ」

「畏まりました。……哺乳瓶も用意しましょうか?」

「気が利くわね。……きっと喜ぶわ」


数分後。

キャンプ・スパルタのグラウンドでは、いかつい男たちが哺乳瓶でホットミルクを啜りながら、「バブー」と呟いて昼寝をするという、前代未聞の光景が展開されていた。

有害なマスキュリニティ(男らしさ)は、母性の前では無力化され、純粋な「男の子」へと還ったのだ。


「……ありがとう、ママ(レティ)……」

将軍が、私の膝で寝息を立てながら呟く。

「もう……無理しないよ……」


「ええ。……おやすみなさい、小さなアイアンマン」


私は彼の寝顔を見守りながら、視線を北へ向けた。

残るは、ホワイトハウスのみ。

ここでの「陥落」の知らせは、間違いなく大統領の元へ届いているはずだ。


「……ストロング大統領。

貴方の最後の砦(男らしさ)も、こうして崩れ去りました。

もう、貴方を守る鎧はどこにもありませんわ」


彼は今頃、孤独に震えているだろうか。

それとも、怒りに燃えているだろうか。

どちらにせよ、彼が求めているのは「勝利」ではない。

この将軍と同じ、「無条件のハグ」だ。


「行きましょう。……世界で一番大きな迷子を、迎えに」


私たちは、泣き疲れて眠る兵士たちに別れを告げ、再びリムジンに乗り込んだ。

ワシントンの空が、夕焼けに染まっている。

それは、来るべき「甘い夜明け」の前兆のように、赤く、優しく燃えていた。



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