昼食
「フレア、何をさっきからにやけているのです。集中しなさい!」
ロゼッタさんが私の愛称で声を掛けてきた。ロゼッタさんは二人での授業中だけはこの愛称で私を呼んでくれる。かつてのフレアが、そして今のフレアも、彼女がこの名前で呼んでくれる時はこの家での孤独を感じずに済んだ。
「はい、ロゼッタさん。すみません」
マリアンさんとのつなぎがうまく行ったことと、トマスさんとの文通がうまくいっていることに舞い上がって、思わず顔に出ていたらしい。
いけない、いけない、集中しないと。前世でも勉強なんてしたことが無かったが、前世で田舎町を出てから知識と言うのがいかに大事かが分かった。
このちょっとばかり変なものが混じる前のフレアも、前世の田舎を出る前の私同様、全く分かっていなかったが、せっかくそれを教えてくれる人がいるのだ。集中して授業を受ける必要がある。ただし詩の授業とかいうのが、いつどこで役に立つのかは未だによく分からない。
「もうすぐ赤い月の昇る時期で、境界が不安定になります。昔に魔法職が開けてそのままになっている穴から、異境の者が出てくる可能性もあります。王都とは言え十分な注意が必要です」
「穴ですか?」
ロゼッタさんが私の方をじろりと見る。もしかして危険な質問でした?
「貴方は私の魔法に関する基礎を全く聞いていなかったのですか? それともその頭は、三歩歩くと全てを忘れてしまうのでしょうか?」
すいません。今まではその両方だったと思います。お話を聞いているふりをして、庭の花壇を眺めていました。
「魔法職が力を行使する時に、他の世界との間に穴を開けてそこから力を、使役すべきものを呼び出すことぐらいは分かっていますよね?」
「はい……」
なんとなくですけど。いえ、全く分かっていません!
「力を行使した後はその穴を塞がないといけないのですが、それをしなかった未熟者や、それが出来なかった穴がそのままになっていることがあります。王都の穴で塞がれずにそのままになっているものは監視されていますが、周辺の穴で未監視のものから、こちらの意図しない何かが漏れ出てくる可能性があります。あるいはそれを隠れ蓑に悪事を働くものもいます」
「悪事ですか?」
やっぱりこの世界も、それに貴族のお嬢様でもそれから無縁ではないのですね。前世はそれであっさりと殺されてしまいました。私が死んだ後でみんなはどうなったんだろう。無事に切り抜けてくれたことを切に願う。
「そうです。フレア、あなたももうすぐ15で学園に入る年です。そして貴方は『カスティオール』の長女でもあります。そのような世の中の事も少しは理解する必要があります」
「はい、ロゼッタさん。是非によろしくお願い致します」
出来れば詩の授業より、その辺りの危険物の取扱について教えて頂けませんでしょうか? 前世では八百屋をやっていたら急に冒険者をやることになって、基礎が全く出来ていなくて大変苦労しました。
マリアンさん、もとい、実季さんが居なかったらもう大変でした。居ても十分に大変でした。あれ? 実季さんは前世では弟子だったはずですよね?
「そうですか……。おいおいご説明いたします」
ロゼッタさんが私をじっと見ている。いけません。今まで全く興味が無かったのに、急にがっつき過ぎました。フレアに変なものが混じってしまったことがばれたら困ります。
「はい、ロゼッタさん。おいおいでお願いします」
「では、フレドリック全集の125頁を開いてください。『春の訪れ』の三編目からです」
あの~詩集よりですね、その危険物の種類とか、それからの身の守り方とかの方がやっぱり大事だと思うんですけど。だが私の願いも空しく、ロゼッタさんがとてもきれいな声で定型詩を読んでいく。
その声があまりに美しすぎて、すぐに眠くなる。その時だった、勉強室の扉が小さくノックされた。
「お入りください」
詩の朗読を止めたロゼッタさんが、扉に向かって声を掛けた。
「お勉強中に申し訳ございません」
ロゼッタさんとそう年が変わらない侍従姿の女性が丁寧に頭を下げると、部屋の中へと入って来た。フレアとしての私はこの人が誰かを知っている。妹のアン付きの侍従の女性だ。
「カミラ奥様が本日のお昼は西棟にて、奥様、アンジェリカお嬢様とご一緒にとの、フレデリカ様へのご伝言です」
『え”!』
カミラお母さまと食事ですか!?
「そうですか。かしこまりました。お伺いさせていただくと、カミラ奥様へお伝えください」
「はい。本日は家族同士でゆっくりとお話をしたいとのご要望ですので、お時間になりましたら、私の方でお迎えに上がらせて頂きます」
『え”え”!』
ロゼッタさん抜きですか!?
侍従さんは丁寧に頭を下げると、私には理解できない動きで頭を下げた姿のまま、すすっと廊下の方へと下がって扉を丁寧に閉めた。目の前に立つロゼッタさんは少し首を傾げて扉の方を眺めていたが、小さくため息を一つつくと、私の方へと向き直った。
私フレアは正に暗々たる気分だった。フレアとしての記憶から、それが決して居心地のよい昼食にならないことは分かっている。いや、出来る事なら未来永劫起きて欲しくないことの一つだ。しかもロゼッタさんも居ない。つまり孤立無援と言うやつだ。
これに耐えるのであれば、コリンズ夫人の小言を半日聞いていた方がましだ。それはそれで相当にやられそうな気がするが、後に引くことは無い。もう十分に慣れている。だけどこれは別物だ。少なくとも向こう一週間、下手したら数年間は尾を引きそうな気がする。
「フレア、『春の訪れ』については明日に致します。カミラ奥様との昼食の準備をしなさい」
まだお昼には大分時間がある。
「ロゼッタさん、もう準備をするのですか?」
「その寝起きの髪と顔で、カミラ奥様の前に出るわけにはいきません」
その言葉に思わず頭に手をやる。す……すいません。あの雲の上で寝ているかのような寝台が良くないんです。前のフレアは何とも思っていなかったみたいですが、変なものが混じったフレアにとっては、それはもう夢の世界へ一直線で、熟睡できるなんてもんじゃないんです。朝も寝台が私を放してくれないんです。
でもま混じりっけなしのフレアも同じだったな。お前は一体どんだけ怠け者なんだ。前世の私は鶏がなく前から起きて仕入れに行っていたぞ!
「はい、ロゼッタさん」
ロゼッタさんが勉強部屋と繋がっている私の寝室の扉を開ける。私付きの侍従は居ないから、ロゼッタさんが手伝うつもりなんだろうけど――。
あの、ちょっと待ってください!
今朝はですね、悩み事が大分解決したせいかですね、特に起きられなくて寝間着が……。
「フレデリカさん!これはどういうことですか!?」
「すいません、ロゼッタさん」
* * *
「失礼いたします。カミラお母さま、本日はご昼食にお招き頂きまして、ありがとうございます」
私は侍従が開けてくれた扉を通って、西棟の家族用の食堂に入ると、スカートを持ち上げて簡易礼をした。普通の台詞なのに、なぜか声が震えて裏返りそうになる。
「フレデリカさん。お待ちしていました。どうぞ席にお着き下さい」
カミラお母さまから声が掛かるのを待って私は顔を上げた。大きな硝子窓からは初夏の明るい日差しが入ってきて、オーク材の床にあたっている。その照り返しで部屋の中はとても明るい。私の心の中とは正反対だ。
食卓には既にカミラお母さまとアンが座っている。カミラお母さまは向かって左の端の主人席に座っており、その右手にアンが座っている。私の席はアンの向かい側、長テーブルを回った向こう側にあった。
東棟の食堂と違って人数分、3人の女侍従が部屋に待機していて、そのうちの一人が私の席を引いてくれた。引いてくれた女性に軽く会釈する。挨拶は大事ですよね。でも何故ですか? 一瞬びっくりしたような表情をしているのは?
東棟ではもちろん私とロゼッタさんだけだ。椅子だってもちろん自分で引く。でもそのぐらいは自分でした方がよっぽど楽じゃないですか?
本来なら長女の私がアンの席に着くはずだし、お父様が不在とは言え、カミラお母さまも反対の端に座るのが正しい。コリンズ夫人が見たら文句は言わなくても卒倒しそうな配置だ。
きっと混じりっけ無しのフレアが見たら、カミラお母さまから疎ましく思われているとか、グタグタ考える所だろうけど、混じりっけありのフレアとしては、ともかくこの苦痛な時間がさっさと終わってくれれば、後の事などどうでもいい。
できれば食卓の上に載っている前菜だけじゃなくて、全ての料理を一度に運んできてもらえないかと心から願う。こんな面倒な事に付き合うのだから、赤葡萄酒の一杯ぐらいもらっても良くないですか? ああ、私はまだ13歳でしたね。
「失礼します」
私は席に着くと、カミラお母さまに向かってにっこりとほほ笑んだ。アンも私に向かって微笑んで見せる。うん、相変わらずお人形さんみたいで、かわいい妹だ。この子は本当にカミラお母さまと血がつながっているんですかね?
「お元気そうですね」
「はい、カミラお母さま。ありがとうございます。カミラお母さまも、アンジェリカもお変わりはありませんか?」
「はい。でもアンジェリカは、少し風邪を引いたみたいで調子が良くないようです。昨日はダンスのお稽古をお休みしました。本日はだいぶ良くなったようです」
いや、それは風邪じゃ無くて、カミラお母さまが詰め込み過ぎなんですよ。まだ12歳になったばかりの女の子です。朝から晩まで勉強に、お稽古なんて、私が受けたら3日も持ちません。いや、3日目には家出を真剣に考えます。
かわいそうに、アンの顔を見ると昨日休んだことを指摘されたのが恥ずかしいのか、少し顔を赤らめている。もしかしたら本当に風邪気味で、少し熱があるのかもしれない。こんな疲れるだけの食事なんかさぼって、寝てた方がいいのではないだろうか?
「それは大変でしたね、アンジェリカさん。大丈夫ですか?」
「はい、フレデリカお姉さま。私は大丈夫です」
うん、貴方は本当にかわいくて頑張り屋さんですね。寝間着をほったらかしにしている私とは根本的に何かが違います。
「では、いただきましょうか?」
「はい、お母さま、アンジェリカさん」
ここからは、ひたすらに苦痛な時間の開始だ。誰かがしゃべるでなく、黙々としかも音をたてないように細心の注意を払いながら食事を食べていく。
それだけじゃない、他の人の食べる速度まで勘定して食べる。コース料理って何なんでしょうね? 食べないと次が出てこない仕組みはやめませんか? 前世の研修所の食事と同じで一皿に全部盛りましょう。楽ちんです。
反対側のアンジェリカの皿を見て驚いた。すごく少ない。これで本当に大丈夫なの? 育ち盛りですよ。
「アンジェリカさん、量が少しばかり少なくはないですか?」
カミラお母さまがこちらをじろりとにらむ。しまった、思わず心の声が口から洩れてしまった。
「アンジェリカは、午後から乗馬の稽古がありますから、あまり食べない方がいいのです」
「そうですか。それは大変ですね」
何やら右手から殺気のようなものを感じる。しまった、また心の声が漏れてしまった。だってお母さまは先ほどアンは風邪気味とか言っていませんでしたか?
「大変なんて事はありません。これはカスティオールの者としての義務です。それにアンはもうすぐお披露目が控えています」
そう告げると、侍従に向かって食後のお茶を持って来るように手を振った。まあ、カミラお母さまは生粋の貴族の家の出ですからね。
私のお母さまのアンナお母さまは、貴族とは名ばかりの実質的には商家の娘のようなところの出だ。この家の借金を棒引きしてもらう代わりに、第一夫人として迎えられたような人とは大違いなのかもしれません。
私がアンだったら……。耐えられません。家の中でもどこでもいいから男を見つけて逃げます。
そんな事を考えているうちに、薔薇の香りがする紅茶が運ばれてきた。カップにも薔薇が描かれている。このお茶の趣味と薔薇だけは、カミラお母さまを素直に尊敬できる。薔薇の育て方は本当にとても上手だ。私なんかよりはるかにきれいで大輪の花を咲かせる。
「フレデリカさん」
「はい、カミラお母さま。なんでしょうか?」
「もうすぐアンジェリカがお披露目に出る事は知っていますよね」
「はい」
「貴方に、アンジェリカのお披露目の付添人をお願いしたいのです」
そう言うと、カミラお母さまは私に向かって、私には全く記憶にない表情、満面の笑みを浮かべてにっこりとほほ笑んで見せた。