灰の街
「何で俺が、お使い何んてしなくちゃいけないんだ?」
トマスはせっかくの休みに、しかも、こんなところにまで来ているのかについて、何度も疑問の声を上げていた。
しかも、あの能天気なお嬢さんから行けと言われたのは、メナド川と平行に流れる運河に囲まれた、あの灰の街だ。そこは普通の家の親が子供に対して、間違っても決して近づくなと言うような場所だった。
トマスだって、親が馬車の事故で死んでしまう前に、そう言われた記憶がある。そもそも親が生きていれば、カスティオールなんて落ちぶれた家で、料理人見習なんかにならなくても良かったのだ。
貴族の家で料理人見習になれたとしても、それがカスティオールじゃ、次にどこかで務める時には何の役にも立たない。もっともそんなところだから、自分のようなものでも、料理人見習になれたとも言える。
だからちょっと腕に自信があるとか、あるいはまともな修行をしようと言う人は、とっくの昔に辞めてしまって、その後釜は誰も来ない。
トマスみたいな何の伝手もなく、行く宛てがないものとか、そんな向上心など遠の昔に無くしてしまった、ガラムさんぐらいしか残っていない。
それでもまだ西棟はましだ。東棟は実際にはあのフレデリカお嬢様だけがいて、ほとんどの部屋は掃除することもなく、ただ埃だけが積もっている状態だった。
これがかっての四大侯爵家の王都での屋敷かと思うと、まだ年端も行かないトマスでも、少しばかり哀れにすら思ってくる。だが禄に親戚もいないトマスにとっては、身元の保証元になってくれているだけでも、ありがたくはあった。
そんな事を考えているうちに、馬車の外に緑の草で覆われたメナド川の堤防が見えてくる。
「めんどくさいな」
トマスはそう小さく独り言を漏らすと、天井からぶら下がっている紐を引いて辻馬車を降りた。目の前にはメナド川の堤防への登り口の、木の残骸のような階段がある。その先に見えるのは、高く見える初夏の青い空と、小さく浮かぶ羊雲だ。
トマスは何度目か分からない溜息をつくと、その朽ちかけた木の階段を昇り始めた。いきなり自分達のような庶民の生活に興味を持つなんて、あの能天気なお嬢様は一体どうしてしまったんだろう。
それも給金はいくらだとか、それでどのぐらいのものが買えるのかとか、事細かにだ。
『言っちゃ悪いですけどね、カスティオールの払いは良くないですよ。だから僕みたいなのでも、料理人見習になれるんですよ』
そう答えてやりたかったが、流石にそれは言えない。
トマスにしても、ロゼッタさんが居なかったら、とっくの昔に辞めていたかもしれない。すごい美人なのに、取り付く島もないあの冷たい態度。本当に心の底からゾクゾクする。
それにスタイルも抜群だ。家庭教師の制服の、裾が短くて腰と足にぴったりとくっついた服が、とってもよく似合ってる。あんな女性と付き合えるなら、もう死んでもいい。
そして噂が本当なら元魔法職らしいが、どうしてあの能天気なお嬢さんの家庭教師なんてしているんだろうか? 本当なら、色んな家から引く手数多だと思う。
そんなことを考えている間に、トマスは堤防の上へとたどり着いて、お昼前の陽ざしを受けて輝く、メナド川の川面を眺めた。もっともこの川は、田舎にある川のように、鮎や鮭が登ってくるような清流とは程遠い、薄汚れた川だ。実際、並行して流れる運河からはどぶ臭い匂いが漂ってくる。
「勘弁して欲しいな」
トマスはメナド川の反対側、かつてはここがどこか大手の商会の倉庫だった頃に作られたらしい、さして幅も長さもない運河と、その脇にへばりつくように建っている薄汚い小屋の群れを眺めた。
自分が親と一緒に住んでいた田舎の家も、お屋敷と比べれば馬小屋以下みたいなもんだが、ここの小屋よりははるかにましだ。いや、ここにだけは住みたくないし、近寄りたくもない。きっと夏はやぶ蚊なんかに、刺されっぱなしになるんじゃないだろうか?
堤防の上にも人の気配はない。もうすぐ昼になるこのくそ暑い中、この日影が一つもない堤防の上を歩きたがる人なんて居ない。ハンカチの一つでも持ってくれば良かったと心から思う。
右下に見える灰の街にも、一見すると人の気配は無さそうに見えた。だがなんか誰かがこちらを伺っているような、粘りつくような見えない視線も感じる。きっと気のせいだろう。この街の色々な尾鰭がついた噂が、自分にそう思わせているだけだ。
トマスは自分をそう納得させると、堤防の上から灰の街へと降りる、やっぱり朽ちかけた木の階段を降り始めた。
「何で俺がお使い何てしなくちゃいけないんだ!」
踏み外さないように気をつけて足を運びながら、トマスは何度目になるか分からない、同じ台詞の独り言を呟いた。
* * *
「坊主、なんか用事か?」
通りに誰もいなくて、どうしたものかと途方に暮れていたトマスは、背後から呼びかけられた声に、心臓が止まる思いがした。
振り返ると、禿げ頭の腕が自分の腿ぐらいあるのではないかと言う男が、自分に声を掛けてきた。その顔は決して友好的には見えない。
いやその男だけじゃ無かった、左右の路地の角にも人の気配があり、そこから通りへと短い人の影が伸びている。慌てて辺りをふり返ると、自分が向かおうとしていた先にも、麻の肌着姿の、細身だが屈強そうな男が立っていた。
『何でこんな目に合わないといけないんだ?』
自分は囲まれてしまっているらしい。背中を頭上から降り注ぐ太陽の熱さによるものとは違う汗が流れ、恐怖に体が震えてくる。
堤防まで走って逃げたいところだけど、そうもいかないらしい。いやここで逃げたりしたら、どんな目に会うか分かった物ではない。トマスは、必死に声を絞り出した。
「で……でん……伝言を頼まれて人を探しています。マリアンという人です。『ふうか』からの用事だと言えば分かると言っていました」
トマスはどもりながらも、男達に向かって一気に告げた。別にここで何かをやらかそうという訳ではない。単にここの住人の娘さんに伝言を頼まれただけだ。
きっと自分に興味を無くすか、そんな奴は居ないと言われて、土手の上へ追いやられるかと思ったが、男達の反応は全くの予想外だった。男達はお互いに顔を見合わせると、何やら頷きあっている。
幾人かの男が自分の周りで、まるで円陣を組むかのように周囲を警戒するそぶりを見せた。さらに数人が、背後の土手へも移動していくのも見える。男達の手にはナイフが、いやそれだけじゃない、自分は見たこともない、弩のようなものさえ手にしているものもいる。
トマスは全身から血の気の引く思いがした。これもあんな能天気娘のお願いを聞いてしまったからだ。頭が禿げあがった男が、トマスの体を改めている。ポケットだけでなく、背中や袖、足、さらには靴の中まで改められた。
もう駄目だ。腹が痛いふりをして教会に行くのをさぼったお陰で、自分は親と一緒に死なずに済んだが、どうやらそこで拾った命も、ここまでだったらしい。
まだ女の子に口づけの一つも出来ていないのに死んでしまうんだ。こんなところで死んでしまうと分かっていたら、勇気を出して、ロゼッタさんの湯あみ姿を覗けばよかった。最後の最後で足がすくんで覗けなかった。トマスはそんな自分を心から哀れんだ。
「ついてこい。だが、ちょっとでもおかしな動きをしたら、命はないと思え」
禿げ頭が自分に声を掛けた。さらに両側にトマスの背丈の二倍はあるんじゃないかと言う、絶対に堅気じゃない男達に囲まれる。
『ああ、自分はたった14歳で死んでしまうんだ。親だって僕の三倍は生きていたというのに……』
トマスは両脇に居る男達に、小突かれるように歩き始めた。緊張からか、右手と右足が一緒に出てしまう。これはおかしな動きにはならないんだろうか? これで殺されたりしないんだろうか?
意識すればするほど、手と足の動きがちぐはぐになる。だめだ。右手と左足だ。左手と左足じゃない。
そんなことを必死に努力しているうちに、トマスの体は、ある小屋らしき入り口で、その中へと突き飛ばされていた。