驚きの寝起き
何かが頬を濡らす。
温かい感触。
耳にふわふわとした、まるで猫の尻尾のような感触。
「ん?」
目を開くと、至近距離に本当に猫の目があった。「うわっ」
俺が驚いて声を上げたのと同時に猫も飛びずさり、音もなくどこかへ行ってしまう。
あの黒猫。
どこかで……。
って、ここは。
俺は体を起こし、周囲を見渡して確信する。
プラネタリウムの暗がりではない。
陽光が差し込む、どこか見知らぬ部屋だ。
「やった!」
間違いない。
ここは異世界だ。
異世界のどこかは分からないが。
「んんー。アル。もう朝なの?」
聞き覚えのあるこの声は……。
「デネブ!」
俺はこっちの世界に飛んできたことを確信して思わずデネブに覆いかぶさるように抱きつく。
「フフッ。どうしたの?今朝はいつになく積極的」
デネブは嬉しそうに俺の頭を抱きしめる。
柔らかく温かい肌の感触が俺の顔を優しく包む。
こ、これは……。
ガバッと身を起こすと、眼下には一糸まとわぬデネブの見事な裸体がそこにあった。
「デ、デネブ!何でここに?」
「何でって、今さらそんなこと訊く?」
デネブは艶やかに笑う。
俺が顔を埋めていた大きな乳房を見せつけるように丸く撫でながら。
毛布で覆うこともしない。「ほらほら。どう?せっかくの本物の人間の体よ」
「に、人間には恥じらいってものがあるんだよ」
俺は慌ててベッドから降り、「取りあえず、服を着ろ」とデネブに背を向ける。
そして、自分の体を見下ろして、「うわっ」と声を上げた。
あろうことか、俺も素っ裸だ。
パンツ一枚身に着けていない。
寝起きから驚きの連続で、心臓のバクバクが止まらない。
寝る前に何をしたのか、あまりに怖くて訊ねられない。
「それにしても、あのエロジジイ」
背後でデネブが怒りの声を上げる。
「ん?誰のこと?」
俺はベッド脇の棚の上にある服を着ながら問いかけた。
「昨夜、言ったじゃん。陛下から逃げてきたって」
「へいか?陛下!国王陛下のこと?」
「前の方のね」
俺は前国王の顔を頭に思い浮かべた。
あの人がエロジジイ?
俺とアンタレスに人の乳を揉んだことがあるか、と訊ねてきたことはあったが。
しかし、前国王としてそれなりに威厳もあったように思う。
「逃げるって何で?」
「夜這いよ、夜這い。あたしが寝てるところに忍び込んできて、ガシッて抱きついてきたの。逃げてなかったら、今頃やられてたよ」
夜這い?
前国王が?
こないだのグシオンとの戦いの時には、自分で病に冒されていると言っていたし、実際に咳込んで口から血を吐いていた。
あの体でデネブに夜這いを仕掛ける体力があるのか。
「やられてたって、表現が直截的過ぎる」
「じゃあ、他にどんな言い方があるのよ」
デネブは拗ねた言い方をして俺の腰に後ろからしがみついてきた。
怖々と振り向くと既にローブを纏っている。「陛下は前のデネブを妾にしてたんだって。きっと立場を利用して無理やり関係を持ったのよ。陛下に言われたら断れないもんね。ああ、可愛そうな前のデネブ」
「でも、君は断って逃げてきたんだろ」
「だって、そんなことしたら悲しむでしょ?」
デネブが俺の腰に手を回したまま、眉を八の字にした困り顔で俺を見上げる。
「誰が?」
「アルが」
「んー。どうかなぁ」
俺はデネブの腕を優しく振りほどく。
俺には琴美がいるんだから。「あっ、そう言えば」
「ん?どうしたの?」
「ヴェガ王女は?毒はどうなった?」
「一進一退みたいよ」
さすがのデネブも顔を暗くする。「やっぱり陛下の光の魔法でも、あの毒は消せないみたい。死に至るのを食い止めるだけで精いっぱいだって」
シリウスが光魔法でも治癒できないって言ってたもんな。
あれ?
「娘が死にそうなのにデネブに夜這い仕掛けてきたの?」
「あたしにもよく分かんないけど、まあ、それとこれとは別物なんでしょ。毒は治癒はできないけれど、朝昼晩と定期的に魔法で浄化すれば当面は大丈夫なんだって。陛下もストレス溜まるだろうから、あたしもアルがいなかったら、ご奉仕して差し上げてたと思うわ」
デネブは男性の性欲に寛大だ。
あるいはそれがこちらの世界の一般的な考え方なのか。
「琴美、あ、いや、ヴェガ王女に会えるかな」
「アルなら許可してもらえるんじゃないかな。ずっと眠ってらっしゃるから、お話はできないみたいだけど」
「そうか。顔だけでも拝見したいな。じゃあ、早速」
良かった。
デネブの話から推測するに俺が現実世界に戻った時からこちらの世界はあまり時間が過ぎていないようだ。
俺はいそいそと壁に立てかけてあるアスカロンを腰に差して部屋を出ようとした。
ヴェガ王女=琴美の様子を直に見ておきたい。
きっとこっちの世界でも現実世界でもあいつは同じように苦しんでいる。
眠っていたとしても、俺の声は聞こえるかもしれない。
俺の声が届いて、少しでも励ましになれば、力が湧いて苦しみも軽減されるのではないか。
って、そんなに甘くはないだろうが、やれることは何でもやりたい。
それがヴェガ王女のためになるのであれば、現実世界での琴美のためにもなるような気がするのだ。
「ちょっと、待って。アル、忘れ物」
「ん?」
「あれはいいの?」
デネブはベッドの上でアスカロンの横に並んでいたもう一本の剣を指差した。
アスカロンよりも太く、装飾が少なく武骨な感じの剣。
「あれ、俺のじゃないよ」
アスカロンを手にとったときから隣にもう一振りあることは気付いていた。
しかし、そんな見知らぬ剣に触れたらアスカロンの精が不機嫌になるのは目に見えているから、わざと無視していたのだ。
「陛下から受け取ってたじゃん。貴重な剣だし、もらっておきなよ」
「俺が?」
「そうよ。だって、もったいないよ。アロンダイトなんて、魔族界にもその名が通ってる名剣だよ。持ってて損はないって」
そうか。
あれはシリウスが国王から下賜されたアロンダイトだったか。
だとしても、せっかくアスカロンがしっくりくるようになってきたところで、他の剣を使う気にはなれない。
デネブは「よっ。二刀流」とか言って茶化すけど、二刀流なんてそんな簡単なもんじゃない。
稽古の合間にふざけて竹刀を二本持ってみることはあったけど、上手に使えたためしがない。
闇雲に振り回すことはできても、そんなんじゃこちらも隙だらけになるし、これから戦うレベルの高い魔族に通用するとは思えない。
俺がやっぱりそのまま部屋を出ようとすると、デネブが「駄目だって」と言いながら、アロンダイトを持って追いかけてくる。
「どこ行くのよ?」
「ヴェガ王女のところだって」
「だったら、これ。はい」
デネブがアロンダイトを突き出す。
「だから、要らないって」
「そうはいかないでしょ。ヴェガ王女のところには前国王陛下がいらっしゃるのよ。直々に受け取っておいて、佩刀せずに行ったら忠誠心疑われるよ。そういうところ、きっちりしないと」
さっきはエロジジイって言っていたのに、今さら忠誠心とか言われても説得力がないんですけど。
でも、そういうものかと思い、アロンダイトも腰に差した。
アスカロンとはいい感じになっていたはずだ。
今ならアロンダイトのことも説明すれば分かってくれるのではないか。
 




