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龍とたてがみとギャラクシア  作者: 雨野グッピー


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第7話 暗き宿場とマイテ

 目の前を過ぎる赤い流れを、忘れられる日は来ない。

 鼻の奥を刺すようなあの嫌な臭いの記憶は、いつだってピエドラをあのときに連れ戻す。


 火の粉が舞う。魔術で使うより、もっとどす黒い炎から生まれた火の粉が。


 月明かりも乏しい夜を染め上げる赤。熱を間近に吸い込む感覚。

 バチバチと爆ぜた木が目の前に落ちてきて、もうすべてのものが元には戻らないことを思い知らせた。


 木造の館は、音を立てて燃えていく。


 今日の昼までは確かにここにあって、中に人がいて、あの子がここにいて……。


 そうだ、あの子。

 角の宿屋のマイテ。

 たった九歳の、ピエドラの友達。


 燃えたのは、ピエドラも何度も遊びに行った、彼女の両親の経営する宿屋だった。


 何代も何代もここを経営してきた者達を支え、旅人に一夜の安らぎを与えてきた柱が、瞬く間に燃え落ちて炭に変わっていく。

 屋根が崩れ、二階が落ちて、この宿の歴史が壊れ、なくなっていく。


 ……まだあったのに。

 マイテが魔女だと叫びながら自警団が踏み込んでくるまで、宿は確かにそこにあったのに。


 これが、ピエドラが人生で初めて目撃する魔女狩り。そしてその標的は、ピエドラの人生で初めての友達だった。


 マイテの両親は、自警団に連れ出されようとする娘をかばって彼らに斬られた。そして宿屋ごと火をつけられたのだ。


 話を聞いてピエドラがやって来たときには、宿はすでに全体が燃え上がり、夜空に業火を放っているところだった。


 幼いピエドラはただ呆然と、それを見ていた。宿が燃え落ちていく、止まらない時の中にいた。


 ……そして獄炎の記憶は、ここでは終わらないのだ。


 燃え盛る木造の館を眺めながら、ある一人の男が口を開いた。


「おい、娘はどうした? 娘も親と一緒にやっちまったんだろ?」


 辺りが騒がしくなったのは、その男の一言からだった。


「いや、宿の中から娘が逃げるのを見たやつがいるらしいぞ! 娘は死んでなかったんだ!」

「魔女め、どこへ逃げた!」


 誰がそんなふうに告げ口し、誰が幼い娘を果てまで追おうと言ったのか。


 何故普段は黙して麦を刈る彼らは、労働に弱った足を動かして、たった一人の娘を狩ることに熱狂するのか。


 炎を背に繰り広げられるすべては、魔方陣から召喚された悪魔が演じているわけではない。すべて生きた人間によってなされているのだ。

 ピエドラと長い間、同じ場所で生きてきた人間の手で。


 その内の一人。マイテの居場所について周りの住民に聞き込んだらしい、ある男が叫んだ。


「娘は森に入ってったらしい! 子どもの足ならまだ遠くへは行ってないはずだ!」


 監視し合い、告げ口し合い、熱にうかされるような笑みを互いに張り付けて。

 大人達は森へ。武器と松明を持って突き進んでいく。止める者はいない。


 これがピエドラの住む世界。


 悪魔のような姿をした人間達が、『魔女』と名付けられた一人を追う世界。

 少し踏み外しただけで、幼い身でもすぐに憎しみの矛先に立たされ駆逐されていく。


 この時代を生きる者の宿命だと、誰かが言うならそれまでだ。


 でもまだ、あの子は生きている。

 狼達が掲げた松明の先で生きている。


 どうすればいい? 何ができる?

 この時代を生きる宿命は、どうすればひっくり返る?


 震える手を見ながら考える。


 すべての結末は、大人になったこの胸に、しっかり刻まれているけど。


 ……世に何人の悪魔がいようと、魔術があれば、正しく使えれば、何かが出来ると思っていた。助けられると思っていた。


 大人達の後から森へと走り出す足を、止めろとは今でも思わない。


 それでもピエドラが決して乗り越えられないものは、大きく口を開けてこの先に待っていた。杖も魔術も届かないところで、宿命の強かさを刻み付けるように待っていた。


 なおも鎮火せぬ業火が太陽に変わっていく。


 宿が燃えても、友達がいなくなっても……何が起きても夜は過ぎて。

 朝陽はそのまばゆさに、一層強く過去の影を伸ばしていくのだった。




「ピエドラ?」

「……!」


 自分の下方から聞こえた名を呼ぶ声に、ピエドラははっと我に返った。


 いつの間にか、前を歩いていたはずのソルが立ち止まり目の前にいる。心配そうに顔を上げてこっちを見ていた。


 朝陽に目を細め、通りの真ん中で止まってしまったピエドラを心配したのだ。


 改めて、自分が深い悔恨の記憶の世界にいたことを知る。

 なんだかずいぶん昔の、それも強烈な悪夢を思い出してしまった。


 しかし原因はこの街にある。……こんな場所に来たから、思い出したくもないことを思い出したのだ。


 雨上がりの街に、三日ぶりの太陽は眩しく光の糸を下ろしていく。


 ソルとピエドラは川沿いを離れ、その近くにある娼館街へと入り込んでいた。


 この街は、市街から切り離された河口近くに影を落としながらたたずむ、まさに現世と隔離された場所だ。


 通りの双方を二階か三階建ての宿が並び、その軒先には娼館であることを表す鮮やかな布飾りがはためいている。


 早朝とあって客の姿もなく通りは閑散としているが、それにしたって用のない者が気軽に来るような場所ではない。

 ただでさえ今は黒マント達に追われている状況だし。


 しかし危険は折り込み済みで、天才魔術少女はどうしてもこの辺りで果たしたいことがあるらしい。


 幸いまだ魔導書泥棒の指命手配は及んでいないらしく、ソルとピエドラに絡んでくる者はないが、こんな街に一体どんな心残りがあるというのか。


 自分を見上げる少女に大丈夫よと返し、ピエドラは再び歩き出す。


 どんなわずらわしい用だろうと、ピエドラはソルの後ろに付いていくしかない。王都への道も、この街の道も分からないんだから。

 それなら用なんてさっさと済ませて、さっさとこんな所からはおさらばしてもらうべきだ。

 

 しかし肩を怒らせるピエドラに、重ねてソルは不思議そうに声を掛けた。


「……どうしてそんな隅を歩くの?」


 その言葉の通り。ピエドラは杖を己の前に出して腰を丸め、並ぶ宿と道の狭間のような所を一歩ずつキョロキョロしながら歩いていた。

 しかしこの歩き方には、街を歩く魔女なりのちゃんとした理由があるのだ。


「通行人はすぐにあたしを魔女だの悪魔だの言って通報するの。目立つといいことはないのよ」

「でも、その方がよっぽど目立つと思うけど」

「……」


 その言葉はまあ、ごもっともだ。

 

 ……この娼館街に入ったときから、ただでさえピエドラは浮きに浮きまくっている。


 朝のこの場所には、床から起き出した娼婦の姿がちらほら。寝起きなのかこれから寝るのか衣服の肩をはだけ、髪も乱れたまま娼婦同士で話し込んでいる。

 そしてその視線は残らずピエドラへと突き刺さってくるのだ。


 魔導書の番人の半透明の老人は、今は姿を消しているから――どうやら任意で消えたり現れたりできるらしい――どう考えても今目立っているのはピエドラだ。


 街の機能上、もともとここは若い女の多い場所だ。

 しかし浮浪の魔女が夜の花達に簡単に紛れられるかと言ったら、決してそうではない。この街の誰ともピエドラは違ってるんだから。


 水溜まりに映る姿を見てみろ。

 この場所で一番汚い格好をしてるじゃないか。


 くすんだひだ折りスカート。煤だらけのシャツ。なけなしの肩掛けストール。全部が黒ずみ、ほつれ、大小様々な穴が開いている。


 それを着た女が腰を丸めて杖をついて……多分花街に迷い込んだ物乞いか何かだと思われているのだろう。


 それを証明するように、娼婦達もこちらを遠巻きにひそひそと何か囁き合っている。 


 冷静すぎるソルの言葉に、ピエドラはコホンと咳を一つ、そしてようやくまっすぐ立ち上がった。


 ……まあ、魔女だと思われていないなら必要以上に警戒しなくてもいいか。


 夜の花にも一気に話題の種にされるとは、人気者はつらいものだ。伊達に長いこと自警団に追われまくっているわけではない。


「用がある場所はもうすぐだよ」


 しかしそんなピエドラを引き連れていても動じないのがソルという少女だ。


 夜の花達の真ん中を歩む姿は実に堂々としている。毅然としすぎて、こんな場所を子どもが歩いているという不審ささえ感じさせない。

 どうやら歳は八つらしいが、どう考えてもその歳の人間の貫禄ではなかった。


 魔術に長けていて身を守れるから、という理由ではなく、向こうから何が来ても機転を利かせられるというか……。とにかくその背が心強い。


 しかしその背後に立ちながら同時に疑問も溢れてくる。


 一体彼女は何者で、何故こんな場所に用があるのか……。

 どんなにソルが堂々としているとしても、ここは子どもが一人で来るような所ではない。


 娼婦の一人が母親とか? 最近は異大陸から奴隷としてこの国に連れられ、あまりの過酷な労働に『主人』から逃げ出した女の奴隷が娼婦になることも多いという。その子どもなのだろうか。


 考えるピエドラをよそに、ソルは通りをずんずん進むと、ある一件の娼館の前で足を止めた。

 繁盛しているのか、他の娼館よりいくらか大きく、街の高級宿とさほど変わらない外観をしている宿だった。


 だこらこそピエドラは少女がその戸口に立ったとき驚いたのだ。


「みんな起きてるかな」

「ちょ、ちょっと、大丈夫なの?」


 みんな起きてるかなって、ピエドラ的には誰も起きてない方が都合がいいのだが。

 こんな宿の戸口にこんな訳の分からない二人組がいたらつまみ出されるんじゃ……。


 慌てる魔女を背に、ソルは開いていた玄関の戸をそのまま押し開いていく。


「暇乞いに来たの。ここに世話になってて、挨拶したい人もいるから」

「暇乞い?」


 ピエドラが少女に聞けたのはそこまでだった。


「ソル! ソルじゃないの!」


 扉を開けるソルに気付いたのか、館の中から女性の声が響く。ピエドラはとっさに扉から離れて身を隠していた。


 中から声を掛けてきた女性は、なおも驚きと喜びを混じらせた様子でソルに近付いてくる。


「今までどこに行ってたの? みんな心配してたのよ? 娼館長なんて、人を遣って探させようかって言ってたくらい」

「心配させてごめんなさい」


 驚いた。初めてソルの子どもらしいセリフを聞いた。

 それに近付いてきた女性は、怪我はないかとか、お腹は空いてないかとか、本気でソルを心配しているようだ。


 そしてピエドラは彼女らの会話を聞きながら、あることに気付いていた。

 ……あの女性、聞き覚えのある声だ。


「ありがとう、マイテ姐さん」


 ソルが呟いたその名に、ピエドラは玄関を離れようと一気に走り出していた。

 そして近くに置いてあった樽に思いっきり激突する。

 朝の静かな通りに、その音はかなりの音量で響いた。


「どうしたの、ピエドラ?」

「……『ピエドラ』?」


 娼館の中からソルが飛び出してくる。例の女性も、いぶかしげな顔をしながら外に出てきた。


 そして、


「ピエドラ! ほんとにピエドラなの!?」


 ぶつけた足を抱えてのたうち回る魔女はとうとうその女性に……かつての幼なじみ、マイテに見つかってしまったのだった。




「そ、そうかい、そうかい。今までよく働いてくれたね」


 恰幅のいい初老の娼館長は、そう言って丸い鼻の目立つ顔面に笑顔を張り付けた。


 高級娼館の玄関で、ソルは今まさにこの宿の経営者である彼と話していた。


 それを遠巻きに眺めながら、ピエドラは改めてあの天才魔術師少女の能力に驚く。


 どうやらソルはこの娼館で、魔術の使える用心棒として衣食住を与えられていたらしい。

 あの歳にして、有能どころの騒ぎではない。魔術も世渡りも完璧だ。


 ギャラクシアを王都へと運ぶ旅の前に、ソルはこの宿での仕事に区切りをつけるためにこの場所に立ち寄ったのだ。


 戸口で迎えてくれたマイテに連れられ、暇乞いをしたいと言う少女の前に、すぐにこの宿の娼館長は現れた。


 暇乞いに立ち寄った小さな用心棒に、「これからは優秀な用心棒がいなくて困るな」とか、「遠くへ旅立つなら、何か持たせないとね」とか優しげな口調で語っている。


 しかし何だ、あの娼館長……。

 どこが変とは言えないが、何だか……。


「ピエドラ」


 一人いぶかしげにしながら立っていたピエドラに、かたわらから声がかかる。

 魔女は思わず半身を引いてしまっていた。


 だってそこには……。


「何よ、そんなにびっくりして」


 丸く結われた柔らかい茶髪。ピエドラより頭一つ分高い背。すっきりとした胴をボディスで包み、小綺麗なスカートをはいて。

 他の娼婦と違って肌の露出は少ないが、漂う知的な雰囲気と艶が彼女をこの街で一際優美な女性に仕上げていた。


 ……そう、その人だったから。これこそが変わり果てたかつての友人、マイテの姿だったからこそ逃げたくなったのだ。


 旧友の指摘をかわすように、魔女はソルと娼館長に目を戻す。


「八歳の女の子を用心棒にするって、ここは一体どうなってんのよ」

「仕方ないでしょ。仕事がなければ、他の『仕事』を与えられちゃうんだから」

「……」 

「それにしてもずいぶん久しぶりね。まさかあなたとソルが一緒にいるなんて」

「あたしもびっくりよ……」


 まさかソルがマイテと知り合いだったとは。知り合いどころか、もともとみなしごに近い存在だったソルをこの宿に拾ったのはマイテだったようだ。

 それ以来この宿でソルの面倒を見ているのも彼女であるらしい。まさに母親代わりだ。


 マイテがこの娼館街で働いていることは知っていた。だがこんな形で、あの少女を通じて引き会わされるとは。


 相変わらず眉間のシワが取れないピエドラと違い、マイテはいかにも気さくな感じでピエドラに話しかけてくる。


「一体何があったの? あの子が持ってる大きな本は何? あれがここにいられなくなったことと何か関係があるの? あなたもソルの旅に同行するって聞いたけど……」

「ソルはなんて言ってたの」

「別れを告げにきただけで、どこへ行くかも教えてくれなかったわ。マイテ姐さんには教えられない。巻き込んじゃうからって」

「……」


 どうやらソルは、ここにいられなくなって旅に出ることは宿の者に告げたようだが、それ以上のことは一切話していないらしい。


 そりゃそうだ。話した瞬間、この宿の全員が聖典強奪事件の関係者となってしまう。イクリプス公の抹殺者リストに載ってしまうのだ。


 なおも娼館長と話し込む少女は、やはり大人顔負けの貫禄で。


 みなしごだったという彼女が何者かは結局分からずじまいだが、とにかく本当にさまざまな方面への配慮が足りている。

 それくらいこの宿の者達を大事にしているということか。


「しかしあなたは昔のままね、ピエドラ。あの頃から、そのまま大きくなったみたい」

「あんたは変わったわ……」


 あらそう、とマイテは笑う。

 その笑顔から、またもピエドラは顔を背けていた。


 ……世に何人の悪魔がいても、救えると思っていた。


 しかし魔女狩りを行う悪魔から救ったところで、集団から切り離され一人で生きていく少女の衣食を支えることはできない。

 あの日ピエドラが思い知らされたことだ。


 ……あの晩、魔女狩りの対象として自警団に追われていたマイテは、すんでの所で命を拾った。


 しかしそれを知らない自警団に死んだことにされた彼女は、もちろん街に帰ることもできず、一人浮浪の身で生きていくことを余儀なくされたのだ。

 流れ流れて、マイテがこんな場所に身を寄せるしかなかったことをピエドラが知ったのはずいぶん後のことだった。


「まさか自警団が、私を石打にしたなんて嘘を言いふらしてくれるとは思わなかった。まあ、そのお陰で完璧に死んだことになって、今ここにいられるんだけどね」

「……恨んでるでしょ」

「どうして?」

「魔女狩りから助かっても、こんな所に落ちるしかなかった」

「生きるためよ。確かに身一つで放り出された女に、生きていく道は限られてる。でも従順でさえあれば、娼館長は私達によくしてくれる。衣食には困ってないし、幸せよ」

「幸せ?」


 首をかしげるピエドラに、マイテはしなやかな腕を掲げてみせる。

 その左手の薬指には、細い金の指輪がはまっていた。


 婚約指輪だ。それをマイテに贈った相手は、


「商隊の隊長さんなの。来月には、私もその旅に付いていく」

「娼婦から足を洗えるってわけか。おめでとう」

「……ねえ、ピエドラ」


 ふいに放たれた硬い声音に、ピエドラはやっとマイテの顔を見る。その目は真剣に、ピエドラの芯さえ見据えるようだった。


「何があったか知らないけど、あなた本当にソルに付いて行って大丈夫なの?」


 びっくりするような問いだ。

 だがピエドラの今の一番の悩みを射貫いた問いだといえる。


 もう少しで、魔女は何も言えなくなってしまうところだった。


「……あたしじゃなくてソルを引き止めたりはしないわけ?」

「ソルは不思議な子よ。魔力も強いし、知識もあるし、いつかここを出ていくことは分かってた」

「……」

「心配なのはあなたよ、ピエドラ」


 マイテの視線はピエドラの左手に。そこに握られた一本の杖に向けられていた。


「魔術を続けて、宮廷魔術師にでもなるつもり?」


 今度こそ言葉を発っせなくなる魔女に、マイテは畳み掛ける。


「魔術を捨てさえすれば、いくらでも幸せになる道がある。あなた多少は見られる顔をしてるのに……。今でも屋根なしの生活を続けてるんでしょ?」


 もうその先は聞いていられなかった。

 旧友の言葉にはただ、背を向けて答えるしかない。

 まさかこんな所でこんなことを聞くはめになるとは思わなかった。


 何もできない、この姿が惨めに見えることはよく分かっている。分かっているけどピエドラはこの姿なのだ。


「……屋根なしには慣れてる。知ってると思うけど、火起こしは得意なの。それで生きていけるわ」


 そう言って娼館の裏へと出ていく魔女の姿を、マイテはもう何も言うことなく見送っていた。


「――じゃあ、出発は明日にしてここで旅の準備を整えるといい。気をつけて行っておいで、ソル」


 話が終わったらしい娼館長とソルが解散する。

 どうやら娼館長がソルに旅の前に物資やら道程やらを確認してしっかり準備することを薦め、ソルもそれに納得したようだ。


 大きな本を抱える小さな用心棒に、マイテは膝を折って微笑みかける。


「旅立ちは明日か。ソル、お腹空いてるでしょ? 今からご飯作ってあげるから、少し待ってなさい」

「ありがとう、マイテ姐さん」


 ピエドラは戻ってこない。

 マイテは一度だけ友が去っていった方を見ると、才気溢れる少女とともに炊事場へと連れ立っていった。



 そんな二人を眺めるこの宿の丸鼻の主は、


「……」


 先ほどまで小さな用心棒に向けていたすべての表情を消して。


 ……そして最後に彼がソルに向けた目を、その哀惜の混じった視線の意味を、問う者は今はここにはいなかった。

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