第6話 逃走と始まり
「待て! 止まれ!」
暗い森に怒号が響き、後ろから先程の報復とばかりに雷撃が迫る。
前を行く少女の張った魔術の防壁に守られながら、ピエドラは必死でもつれかける足を動かしていた。
謎の少女が現れ、謎の黒マントが現れ、次いで謎の半透明の老人が現れ。
しかしピエドラには結局逃げることしかできない。
半透明の老人の登場に驚いたのも束の間。教会に次から次へと押し寄せる黒マント達を避けて、少女とピエドラは森へと入っていた。
前を行く少女の背を便りに、雨の森をひた走る。そう、今はあの小さい背だけが命綱だ。
少女が教会でかなりの数の黒マントを捌いたが、いまだ教会にいた半分くらいの数の黒マントが後を追ってくる。
明らかに寄せ集めの自警団なんかとは違う。彼らの動きは訓練された兵士のものだ。
まるでこちらがどこに逃げるか予測しているかのように、森の中をほぼ並走してくる。
いや、最初から森にも兵を伏せていたのかも知れない。
一体何が目的で……。
しかし考えている暇はない。
三日雨にさらされた人間と、小さな少女の足では、すぐに追いつかれても不思議ではなかった。
徐々に追い詰められながら、追われる者達はいつの間にか、あらぬ方向へと足を運んでいた。
「川……!」
稲光に大きな障害物の姿が照らされる。
雨で増水した、荒ぶる濁流が目の前に迫っていた。
終わった。逃走の詰みだ。
しかし、
「跳んで!」
「跳んで!?」
前を行く少女は、躊躇うことはなかった。
足を止めることなく岸のふちまでくると、躊躇わず雨で増水した川に飛び込む。そしてピエドラにもそれを促してくる。
ピエドラは……少女の言葉に素直に体が動いたわけではなかった。
飲まず食わずで三日間森に座していた身だ。逃げ回って走りっぱなしの疲れが効いた。
走る勢いで濡れた草に足をとられて、そのまま水の中へと滑り落ちていく。止めようもなかった。茶色く濁った川の中へ、体ごと投げ出される。
顔面から水の中へ叩きつけられるその寸前で、
「空気よ。熱よ」
少女がそう呟いたのが聞こえたのが最後だった。
何故か自分を包む暖かい感触を覚えながら、ピエドラは濁流の中、固く瞳を閉じたのだった。
ピイピイチクチクと鳴き始めた鳥の声に、ピエドラはようやく固く閉じた目を開けた。
真っ先に目に入ったのは、雲の割れ目から見える薄い青の空。
雨が上がって、夜が明けようとしているのだ。
しかし何故目を開けてすぐ空が……。地べたに寝てるのか? そういえば背中側が湿ってて硬いような。
そこまで知覚して、ピエドラは一気に転がっていた地面から体を起こした。
一体あの後何がどうなったのか。
川に落ちたはずだが、生きている。しかも服が濡れていない。
自分の体と、かたわらに転がった杖を確かめて、ようやく辺りの景色にも気を配る。
ザアザアと、水の流れの音がする。目と鼻の先に大きな川があった。
ここは川岸……。恐らく昨夜流された川の下流だろう。
森はもはや遠く、辺りは平坦な大地に草が茂っているだけ。少し離れた所に土手があった。ということは街の近くか。
ずいぶん流されたようだ。
そしてそこには、
「目が覚めた。よかった」
一緒に川に飛び込んだ少女が、こちらと同じく川に流された痕跡もなくたたずんでいた。腕には昨日の大きな本を抱え、怪我も傷もないのか、いたって平穏そうに立っている。
しかし安堵した様子の少女と違って、ピエドラは次の瞬間には思わず目をすがめてしまっていた。だって少女のかたわらには……、
『二人とも無事のようじゃの』
当然のように、昨夜の半透明の老人が立っていたからだ。
「一体何なの……」
森を逃げてる間は姿がなかったのに。一体どこから出てきたんだ。いいやその前に……。
『空気と熱の魔術で体を包み川を渡るとは、考えたの』
なおも呑気な口調で、半透明の老人は語る。半透明の腕が、フサフサとこれまた半透明の長い髭を撫でた。
ピエドラが助かったのはどうやら少女の魔術のお陰らしい。
しかし空気と熱で何をどうやって彼女が自分を助けてくれたかということに、今はまったく思考が及ばない。
目の前にいる、半透明の老人と分厚い本を持った縮れ髪の女の子……。
朝陽に照らされる二人を、改めてマジマジと観察してしまう。
一体何者だ?
何が目的で教会にいた? そして何故追われている?
疑問の嵐だ。
少女は、質素だが裾が鮮やかな赤に染められた白いワンピース姿。
半透明の老人は、遥か東の大国の文人風の着物を着ている。体全体が青白く景色を透かしているため、正確な着物の色は分からない。
二人ともこの国の人間ではなさそうだ。
いや、それ以前に……。
少女は何かポンポン魔術使うし、老人の方にいたっては消えたり現れたりするし生きてる人間でもなさそうだし……。
ああ……ちょっとだけ足が地面から浮いてる。
いわく付きの場所に追い込まれたことは幾度とあるが、そこで魔術を撃ちまくる少女に会ったり、半透明で青白い奇怪な存在に話しかけられたことはない。
少女と老人が口を開く度に思わず凝視してしまう。
いつものように魔女狩りから逃げ隠れていたら、とんでもなく変な二人に遭遇してしまった。
ピエドラの視線をよそに、件の二人はさっさとこれからのことの相談を始める。
『滞りなく封印を解き聖典を手に入れられたというのに、思わぬ刺客が現れたのう』
「私が封印を解くのを見計らって兵を差し向けたみたい。油断してた」
『あの様子だと、旅の道中追ってくるじゃろうな』
少女と老人はお互い長い知己のように言葉を交わしている。やはりこの二人おかしい。
そしてそのおかしな二人から、刺客、兵を差し向けた……などなど不穏な言葉が立て続けに発されるのだ。
これはもう……。
「逃げなきゃ……」
しかし静かに後ずさりしていると、話し込んでいたはずの二人がギョロっとこっちに首を向ける。その動きの速さにピエドラは思わず飛び上がった。
「た、助けてくれたことには礼を言うわ! で、でも、あたしはその……!」
「あなた、魔術師なの?」
「え?」
つぶらな瞳でこっちを見る少女は、ピエドラをその瞳に映しながら確かにそう聞いてきた。
その言葉に、こんな状況だがわずかにガードが下がってしまった。
魔術師なの、なんて今の今まで聞かれたことがない。
魔力があるのと聞かれても、ないと答えるしかない人生だった。
そもそもここらの人間は、魔力がある女を『魔術師』とは呼ばない。魔女と呼んで追い回すのだ。
杖だって、足が悪いからついているとずっと嘘をついてきた。
魔術師……あたしが……。
思わずジンときてしまう。しかしわずかな感動は、少女が重ねた言葉に残らず吹っ飛ぶことになるのだった。
「ごめんなさい。完全に巻き込んだ。まさか私以外にあの教会に人がいたなんて」
ピエドラが引っ掛かったのは、彼女の次の発言だ。
「あなたも追われることになっちゃったね」
「え」
『うむ。相手が相手じゃ。見逃されることはないじゃろうな』
半透明の老人がすかさず相づちを打つ。
彼らが何を言ってるのか、理解するまでしばらくかかった。
追われる? 見逃されることはない?
「あ、相手が相手って何? あんたら一体何に追われてるの? てかどうして追われてるの? どうしてあたしまで……」
もう恐慌状態だ。
得体の知れないものに巻き込まれた。いや巻き込まれようとしている。その最後の悪あがきのように言葉が溢れてくる。
少女はそれを、まるで凪いだ湖面のような目で、一言で受け止めた。
「彼らはこの本を狙ってるの」
そう言いながら、少女は例の青い本を胸の前に掲げる。
彼女が持つとその大きさが更に際立つ、少女の上半身をすっぽり覆うような巨大な本。
昨夜、彼女はその本を手に魔術を使った。ということはあれは魔導書……で合っているだろう。
この辺りで魔導書を見ることは稀だが、何だかかなり年季の入った古そうな代物だ。
ページは焼け装丁が削れて、わずかだが表紙に傷も入っている。
しかしこの本が何だと言うのか。彼らの話を聞くに、あの廃教会に置いてあった本のようだが、何の変哲もない古い本じゃないか。
ピエドラが魔術師という前提で、少女はスラスラと説明を続ける。
「あなたも魔術師なら聞いたことがあるでしょう? 千年に一度、救国の魔術師を真の持ち主として選ぶという伝説の魔導書のことを」
「で、伝説の魔導書?」
魔術師じゃないし、そんな伝説聞いたこともない……。それで一体その本が何なんだ。
「この本こそが、聖典・銀河の書。千年に一人だけ持ち主を選ぶという、世界最強の魔導書」
一瞬、時間が止まった。ピエドラの中だけかも知れないが、止まった。
それが真実か嘘か、伝説さえ知らないピエドラには判別しようもない。
しかし少女の瞳は相変わらず凪の水面のように揺らがず。決して嘘をついている子どもの目ではなかった。
「今年はちょうどその千年に一度の年に当たる。だから、国は総力を上げてこの本を探しているの」
「じゃあ、あの黒マント達は国の人……ってこと?」
「いいえ、あれはイクリプス公の配下の兵士達」
次から次へと新しい単語が追加される。
イクリプス。
その名ならピエドラも知っている。自警団の連中が度々口にする名だ。
何せ彼らに魔女狩りのお墨付きを与えているこの地方の大領主様なのだから。
領地も広く世界でも屈指の金持ちで、この国で王に次ぐという権力者だ。この領地では彼の作った法こそが絶対だった。
イクリプス公のお陰でこの領地では魔女狩りが激しく、加えて平民の女子が魔術師として世に出ることも厳しく禁じられている。
彼はこの地方の、魔力のある女子の大敵だと言ってもいい。
思わぬイクリプスの名の登場にピエドラが拳を握っていると、半透明の老人が少女の言葉を引き継いだ。
『この国の王から諸侯へ、お触れが出ている。早急に聖典ギャラクシアを探し出し、王のもとへ持てと。イクリプス公はその命令を無視して、あんな所にギャラクシアを隠していたのじゃ』
へえの一言で済ませられる発言ではない。つまりその本を少女が手にしているということは。
「つまり今は、イクリプス公からこの魔導書を盗んで逃げてる状況ってこと。捕まれば殺されるでしょうね」
「でしょうねって……」
おっとりした口調に逆に戦慄が走る。
聞きたくない単語のお祭りだ。老人がそれにとどめを加えてくる。
『お前さんも聖典の目撃者となった。王から隠していたという事実が漏れる危険がある以上、イクリプスは放ってはおかないだろう』
「……」
『なんたって国で二番目の権力者じゃからな。お前さんの容姿もばっちりと刺客達に把握されたはずじゃ』
そして残酷な事実の総括は、相変わらずおっとりと。
「こうなった以上、助かる道は一つ。王のもとへ聖典を持っていくこと。それが唯一の救いの道」
長らく開かなかった目が、否応なく開いていく。
注ぐ太陽から瞳を背けたいのに、真っ直ぐ見続けなければならないような感覚だった。
少女は言う。
「私は王のもとへ、この魔導書をお持ちする」
その揺るぎない瞳に射貫かれるように、再び時が止まった。
この子どもは今何と言った?
王のもとへ、聖典を持っていく?
その対価としてイクリプスから保護してもらおうと言うのか。
伝説の騎士でもあるまいし、とても現実的な発想とは思えない。
王都にたどり着くことさえ困難だろうに。
「イクリプスにその本を返したら? 隠してるんじゃなくて後々王様の所に持っていくつもりだったのかもよ」
『聖典はかれこれ一年もあそこに封じられていた。王に差し出すつもりがあるとは思えんな』
「盗んだことは事実だし、返したところで許されることはないでしょう」
「……」
思わず押し黙ってしまう。
少女のその発言だけは現実的だ。
ただでさえ平民の盗みを領主が許すとは思えないし、イクリプスは魔女狩りを推奨するような男だ。
盗っ人が魔女と幼い少女とあれば、言い訳も謝罪も通らないだろう。
魔女は諦めとともに、怒らせていた肩をゆっくりと下ろした。
何故この子どもが聖典の在りかを知っていたのか、そして正義感を発揮してイクリプスから奪おうとしたのかは見当もつかない。
しかし今は、彼女の言葉に従ってここを離れる他ない。
元々自警団も目前に迫っていたし、このままここにいたらどっちにしろ殺されるのだ。
すべては、あんな出るとか何とか言われている遺構を隠れ家に選んでしまった自分の判断が招いた結果だ。
暗い思考に落ちる魔女の前に、少女が歩み寄ってくる。
「私はソル。よろしく」
よろしく……ピエドラも王のもとへ魔導書を持っていく旅に同行すること前提だ。まあ、それしかないんだけど……。
改めて正面から向き合うその姿は、歳の頃八歳ほどか。
これまでの出来事がなければ、単純に異国風の、頭のいい愛らしい少女だ。
しかし彼女――ソルがそれだけの存在ではないことをピエドラは知ってしまった。
この小さな手をとってしまったら、いよいよこの人生の詰みだろうか。
でも今は……。
魔女は仕方なく名乗る。これからともに困難に乗り出す小さな同行人に向けて。
「ピエドラよ。杖はついてるけど、魔術はあんまり……ほとんど使えないから、足手まといになると思ってくれていいわ」
子ども相手に何言ってるんだと自分でも思うが、言葉の内容はすべて真だ。
これ以上のへっぽこ魔術師は、この世に二人と存在しないだろう。王へと続く道を歩むには、あまりに力不足の存在だ。
頼りない自己紹介をかました魔女とソルの間に、すかさず半透明の老人が割り込んでくる。
『安心せい。その魔導書がある限り、その子は限りなく当代最強に近いということ。追っ手には魔術師もおる。魔術師から誰かを守れるのは魔術師だけだ』
「ハイハイ、じゃあ守ってもらうわよ……」
昨夜の魔術の使いっぷりからして、ソルの腕がいいのは分かっている。
あれは最早子ども離れしているというレベルではない。すでに一人の、それも高位の魔術師と言っていいレベルの魔術だった。
残念だが、今のピエドラは子どもに守られるしかない弱小魔術使い。例えすべてがぶっ飛んでいてもソルの魔力を盾にするしかない。
しかし伝説とか言われてる魔導書を、ピエドラでも出入りできるような森の廃院に置いとかなくてもいいのに。そのお陰で無関係かつひ弱な自分が巻き込まれたのだ。
「まったく、そんなものを何で廃墟に放置してたのよ」
ピエドラの独り言に、半透明の老人はちょっとだけフサフサの眉を上げた。
『さあな。大方、厳重に警備するとギャラクシアのことが王に筒抜けになると考えたのじゃろう。兵を置かずとも、聖典は難解な封印で守られていたしな』
「ああそう。それであんたは……」
めくるめく出来事のお陰で今まで聞きそびれてしまっていたが、本来なら聞きそびれていい存在ではない。
この老人は一体何なのか。
景色を透かすその体、頭に響くようなその声。しかし決して無視できないその存在感。
文化の違いはあれどわりと裕福な層の着物を着ているように見えるが、今はそんなこと関係ない。
その姿はどう見ても、
「もしかしなくても、幽霊……?」
『失礼な。わしは聖典ギャラクシアの精霊じゃ』
「精霊? 悪霊じゃなくて?」
青白い体がこちらに近付くたびにひんやりとした空気が肌に触れる。やっぱりこれ幽霊じゃ……。
『めちゃくちゃ疑うのう……。まあ、ギャラクシアを手に入れた者に知恵を授けるためにいる番人だと思ってくれればいい』
「はあ……」
『ソルのお陰で久しぶりに外に出られた。やはりシャバはいいのう』
シャバって……。
まあいい。世の中には聖典とかその精霊とか、不思議なことがあるもんだ。
そのくらいにしか今は考えられない。これ以上考えると頭が爆発する。
「じゃあ、王都へ向けて出発ね」
頭を抱えるピエドラの脇で、早速ソルが音頭をとる。相変わらず落ち着き払った声音で。
魔女はただそれに付いていくだけだった。
朝陽は、心の準備など待たず進む道を照らし。
逃げ惑う生活を続けてきたピエドラはこの日、さらなる苦難の旅路の前に立たされたのだった。
――先頭を行く少女の腕の中で、青い装丁が静かに日差しを受ける。
半透明の老人はその青白く輝く瞳で、でこぼこな二人の旅の始まりを見守っていた。
川辺から離れ、聖典ギャラクシアを運ぶ一行は周辺を見下ろせる土手の上へと差し掛かっていた。
王都を目指しながら、とりあえず今はあの黒マント達に追われた森からなるべく離れなければならない。
指命手配がかかっている可能性があるため、すぐそばの大きな街にも近寄らない方がいいという結論に至った。
ソルの後ろで、ピエドラはふうと息をつく。
王のもとへ急ぐ冒険者というより、これでは完全に後ろ暗い犯罪者だ。まあそれに近いだろうけど。
だがこの辺りを早く抜けたいというのは同意だった。
聖典の番人の老人は大きく伸びをして辺りの空気を思い切り吸い込み――吸い込んでいるのだろうか――機嫌良さそうだが、ピエドラからすればここら辺は黒マントを抜きにしてもあまり……。
見覚えのある景色にピエドラが警戒しながらキョロキョロしていると、不意に前を行くソルから声が上がった。
「王都へ旅立つ前に、寄っていきたい所があるの。あそこならあまり人目につかないだろうから……」
小さい手が、ある場所を指差す。そこは――。
「あそこに用があるの」
「あそこって……」
ソルの示す場所を見て、いつの間にかピエドラの眉間にはシワが寄っていた。
市街から少し離れた場所に見える、灰色の屋根の群れ。
宿と酒場の集合体に見えるが、あれはもっと暗い目的のために作られた宿場だ。
各宿の軒先にひらめく、目を引く極彩色の布。そこがどういう場所かを示す、暗黙の顕示。
街外れの娼館街だった。




