第3話 ピエドラと受難
雨が降っていた。
「――ピエドラ! 杖を放せ!! それはお前が手にしていいものじゃない!!」
空に走る天雷が『音』を甦らせる。
耳の奥にこびりつき、決して消えない過去の嵐の音を。
「魔術師になりたいだと!? 馬鹿を言うな……」
続く音は、
「女が魔術師になれるわけがないだろう!」
また一つ、雷が地上に降り注いだ。
稲光が濡れた森を照らす。
その光に、思い出したくもない過去の影が伸びていく。
そしてまた音は甦るのだ。
「お前に魔力があると分かれば、魔女として裁かれてしまう。お前一人だけじゃない、家族も巻き込まれるんだぞ!」
「角の宿屋のマイテを知ってるだろう? あの子、魔術を使ったせいで自警団に拷問されて、果ては石打になっちまった。宿も火をつけられて丸焦げさ。女の子に魔力があるのは駄目なんだよ」
「魔術師になって王都に行きたい? はっ、城を見たければ魔術師様の嫁にでもなるこった」
「とにかく駄目だ。女に魔力があると知れたら、自警団が家ごと焼きに来る。お前、俺達を殺したいのか!?」
「お願い、ピエドラ。家族のためにじっとしていて。もう私達を振り回さないで」
「どうしてって、世の中はそういうふうにできてるんだ。わしらには変えられない」
……土砂降りの雨に霞む、夜は続く。
振り払う気力もなく、ただ責め立てる嵐の音を聞いていた。
幾人も幾人も、過去の亡霊は一人一人カッと目を見開いては、かつての幼い少女の頭に叱責の言葉を刻んでいく。
今さら何を感じることもない。怒りも悲しみもそこにはない。
しかし脳裏に焼き付いた言葉だけはどうしようもなく繰り返される。
比較的安穏なときも、窮地に陥った今も。
きっとこの人生の最後に甦る記憶も彼らの言葉だろう。
自分の中にある唯一の係累との思い出だ。良くても悪くても、思い出せることがそれしかないのだから。
……責める嵐の音は、大人になったこの頭からいつの間にか遠ざかって。
しかし現実の雷は今も鳴り続いたまま。
一人の森に雨は降り続いたまま。
冷たい夜は明けない。
硬い髪から垂れた雨粒に、重いまぶたを半分開けた。いや開けたというより、半分までしか開かなかった。
暗い空を割る光の線が走っても、地を這う水が足元まで迫っても。
朽ちた石の床の上で膝を折って、ひたすら小さく丸まって……。
時間は停滞し、早く明日になれとももう思えない。
そうだ。この夜が明けたとしても何も変わらない。
むしろひどくなるだけだ。
森をうろつく狼は血に飢えている。
世間から浮いたはぐれ者の胸を穿つために、狂気の群れをなして牙を研ぎ、常にこちらの隙をうかがっている。
……その脅威から逃げ続けてもう三日。
朝が来て天気が回復でもすれば、弱ったこの身を狙って再び狼達が動き出すだろう。夜明けはこの人生の終局と同義だ。
ああ、何故あそこで魔術なんて使ったんだろう。もっと上手く逃げられた。
狼――街の自警団に目をつけられ、森に追い込まれ包囲される。
人生で何度か経験した窮地だが、今度は狼の数が多く獲物にやたら執念深い。
狩りを終えるまで絶対に包囲を解かないつもりだ。
――魔女ピエドラ。
この辺りではすでに指名手配されているも同然の存在なのだ。
例え運良くこの窮地を切り抜けられたとしても、もう街のどこにも居場所はない。
通りを歩けば疑われ、因縁をつけられ、取り囲まれ刃を振りかざされて……最後には他にすべもなく魔術を使って逃げる。そして遂に魔女とバレる。
その繰り返し。
力が周りに露見するたびに、自警団に率いられた人々に武器を持て追われてきた。
……魔女狩り。その名のもとに、魔力がある女も、魔力があるとでっち上げられた女も、単に世に馴染めない女も、そのすべてが標的として狩られていく。
魔力があるとおぼしき孤独な女。
それだけでこの国では重罪なのだ。
そういう女が自警団に捕まれば、瞬く間に魔女として吊るされ、私刑に上げられてしまう。
法で決まった刑罰によるものではない。しかし世間的に認められた『公認』の暴力……そして見せ物だ。
止める者も糾弾する者もいない。そこにはただ雄叫びのような呪いの声と、魔女の燃え上がる様を興奮混じりに見守る者達がいるだけ。
もはやピエドラにとって、この世界はただ、どこに逃げられるかの目算をするだけの箱庭に過ぎない。
人生は、どれだけうまく身を隠せるかの逃走劇。
そしてそれももう詰みだ。壁にぶち当たって、もう行ける場所もないのだから。
斜めに降ってくる雨がさらに夜を冷やし、縮こまる身の体温を奪っていく。
ゆるゆると、吐いた息だけが天にのぼった。
森の中の遺構に背を預け、膝を折りながらこの三日、息を潜めて過ごしている。
ここは打ち捨てられた、大昔の廃教会だ。
五つほど棟がつながった大教会だが、使われなくなってどれほど経っているのか。
真ん中の本棟以外はほとんど屋根が崩れ、中が吹きさらし状態だ。もはや教会というより、石の壁が忽然と森に立っているという様相だった。
暖をとれる場所はなく、ここも割れた回廊の一部。かろうじて屋根は残っているが、石のアーチからまともに雨風が吹きこんでくる。
その柱にぴったりと背をつけて、アーチから体の横を通る雨風を凌いでいるのだ。
しかしそんな有り様でも森を包囲しているはずの自警団が容易に近付いてこないのは、この遺構が『出る』からだ。
魔物か幽霊か怪物か悪魔か。この廃教会にはそのどれかが住み着いていると言われる。故に常人なら誰もこの場所に近付かない。
そしてその噂は本当だったようだ。
まだ屋根の残る本棟の方から、夜気とは違う肌を刺すような冷気が漂う。
この巨大な廃院で、外にいても感じるほどの重く禍々しい気配。
確実に中に何かがいて、踏み入る誰かを食おうとしている。それが分かる。
しかしそれはすべて建物の内側のことだ。外にいるだけなら大したことではない。
魔力に目覚め、魔女狩りから逃げ続けて二十年。常に追われる身の人間だ。
いわく付きの場所など何も恐くない。他に行ける場所もないのだから。
しかしこのいわく付きの場所に、足を運ぶ人間がもう一人。
……ほら、今日も来た。
ボチャッボチャッと、水のたまった暗い森の泥を踏む音がする。
水溜まりを跳び越える軽い布靴の足音。
子どもだ。
その足音は雨も、遺構の中の怪物もまったく恐れる気配はない。恐れるどころか、まさに突き進むといった感じで廃教会の正面の扉を押し開く。
ピエドラはただ、回廊の柱に隠れてその音を聞いていた。
これがこの三日ずっと続いているのだから、おちおち眠れやしない。
子どもはかなり長い間教会の本堂に留まり、明け方になるまで帰らない。
禍々しい気配のただようこの場所の中心に、こんな夜中に一人で踏み込むだけでも正気の沙汰ではないのに。
それにあの子ども、森を包囲する自警団の目をしのぶためか、ランタンの明かりも何も持たずに森を抜けてくる。肝が据わっているとかそんなのを通り越して実に不審だ。
しかしこんな所に、こんな時間に不審な子どもが一人で何を? と不思議に思いはするが、それ以上のことはない。
見つかったらここに魔女がいると告げ口されかねないのだ。そんなことになったらいよいよ最後だ。
この疲れきった体を引きずり、もはや遠くへは逃げられない。
変な子どものことなど放っておいて、ひたすら息を潜めるだけだ。
下から届く雨に、スカートの端が濡れていく。
まぶたが重く、しかし眠りに落ちることもできずに。
氷のように冷たい指に一本のポプラの杖を握りしめる感覚だけが、今生きている感覚だ。
雨が上がれば、自警団がまた狩りを始めるだろうな……。
一つ、大きな雷が空を這った。
雨の中に、水溜まりを踏み抜く馬のくつわの音がしたのはその直後だった。
自警団の足音ではない。しかし、
「全員で囲め! 連れ帰らなければ首が飛ぶぞ!」
「……?」
男の怒鳴り声。次々と暗い森から現れる馬のくつわの音、集まるランタンの明かり。
このまま外にいてはいけないことは、すぐに思い知らされた。




