第19話 捕獲と遭遇
「く、来るな! 来るんじゃない!」
荒い息遣いが、蝋燭を灯しただけの暗い廊下の静寂を破る。
バタバタと、かなりの焦燥をうかがわせる足音が床を打った。
曲がり角に来るたびその体を廊下の角にぶつけながら、それでも紺のマントの人物は一心不乱に廊下を先へ先へと逃げていく。
泡をふく寸前の唇から、彼は最後の力を振り絞るように叫んだ。
「ま、待て! 寄るな! こっちへ来るな!」
叫ぶ彼を追う者達は、わめく獲物と違って実に静かだった。
最早その人に逃げ場がないことを知っているのか、ゆっくり大股に歩きながら確実に彼を追い詰めていく。
恐慌状態で前を行く者と、冷静に追う者。異なる調子の足音が、石の廊下に反響していた。
そして、
「が……!」
前を見ていなかったのか、避ける余裕がなかったのか、逃げる人物は廊下の彫像に半身をぶつけて倒れる。
なす術もなく、逃亡者はすぐ後ろの壁際に追い込まれた。ほどなく冷たい靴音が彼を包囲する。
慌てて顔を上げた途端にマントのフードが脱げたのか、追跡者達の灯す光に逃亡者の顔が浮かんでいた。
綺麗に髭を剃った顔。丁寧に撫で付けられた髪。
労苦から切り離された整った顔立ちがそれだけで貴族の血統を表し、フードをとって頭を出しただけで高貴な身分の人間と分かる。
しかしその顔は長い間の心労にやつれたのか痩けていて、さらにそのやつれた顔は今、目前に迫った生命の危機のために大きくひきつれていた。
彼を追い詰めているのは二人の女、否……。
「お諦めを、マルヒナード公」
壁際の獲物に迫る者の内一人が、硬質な声で貴人に告げる。
その言葉に、後ろがもう壁と忘れていたのか、それとも最後の悪あがきか、追われる貴人はそこに自ら背を叩きつけた。
二人の平民風の女……否、それに扮した追跡者達は、さらに距離を詰めて、冷酷に貴人を取り囲んでいく。
スカートの裾を蹴り上げながら進む二人は、まるで鎧を纏っているかのように背筋が伸び、歩き方は長く鍛練した兵士のようだった。
二人のはるか後ろには、手傷を負い武器を取り落とした男達が白目をむいて倒れているのが小さく見えている。
その光景を追跡者達の足の隙間から視界に入れて、貴人はさらに大きく肩を震わせた。
「ご安心を、公。あなたの始末をつけるのは私達ではありません」
冷徹な追跡者の言葉とともに、貴人の脇を数名の男達が固める。
彼らは床に伏している男達と似た粗末な服装をしていたが、最初に貴人を追い詰めた二人と同様顔つきは精悍で、動きも洗練された兵士そのものだった。
男達はまるで仮面を被っているかのように無感動な顔で、さっさと貴人の体に掴みかかる。
恐怖に腰が抜けたのか、貴人は男達の真ん中で両手を抱えられ、半ば担がれるような格好になっていた。
最早貴人が身動きもとれないことを確認して、追跡者……『貴人を追い詰める平民の女』に扮していた者の内の一人が口を開く。
それはほんの数刻前、『ソルという少女に協力して牢を破った女』に扮していた者の姿でもあった。
「王都の大貴族が、あっけないものだな。これでこの地方の女狩りもしばらくは止むだろう」
そして彼は、となりにいる肩をはだけた格好のもう一人の追跡者に疑問を投げかける。
「首領は無事に縛り上げられそうだが、レオナルド様はどこへ? 早くこれをご報告せねば」
「ご用事があるそうだ。探し物があるとおっしゃっていた。すぐにこちらへ合流されるだろう」
同僚に答え終えると、しゃがれ声の彼は厚く塗られた赤い口紅をがっと二の腕で拭う。まとめていた髪をその手でほどき、スルスルと胸元まで締めていたボディスを緩めた。
そして彼が一つ息を吸うと、はだけた肩に徐々に抑えていた筋肉が隆起していった。
紅を拭ってもほんのり赤の移った唇。そしてまだ化粧ののった肌が、未だ彼に妖しい美しさを添えている。
しかし今それは、先程の完璧な娼婦の姿から、性別を判然とさせない美男の姿へと変わっていた。
一度咳払いして、彼は今日のために潰した喉を鳴らす。そして声の調子を低めた。
「レオナルド様はもちろんお一人で大丈夫だろうが、途中ではぐれたあの少女達は無事だろうか……」
「お下げの子は心配だが、あのソルとか言う少女が付いていれば大丈夫だろう。あの少女、魔力も強いが同時にただならぬ雰囲気を纏っていたからな」
同僚のその言葉に、肩をはだけた彼は半ば呆れ顔でさらりと髪を後ろにやる。
「お前はあの子の爪の垢を煎じて飲むべきだな。……お前が自分のスカートを踏んでつまずいて、あろうことか敵に見つかったときは、どうしてやろうかと思ったぞ。そのせいで彼女達と離れ離れになったんだから」
「う、うるさい。着なれないものを着ているのだから仕方ないだろう。お前だって腰をグイグイ締め付けられてきつかっただろうに」
「気合いだ、気合い。女のお洒落には我慢がいるのさ」
どこか気の抜けるようなそのやり取りの先で、精悍な顔付きの男達は貴人の肩を掴み続けている。彼らはそのまま、力の入らぬ様子の貴人……マルヒナードを無理矢理立たせた。
これから己の意思に反して何処かへと連行されるだろう彼に、しゃがれ声の男はどこか遠くを見ながら呟く。
「……公、もうしばらくお待ちを。あなたに裁きを下すべき黒衣の魔術師が、すぐにいらっしゃいますから」
うつむいたままの貴人ののどが、冷めた言葉にゴクリと鳴った。
……来る。近付いてくる。
どこから水が流れてくるのか、ポタポタと地下道の天井から雫が垂れる。
それが『彼』の一歩一歩と重なった。
一つ息を吸い込み、ソルは腕の中の魔導書と、すぐ後ろを歩くローサの位置を確かめる。
どんなに足を速めても、子どもの歩みでは逃げ切れない。……分かっていたが、とうとうその人物と向き合うときが来てしまった。
カツカツと、靴音は徐々に、しかし確実に迫ってくる。
そして。
少女が灯していた光の魔術の範囲に、その男の足がかかった。
「ああ。良かった、追いついた。……待ってくれ、お嬢さん達!」
言葉とともに、柔和で人のいい笑顔が闇に浮かび上がる。そのまま彼は、杖を突きつつ後ろからソル達を追ってきた。
軽やかに小走りしてくる靴音に、しかし反比例するように重いその魔力に、縮れ髪の少女は魔導書を構えながら男を振り返っていた。
ともにここまでやって来たローサを後ろにかばう格好で、追ってきた魔術師と対面する。
――古城の中庭に隠された秘密の石室。そのさらに下に隠されていた地下室から続く、岩を切り出したような狭い地下道。
大男の襲撃を逃れた二人の少女は、この城からの出口を探すためしばらくその暗がりを歩いていた。
どこかから外気が入るのか湿気がこもってじめじめした地下道を、二人はなるべく足を速めて歩いていたが、やがて後を追ってくる長靴の音が迫り始めたのだ。
……石室に突然乗り込んできた、謎の魔術師のものと思われる靴音が。
そして、剥き出しの岩肌に両側から押し潰されそうな狭い道の真ん中で、ついに両者は対面したのだ。
息をのむローサを背に、ソルは魔導書の中程のページに指をかける。
例えどこまで逃げてもこの男に追い付かれることは何となく分かっていた。……分かっていたが、こうも早く対面することになるとは。
あの大男では彼と戦っても数十秒ももたないというソルの予測は、どうやら現実のものとなったらしい。
それくらい力の差は歴然だったからこの結果に驚きはしないが、大男を瞬殺した彼はこの城の構造にもよく通じているようだった。
この狭い道の先に出口があるかどうかも知らずもたついているソル達に、こうも容易に追い付いてきたのだ。
大男に上から攻撃されたときのように袋小路の地下室で対面しなくて済んだのはましかもしれないが、行く先も分からないこの場所で対面してしまったのもかなり剣呑だろう。
ふうと一つ息を吐いて、覚悟を決めるように少女はその魔術師を見据える。
顔を上げると、すぐにその青い瞳と目が合った。
自分よりずっと高い所にある落ち着いた双眸。
向けられる一見柔らかい視線。左手に握られた杖。
対面した魔術師は、石室で聞いた声の印象通り若い男だった。
予想に反して、薄明かりに浮かぶ顔付きは柔和でいかにもおっとりした性格を思わせるが、故に何を考えているか表情で読みにくい。
その表情の読めぬ黒衣の魔術師は、磨かれた大きな杖を片手に、まるでさっきまで何事もなかったかのように首を傾いでいる。
何事もなかったわけがないのだ。
感覚を澄ませば石室の方向で、あの大男の魔力が今にも消えかけているのが分かる。
……彼がその強大な魔力をもって何をしてきたか、それだけで理解するには十分だった。
ソルとは対照に、光のもとに現れた黒衣の魔術師の姿に、ローサはぽかんと口を開けて感嘆の息を漏らしている。
薄明かりに照らされる整った面、綺麗に波打つ髪。黒いローブをゆったり広げ、杖を片手に佇む真っ直ぐ伸びた背は、まるで物語の中から飛び出してきた貴公子を思わせる。
ローサの反応も当然だ。……この眩しい姿を見て、彼が無慈悲にも一人の大柄な魔術師を数秒で屠るような怪物だと思う人はいないだろう。
今も彼は、目の前に現れた二人の少女の姿を見て穏やかに眉尻を下げている。
道の先にいるのが十になるかならないかの幼い少女達と知らなかったのか、最初は少し意外そうな顔をしていたが、相手が子どもと知った今は完全に緩んだ表情を見せていた。
形のいい唇の端が上がり、穏やかな言葉がこちらへ向けて発せられる。
「石室にあった棺に花を手向けてくれたのは君達だろう? そのお礼が言いたくて」
彼が少女達を追ってきた理由。それは普段何事にも動じぬ天才魔術少女が思わず真顔でその人を見つめ返してしまうくらい、意外なものだった。
ぽかんとするソルに構わず、青年はさらに笑み崩れる。
「俺も早く墓参りに来たかったんだけど、なかなかここまで来られなくて……。君たちに先を越されてしまったね。長い間この城に一人放っておかれてたから、きっと棺の中の人間も喜んでるよ。ありがとう」
大人が浮かべる表情かと疑うほど、無邪気で心の底からの笑顔だった。
ソルの後ろで、花を手向けた張本人であるローサも、びっくりしたように彼を凝視している。
明らかに上流社会に属する外見の者が、下層に生きる自分達に礼を言ったことへの驚きと、陰惨なことの連続だったこの城で単純に人のいい笑顔に出会えたことへの驚きと。二つがない交ぜになった不思議そうな顔で青年を見ていた。
そして、
「君たち、あの人さらいにここまで連れてこられたんだろう? さあ。一緒にこの城を出よう。俺が出口まで案内するよ」
固まる少女達に向けて、青年の白い手が差しのべられた。
腰をかがめてこちらへ目線を近付け、彼は少女達が手をとるのを待っている。
まるで人さらいに捕らわれた少女達の窮地に駆けつけた騎士のように、どこまでも優しい微笑みを浮かべながら。
青年が差し出すあまりの無防備さと温和な表情に安心したのか、ローサは差しのべられた手の方へと歩いて行こうとする。
ぱしっと、ソルはその腕をつかんで引き留めていた。
「ソル?」
縮れ髪の少女の予期せぬ行動に、ローサは目を丸くしながらソルを振り向く。そしてそのまま目を見張った。
驚いているのだ。
ソルが初めて、相対する人間に芯からの警戒の表情を浮かべるのを。恐怖にも似た強い警戒の色を浮かべるのを……。
しかしその警戒は無から生まれるものではないのだ。
見ている。見られている。
ローサ越しに、瑠璃色の瞳が自分を射貫いている。
……それとなく、しかし確かに。どんなに優しい笑顔を浮かべていても、それが仮面でないとしても、彼には胸の内に隠した真意がある。
さっきは地下室に降りてくる彼の魔力に触れて、胸に氷柱を突き立てられる感覚と思った。そんなものじゃない。
絶対零度。
彼の魔力に触れた場所から体が凍りついていくようだ。
逃げられない。逃がすつもりがない。
彼の瞳に映るものは、すべて最後には儚く砕け散る運命にある。それが魔力の一端に触れただけで分かる。
故に、差し出された大きな手に、脈が速まっていく。
誰だ? ……この男は『何者』だ?
瀬戸際に立たされた頭で必死に考える。
この悪魔城の、秘密の石室に置かれた棺に花を手向けに来たという、この青年は一体誰なのか。
今すぐ答えを出さなければ。さもなければここで……。
「ソル、どうしたの?」
重ねて呼び掛けてくるローサの声に、自分を揺さぶるその手に、ソルはようやく我へと返る。
危うく青年を睨み付けそうになる瞳を一度ぎゅっとつむって、呼吸を整えた。
「……あいにくだけど、私達にはまだこの城でやることが残ってるの」
そう言って瑠璃色の瞳を見つめ返す。
青年はしばらくそのまま縮れ髪の少女の姿を見据えていたが、やがてふっと頬を緩めた。
それと同時に、自分に向けられていた圧が一時的に消えるのをソルは感じていた。
少女が何を言わんとしているのか察したのか、青年は差しのべていた手を引きながらにっと口角を上げた。
そして手品の種を明かすときのように、少し悪戯っぽい微笑を浮かべてみせる。
「他に捕まってる女性達のことなら心配いらないよ。俺の仲間が今頃、君達と同じ牢にいた人達を救い出してるはずだ」
「……」
「ほ、本当? みんな大丈夫なの?」
黙り込むソルのとなりで身を乗り出すローサの言葉ににっこり頷いて、青年は己の素性を語り始める。
彼は王都からこの城に巣くう人さらいを掃討するために派遣されてきた魔術師で、すでに彼の仲間が何人かこの城に潜入していること。そして青年に呼応して、潜入者達は人さらい組織を壊滅させようと今まさに動いていること。
この城の中では今、国が派遣した軍なり役人なりによる大きな捕り物が行われているのだと。
青年の言葉が嘘ではないことは、ソルもある人物と出会っていたからすぐに分かった。
脱獄を助けてくれた、しゃがれ声のあの人物の顔を思い浮かべる。
彼女……いいやもしくは彼なのか。地下牢で牢番を倒したときの、あの身のこなしは一娼婦ではあり得ないものだった。
牢番を階段から突き落とした女も含め、あの牢には何人か、青年が潜り込ませた協力者が潜んでいたのだろう。
捕らわれたか弱い女に化けて、牢の中で憔悴したふりをしながら今日このときを待っていたのだ。
腰をかがめながら、青年はこちらへ向けて不敵な笑みを浮かべる。
「この悪魔城は今日で終わりだ。俺の仲間はネズミ一匹逃がさないほど優秀だからね」
人さらい達は今頃大混乱だろう。
彼は……彼らは、ずっと前からこの悪魔城を包囲していた。
恐らく人さらいの手下の男達の中にも内通者を潜り込ませて、内側から組織の壊滅を目論んでいたのだ。
まさに手の平の上。
ここに捕らわれた女達も、さらった男達も、その上にいる魔術師も。いいやそれを統べるもっと大きなものまで、すべて彼らは掌握していたのだろう。
「よかったね、ソル。これでみんなで外に出られるよ」
「……ええ。よかった」
あらゆる希望を奪われた悪夢の誘拐から一転。どこかの冷酷な貴族に買われて吸血される危機を乗り越えたのだ。
ローサが無邪気に喜ぶ姿に、せめて自分も笑みの一つも浮かべたいものだが……。
青年の言ったことは恐らく本当だろう。
彼ほどの魔力を持つ魔術師なら国家に属していることは間違いないし、地方の人買い組織の壊滅を目論むなど相当の権力や権限がなければやらないはずだ。
この先どういう処遇をされるかは知らないが、とりあえずここに捕らわれた女達は助かったのだ。
ソルも望んでいた結果のはずだ。
「ありがとう、お兄さん」
弾むようなローサの言葉に、少女ははっと前を見る。
青年は相変わらずにっこり、膝を折ってローサの言葉に耳を傾けていた。
険しい顔付きを隠せないのはソルだけだ。
……人さらいから囚われの女達を解放しにきた。
この膨大な魔力の持ち主の目的がそれだけなら、何故その魔力でこの身を刺激する必要があるのか。
先ほどからローサがソルの名を呼ぶたびに、青年の瞳に小さく興の波が打ち寄せるのが分かる。
それはまるで長らく名を知りたかった者の名を知ったときのようで、探していた誰かの消息を微かにつかんだときのようで……。
それがまたソルの首筋に冷たいものを走らせるのだ。
険しさを増すソルの視線に、滲んだ冷たい影を上書きするように青年はにっと微笑んだ。
「行こう。この先へ行けば、城の外に出られるよ」
少女二人を先導するように、彼は地下道を前に立って歩き出す。
他に術もなく、ソルとローサはその背中に従った。
「ソル、大丈夫? さっきから何か変だよ」
うつむきがちに黙り込んでしまったソルを心配したのか、ローサが囁くように声をかけてくる。
そこでようやく、少女は手の平に握っていた汗に気付いた。
「目の前に大きな湖がある。そこにはほんの少ししか水がたまっていないように見えるけど……」
「……?」
「彼には隠し事があるってこと」
指先の震えが止まらない。
青年の方から流れてくる魔力に、何かが削られていくようで。
石室にいたとき大男もソルも気付かなかったように、彼は完璧に自分の魔力を隠す術を習得している。
しかし今はわざわざその枷を外し、少しずつ漏れ出させるように己の魔力を垂れ流しているのだ。
……これは分かっている。
わざと自分の魔力の制限を緩めて、反応を見ているのだ。
ソルが彼にどう反応するかを、試している。
あのとき彼が煽っていたのはあのフードの大男ではなく、地下にいたソルだったのだ。
しかし一体何が目的でそんなことを……。
改めて、ソルは自らの持つ魔導書に目を落とす。そして自分の数歩先を行く相手に険しい視線を投げた。
その視線の先で、黒衣の魔術師の背は小さな反抗者の眼差しを静かに受け止めていた。




