第15話 魔女狩りと風
「――いい風だ」
呟きに答えるように、追い風が彼の柔らかい髪を吹いていく。
小舟に乗った青年は一人、雨後の濁った川を吸収する紺碧の内海に浮かんでいた。
崖の迫る岸で砕け、外海へと出ていく波が船体を揺らす。
川から混じる泥の臭いと、外海から寄せる潮の香り。ここは内と外の狭間の場所だ。
水面を渡る風と波を自在に操り、魔術師は舟を前へと進める。
行く先には鋭い岩肌をさらしてそそり立つ黒い岸。そしてその上にそびえる堅牢な古城が見えてきていた。
その古城から流れてくる魔力の気配に、青年はわずかの間、青い瞳を閉じる。
「魔力……ずいぶん大勢いるな」
城の中にいる、大半は弱く微かな魔力だ。しかしその中に一つ……。
砂粒に混じるように輝く一筋の光彩に、彼は唇を緩ませる。
見上げる空は徐々に暮れへと。
古城の上にわずかな赤を滲ませ、ゆっくりと今日の終わりを連れようとしている。
その陽に照らされ瘴気を天に放つ城は、まさに悪魔の城と呼ぶべき魔窟だ。
しかし……。
「……狩りの他にも楽しみがあるかも知れないな」
波に揺れる小舟の上から、遠く見える悪魔城。
禍々しいその姿は、今は魔術師が持ち上げたその手の平の上に、すっぽりとおさまっていた。
「ちょっと、そうじゃないって!」
川岸の崖の上から聞こえる、ひたすら焦る人間の声。
その場にいる一同は唖然としていた。
声の主に、そこにいる全員の視線が集まる。
そりゃあ崖の上から「ちょちょちょ、待って!」「そうじゃない、そうじゃないって!」「ああそう、あたしが悪かった! 悪かったから、向こうに飛んで!」とか言ってる人間がいたら嫌でも見るだろう。
川岸の老婆も、川の上の武装した男達も、今や全員が目を点にして『それ』を見上げていた。
その、焦りながら狼狽えそれと同時に叫び続ける不審な人物……ピエドラがこの川岸にやって来たのは、ほんの少し前のことだった。
「魔術が使える……。風の魔術が使える……」
息を切らしながら、魔女は森の中を駆け、そのまま空っぽの村を越えてその外へ。
そして村外れを流れる大きな川の岸で足を止める。
腕の震えも、唇から漏れ出す言葉も止めることができぬまま。
その手にきつく握る杖を先頭に、魔女はやっとその場所までたどり着いた。
そこでは、
「いたぞ! 逃がすな!」
雨後でまだ茶色く濁った川の上に浮かぶ、数隻の小舟の群れ。
そしてその小舟に乗った男達の内の一人が、鎌を天に突き上げながら威勢よく叫ぶ。
彼の舟の近くに浮かぶ、他の小舟の上の村人達の怒号がそれに続いた。
その声の先で、崖の迫る狭い川岸に追い詰められているのは体の細い腰の曲がった老女だ。
彼女に向けて、男達はオールを漕ぎ舟を進める。
南の村の村人達による魔女狩りが、今まさに目の前で行われているところだった。
「風よ……風よ……」
魔女は川岸の崖の上から、眼下のその光景を前に一心にそれを唱え続けていた。
一人、小舟の上で弓を構えた男が、川辺を伝い歩く老女に狙いをつける。
そして、
「……風よ!」
「うわ、何だ!?」
魔女の言葉とともに、川面に突風が吹いた。
ビュンッと猛烈に吹きつける風が、舟の上の男達を襲う。
放たれた矢は、その風に叩き落とされ濁った水の中へ。
揺れる小舟の上で立ったままでいられなくなった男達が、一斉に舟の上に座り込んだ。
そして彼らは、その『風』が現れた崖の上を見上げる。
そこにいるピエドラはすべての集中を一点にするように瞳を閉じ、眉間に深いシワを寄せて、もう一度杖を振るうところだった。
「風よ!」
その様子に、二撃目が飛んで来ると、舟の上の男達は身構える。
しかし、
「風よ! 風よ! ……どうして!!」
川辺に反響するその声に、逃げる老女も川の上の男達も唖然として顔を上げた。
どうして……どうして……。
切ない残響は二度三度と空気を震わせる。
そして集まる視線の先で、魔女は果てしなく焦っていた。
いくら風の魔術を唱えても、その場には前髪を持ち上げるようなそよ風が吹くだけ。
とっさに出した最初の一撃はうまくいったのに、一体どうして……。
この短い間に、またいつものへっぽこ魔力に戻ってしまったのか?
「ちょっと待って。落ち着いて、落ち着くのよ、あたし……」
杖をとんとん、地面について息を整える。意気揚々とこんな所に飛び出してきて、今さら何を焦ってるんだ。
しかし魔術に機嫌なんてものがあるのかどうか知らないが、先程のような大風は一向にピエドラの杖から放たれる気配がない。
焦る魔女の向こうで、持ち直した先程の男が再び弓を構えた。
「……っ、風よ!」
絞り出す声とともに、今度は再び突風が川の上に吹く。
放たれようとしていた男の矢を弓ごと落とし、それにとどまらずなんと彼を小舟の上から叩き落とした。
緩やかに流れていた茶色い水面が、大人の男を飲み込んで盛大に飛沫を上げる。
まだ舟の上にうずくまったままの他の男達は、また唖然としてそれを見ていた。
「ありがとう、風! でももう一回お願い!」
崖の上の魔女は、またぐっと杖を握り、眉間にシワを寄せ集中する。
……そして先の言葉に決して応えてくれない自分の魔術と喧嘩するのだ。
「だから、風よ! 風だってば!」
何だこれは。
確かに風の魔術は使えるが、出力がまったく安定しない。
ふわりとしたそよ風が出たかと思えば、次の瞬間には、一帯を吹き荒ぶような烈風が飛び出してしまう。
一体何がそよ風になり、何が大風になるのか。それがまったく分からない。
だからこそ、
「ああもう分かった、風よ!」
「うわあ!!」
とうとう投げやりになった魔女の叫びに、また奇跡的に暴風が起こる。
今度は舟を揺らす程度ではない。
吹き出す烈風に、川がその流れを逆にするほど大きく波立つ。
そして波に耐えきれなくなった小舟が次々転覆を始めた。川に投げ出された男達が、武器を放り出し慌てて岸へと泳いでいく。
「お、おう……」
その様子に魔女はほっと肩の力を抜き、掲げていた杖を下ろそうとした。
しかし、
「ちょっと、もういいって!」
突風がおさまったと思ったのも束の間。
下ろそうとしていたピエドラの杖からは、なおもボンボンと風の弾が川面へ向かって飛んでいく。
風の弾はすでに転覆した小舟に当たって、その船体をバラバラに粉砕していった。
……やり過ぎだ。
しかも風を放出する反動で己の杖に思いっきり振り回される。気を抜くと自分まで吹っ飛ばされそうなくらい、とにかく制御がきかない。
「ひい、化け物だ!」
「悪魔城から出てきた怪物だ!」
そしてその抑制のきかない風の砲台と化した魔女を前に、岸に上がった男達が次々血相を変えて逃げていく。
その間に、追われていた老女の姿も川辺の茂みの向こうに消えていた。
……彼女もまた、風の魔物と化したピエドラから逃げ去るように顔をひきつらせ早足で。
風がおさまったのは、ピエドラがそこまでのことを視界に入れてからだった。
「そ、そんなに恐がらなくていいのに……」
……まあ確かにこんな暴走魔術使いが森から出てきたら逃げるけども。
これでは本物の化け物として、明日からこの辺りで懸賞金をかけられてしまいそうだ。
まあ元から追われる身だし今さらいいけど……。
はあーと息をつき体を折りながら、魔女はやっと落ち着いてその場の景色を見据える。
川の中には、粉々になった小舟の残骸が。穏やかな波に乗って下流へと流されていくのが見えた。
ストンと、その場に座り込んで自然と頭が天を仰ぐ。
魔女として追われていた老女は逃げた。
魔女を追っていた男達は村へと帰っていった。
魔女狩りは、止まった。
「……」
さえずる鳥の声が、それをやっと感受できる聴覚が告げる。一つの窮地が去ったことを。
魔女狩りの取り止めは一時的なことに過ぎないだろう。しかしこれが、ピエドラにできる精一杯だ。
後はあの老女がここからうまく逃げてくれることを祈るしかない。
魔女は一人、森の木の影で己の手を見つめていた。
あらゆる意味で愕然としていた。
杖に結ばれた龍の飾りが、座り込むピエドラを静かに見守っている。
風の魔術が、『帰ってきた』。
そんな、得体も知れないが確かな感覚が指先まで突き抜ける。
他の魔術は多分まだへっぽこのままだ。帰ってきたのは風の魔術だけ。
どこか冷静な頭の片隅で、それも確かに分かっている。
……それでも、
「魔術が使える。あたしまだ……」
思わずその感覚に浸りそうになって、しかしピエドラはすぐにその場から立ち上がった。
こうしている場合ではない。
魔女狩りは去ったが、悪魔城にはソルが、今も何をされるか分からない状態で囚われているのだ。
ピエドラは岸伝いに、森をかき分けより川の下流へと進んでいく。
あの魔術師の青年の言う通りなら、この先に悪魔の城があるはずだ。
……川辺から風が渡る。
徐々に夕暮れに近づく空も、森の緑も、いつもより色を感じるようで。
一つ魔術が戻ってきただけだ。
それでもその魔女を、前へ進むピエドラを、東へと流れる白雲が見下ろしている。
不安定といえど、風の魔術が使えるようになったのはやはり心強い。
改めて、マイテの婚約相手であるあの商人に感謝せねば。
この小さな龍のお守りに、こんな絶大な効果が秘められているとは思わなかった。
きっとピエドラの魔力を何倍にも増幅して、風の魔術を使わせてくれているのだろう。
これさえあれば、もしかするとこのへっぽこ魔女にも、何かソルを救う手立てがあるかも知れない。
――そんな、わずかな希望に足を速める魔女の前に現れた、噂の悪魔城は。
「……聞いてないわよ」
開けた木々の隙間からその姿を見た、ピエドラの顔がひきつる。
今まで沿って歩いてきた茶色い川が流れ込む、広大な内海。
その断崖絶壁をまるごと支配するような巨大な城の登場に、魔女はただ言葉を失うばかりだった。
ドタドタと、部屋の外に聞き覚えのある足音が響く。
いつもより慌てた様子のそれに、金髪の小男は何事かと酒瓶から顔を上げた。
「ニーノ、大変だよ!」
程なくしてしきりのカーテンを突き抜けんばかりの勢いで現れた大男は、息を切らしながら金髪の男に向かって叫ぶ。
金髪の男はその様子に呆れたようにため息をついた。
「どうした、オッソ。お前みたいなのが走ると床が抜けるだろ」
「だ、だって……」
「お前には旦那のご案内を任せただろう? 何で帰ってきた? せっかく王都からお越しなんだから、旦那には『商品』をじっくり見てもらわないと……」
「それが……その『商品』なんだけど……」
「なんだよ、はっきり言え」
「お、女が逃げたんだ! それも四人も!」
「何!?」
面倒臭そうだった顔を一気に怒りと焦りでいっぱいにしながら、小男はグラスをテーブルに叩きつける。
「ふざけるな! この間も一人女を逃がしてただろ!」
額に青筋を浮かべる小男に、オッソはその大きな体を縮めて、さらに言いにくそうに続けた。
「それでその……逃げた女ってのが、その……」
「何だよ、はっきり言えって!」
「……逃げた四人の女の中に、例の魔力の強い女の子もいるんだ」
バキーンと、小男の持つグラスがその握力で砕け散った。ひいと、オッソがさらに身を縮める。
「旦那はその小娘をご所望なんだぞ? 今すぐ探せ! 草の根分けても探し出せ!!」
城中に響き渡るようなその声に、大男はその任を遂行するため、急いでその場を走り去る。
憤慨を吐き出すようなため息とともに、小男は肩を怒らせ掛けていた椅子の回りを行ったり来たり歩き回り始めた。
そして一つ舌打ちすると、テーブルの上に置かれていた青い表紙の魔導書をつかみ、自らも部屋の外へと出ていく。
……その様子を部屋のすみで見ていた青い精霊は、
『聖典がなくとも自らの力で難を突破するか。そしてソル、それはお主だけでなく……』
小男には決して聞こえぬ声で、一人呟く。
そしてこの部屋の向こう。否、それよりずっと先から輝きを伝え始めた魔力の波動に瞳を伏せた。
『――難を越え、運命の魔術師たちはここに引き合わされる。お互い引き合い、しかしそうとは決して気付かずに』
「さてと」
掲げていた杖をかつんと船底につき、魔術師は軽やかに小舟を飛び降りた。
ぴちゃんと、舟を岸につけたときに出来た浅い水たまりを長靴が踏む。
それと同時に、黒く水を張るその水路に大きな波紋が生まれた。
バシャンと盛大に飛沫を上げながら、一人の男が水の中へと吸い込まれていく。
その男と入れ違いのように岸に降り立ち、それでもまるで何事もなかったかのように、魔術師はただ静かに己の行く道だけを確認していた。
洞窟のように岩肌を露出させた濡れた壁。そこにゆらゆらとわずかな日光を反射する潮の臭いの水の道。
頭からその水路の中へ沈んでいく男の側には、旅人を運ぶ役目を終えた小舟がギシギシと波に揺られている。
ここがまだ塞がれていなくて本当によかった。せっかく舟で来たのに、通れなかったらどうしようかと思っていた。
横穴の外から差す太陽に背を向け、魔術師は水路の奥、その出口の方へと足を向ける。
彼の足下には、水路に突っ込んだ男の他に、三人ほどガタイのいい男達が倒れていた。
そして、
「ごめん。そこを通して欲しいんだ」
「ひい……!」
魔術師が今まさに歩を進めようとしている場所で、ことの一部始終を眺めていた男が震えながら声を漏らす。
腰を抜かす直前まで所持していたであろう短刀を湿った地べたに落とし、肩をガクガク震わせながら恐慌状態で魔術師の姿を見上げていた。
魔術師の長靴が一歩自分へと近付くごとに弱々しく後ずさり、そしてとうとう悲鳴を上げながら、彼は水路の奥へと一目散に逃げていく。
ああちょっと、そんなに怯えることないのになあ……と、魔術師――レオナルドはローブを着た肩をすくめた。
眉を下げた困り顔で、しかし唇にはうっすら笑みを浮かべて。
「色々と聞きたいことがあったのに。まあいいか」
呟く彼の後ろに倒れた男達は、笑顔の侵入者に対してもはや指一本動かすこともない。
その衣服からは、いまだにプスプスと黒い煙が上がり続けている。
内海から断崖絶壁の古城へと直接つながる、天然の横穴を利用した水路。
その静けさの中に響くのは、今やここに一人立っている魔術師の声だけだ。
だからこそ、
「ずいぶん城を荒らしてくれたようだし、名残惜しいけどここも潰してしまうか……」
不穏な呟きを、止められる者はもうここにはいない。
魔術師が掲げる杖の先に、オレンジ色の光が灯る。
小さくて、しかし周りの空気を一瞬で歪めるほどの熱を放つ光の球が、徐々に徐々に大きく膨らんでいく。
「さっきの彼が伝えてくれるかも知れないけど、せっかくお邪魔するんだし、俺も来訪を知らせておこうかな」
こつんと、杖が濡れた地面を叩いた。
オレンジ色が彼の背後を染め上げる。
その光の炸裂に、水路は一瞬で押し潰され、天井から跡形もなく崩れていった。




