第12話 蝶と出会い
ガシャンッと、薄いガラスの砕ける音が辺りに響き渡る。
赤い絨毯の上に、さらに深紅の液体が流れ染みていった。
「かあっ! やっぱり年代物はカビ臭くてダメだな。ワインはやっぱり北部の赤の新物に限るぜ」
ワイングラスを床に叩きつけた男は、そう言いながら腰掛ける椅子の上にふんぞり返る。
男の前には、細かい装飾を施された椅子が等間隔に並ぶ長いテーブルが。
それに靴を履いたまま足をかける彼はかなり小柄な体格で、しかし自分の背よりもはるかに長いローブを肩に引っ掛け、椅子から余った部分を豪快に下に広げていた。
窓はすべて閉めきられ、明かりは燭台に灯された蝋燭だけ。この城の中でも中程度の広さのこの部屋は、湿った空気と薄闇に満たされている。
部屋のあちこちに厚手のカーテンがかかって仕切りの役を果たし、男の座るテーブルの上座の後ろの壁も、床に余るほどの深紅のカーテンで覆われていた。
豪奢な部屋の薄闇に、蝋燭に照らされてほのかに浮かび上がる壁の絵は肖像画と思われるが、すべて額に入ったまま顔の部分が鋭く切り裂かれている。
冷気と瘴気がたれ込めるその部屋で、しかし男は頭の後ろで腕を組み、つまらなそうにため息をついた。
額の中程で一直線に切りそろえられた前髪が揺れる。後ろ髪も襟足付近で切りそろえられ、彼の頭は金色のおかっぱ状態になっていた。
グラスと同じくワインのボトルも床に転がしながら、金のおかっぱ男は同じ卓についていたある人物に向けて言葉を放つ。
「おい、オッソ。今度連れてきた女はどんな感じだ? あんまり魔力の弱い女ばっかだと、旦那もさすがにブチ切れるぜ?」
「一人とんでもないのがいるよ。ありゃあ高く売れるぜ」
答えた男は、それはもう背が高く大柄で、椅子の背もたれから大幅に肩が飛び出し、椅子に座りきれずに余ったその足は、卓の下にだらりと投げ出されていた。
しかし彼も魔術に通じる者なのかそれらしいローブを身に付け、頭は灰色のフードに覆われている。
「この辺りの女もあらかた集め終わったな。もうカスみたいな魔力の女しか残っちゃいねえ。それでも貴族どもは、魔力が欲しいと喜んでその女を買うんだから……」
ぶつぶつ呟くおかっぱの男は、髪を横に流しながら気だるげに卓に肘をつく。
しかしオッソなる大男が腕の中に大事そうに抱えているある本に目を留めると、その首をかしげた。
「何だ、そのでかい本?」
「そのとんでもない魔力の女の子が持ってた魔導書。牢番が取り上げたんだ」
おかっぱの男にその本を差し出しながら、オッソは答える。
「古い魔導書だな。その娘が盗んだのか? 盗むにしてももうちょっと良さそうな魔導書を盗めよな」
「でも杖よりは使えるよ。ニーノが要らないなら俺がもらっていい?」
その言葉に、ニーノと呼ばれたおかっぱ男は改めて魔導書に目をやる。そしてオッソなる大男から魔導書をぶんどった。
「お前の頭じゃ使いこなすのは無理だ。……へえ、なかなか使えそうな呪文が載ってるじゃないか」
無遠慮にペラペラとページをめくったと思うと、ばたんと本を閉じる。
そしてニヤつきながらその魔導書を片手に掲げた。
「気に入った。この本俺が使ってやる」
「魔女だ! 魔女を見つけたぞ!」
ピエドラの集中を乱すその声は、閑散とした村の通りに落ちた雷のようだった。
ピシリと、その瞬間に体が固まってしまっていた。
その男の声に続いて、静かだった村に次々と声は現れる。
「魔女がいた! ようやく見つけた!」
「やつめ、手こずらせやがって」
「おい、みんな武器を取ってこい! 追い詰めるぞ!」
そして並ぶ家並みの向こうに、村人らしき男達の集団が歩いてくるのが見えた。
彼らを迎えるように家々の扉が開き、中から次々とこの村の住人達が姿を現す。
ピエドラは急いで一番近くの家の影に隠れた。
足音が近付いてくる。
息を潜めるピエドラのもとへ、彼らの方から続けて漏れ聞こえてくる会話は……。
「で、魔女はどこにいたんだ?」
「村外れの川辺にいたんだ」
「城の方まで行く前に捕まえなくちゃ……」
「何日も何日も、よく逃げ回ってくれたな」
どうやら彼らの言う魔女とはピエドラのことではなさそうだ。
しかしその一言一言に鼓動がはね上がる。
思わず胸を押さえた。
杖を持つ手が震え、膝が鳴る。まるで自分があの声の真ん中にいるように。
「急げ! 舟を出すぞ! 日が落ちる前に捕まえろ!」
家の影からのぞき見れば、男達は通りに集結し、各々武器や農具を手に気勢を上げているところだった。
魔女狩り……。
すでに何日か逃げ続けて弱った女を、彼らはこれから村人総出で狩りにいくのだ。
はやる胸を押さえて、深く息を吸い込む。
……行ったところで何もできない。むしろ村中の男達が出ていくなら、今の内に村を通り過ぎた方がいい。
しかし……。
「何なの……あたしは」
杖で体を支えながら、その場に座り込みそうになる。
人一人助けることにこんなに躊躇って、恐くて人里を歩くこともできない。
しかしそうやって地面に視線を落として胸を押さえていると、
「お、おい、誰だ!?」
隠れていた家の壁の、反対の方から熊手を持った男が現れる。
そしてそこに隠れていた魔女を見つけた。
しまった……。
息を飲んだピエドラは、畑を越え、急いで村を囲む森の中へ逃げ込む。
そして戻る道など考えず、ただ前へ。前へと走った。
暗い森の中を、木の根に足をとられ、茂みに体当たりしながら、一心不乱に逃げていく。
これでは今魔女狩りにあっている女と同じだ。……いや、同じなのだ。
太い幹に背を預け、ぜえぜえと息を吐く。杖を握る手は汗を握っているが、同時に青白く冷えきっていた。
大丈夫だ。誰も追ってきていない。
確かめてようやく膝を折る。
しかしどこまで逃げてきてしまったのか。
ずいぶん森の奥まで入り込んでしまった。
木は高く、その葉は隙間なく茂り、太陽の光が届かないほど森は深まっていた。
このままここにいたら帰り道が分からなくなるかも知れない。
早く村まで戻らなければ……。
しかし戻れば向き合わなければならない現実が待っている。
木の幹に寄りかかって、枝葉に覆われて暗い天を仰ぐ。
これではソルのもとへ行くどころではない。
あれくらいのことに心を乱される人間に、魔力の流れを追うなんて高等なことが出来るわけもない。
……考えが甘かったのだ。
湿った地面に膝をついて、大きく息を吐く。先ほど杖に結んだ、銀色の龍の飾りがすぐ頭の横にぶら下がっていた。
マイテと、その婚約者の商隊長……。二人の手を借りておいて、ここが詰みか?
やはりこの身は、一生狩りの獲物でしかないのか?
……そんな魔女の耳に、ふと聞こえてきたのは。
「あたしはねえ、氷の魔術が使えるようになりたい」
「氷? やっぱり雷の魔術の方がかっこいいだろ」
「じゃあ、おれも魔術師になれる? 練習したらなれる?」
子どもの声……?
それも一人ではない。複数の子どもが楽しそうに話している。
そして、
「ああ。きっとなれるよ」
彼らに答える、大人の男の声。
優しく落ち着いた声が、森の静寂に溶けていく。
体を起こし、思わずその方向へ足を運んでいた。
茂みをかき分けた魔女の行く少し先。高い木々の隙間から、そこだけ太陽が注いでいる場所があった。
草むらの中に忽然と現れた、蔦の這う古いレンガ塀。
四方の壁だけ残った廃屋といった感じだ。
声がするのはその内側からだった。
「じゃあいつかおれが魔術師になったら、対戦してくれよ!?」
「うん。もちろん」
声は聞こえ続けている。
よく見れば、壁のレンガが一つ抜けて穴が開いていた。魔女はそこからそっと中をのぞく。
草が茂った廃屋の中に注ぐ木漏れ日。その中で、十人ほどの子どもと、一人の大人が輪になって座っていた。
子どもの歳はバラバラで、女の子も男の子もいる。
皆で壁の中に咲く花を摘んでいるのか、花輪を編みながら楽しそうにおしゃべりしていた。
……おしゃべりしているというか、真ん中にいる大人――ローブを着た端正な顔立ちの青年が、子ども達に何かを語っているのか。
花を摘みながら、子ども達は一心に彼の言葉に耳を傾けているようだった。
「いつか、君たちはこの壁を越えて羽ばたくんだ。いつの日か必ず……」
木漏れ日に光を照り返す、黒のローブ。
イクリプスの追っ手と同じ黒い色に一瞬緊張が走る。
しかしこんな所で子どもに囲まれているし、それにどうやら彼は魔術師らしい。自分の肩に一本、磨き上げられた大きな杖を寄りかからせていた。
太陽の光のもと、発光するように波打つ髪を右肩の方に流して束ね、目元に影を落とすほど長いまつ毛。
その下の瞳をわずかに細めながら子ども達を見渡す様は、どこか神聖な空気さえ感じさせて。
……この暗い森の中で、そこだけまるでこの世界と切り離されているようだった。
森に下り立った妖精のような容姿の魔術師と、それを囲む子ども達……すべてが淡く幻想的な光に包まれている。
だからすぐに、魔女はその場で逡巡した。
これはこのままここで盗み見していい光景なのだろうか。
迷いながら踵を返そうとしていると、続けて会話が聞こえてきた。
「よーし、じゃあおれが魔術師になったら、絶対レオンを倒してやる!」
「あんたにそんなことできるの? レオン超強いじゃん」
「だ、大丈夫だよ。おれも強くなるもん……」
「ふふっ、その日を楽しみにしてるよ」
ふと、話を盗み聞く魔女の目の前で、小さな青い光が飛んだ。陽光に照らされた青い蝶だ。
蝶はそのままヒラヒラと、壁の穴を通って子ども達と青年の方へと飛んでいく。
その蝶だけではない。よく見れば青い蝶は、壁の中にいる彼らの周りに何匹も何匹も、青い鱗粉を落としながら優雅に飛んでいる。
青年のローブの肩に一匹、蝶が止まった。
そして子ども達の頭や肩にも、蝶は青い翅を閉じ、静かに体を預けていく。
しかし壁の中の者達はそれをまったく気にする様子もなく、会話を続けていた。
「……でもレオン、あたし達が魔術師になるのは難しいんでしょ? 女の子や平民は魔術師にはなれないって、みんなが言ってるよ」
「来る新しい時代にはそんなことはないさ。みんなが平等に魔術師になれるチャンスがある。生まれがどこでも、貧しくても、男女どちらに生まれても……」
そこで青年は一度言葉を切る。そして、
「……これから来るんだ。魔術の世界に夜明けが来る」
呟きながら天を仰ぎ見る彼に、柔らかく木漏れ日が注いだ。
一体何の話をしているのか。
何にせよ、これ以上立ち聞きするのは野暮だ。
その場から離れようと、魔女は壁から体を離す。
しかしその瞬間、すぐそばから何者かの視線を感じた。
……壁の隙間からこちら側へ回り込んだ子どもが、こっちを見ていた。
「あ! 魔女だ!」
「ギクッ」
「魔女がおれ達の会話を盗み聞きしている!」
壁の中の面々が一斉にこっちを向く。驚いた蝶が、彼らの肩から飛び去っていった。
子どもの輪の真ん中の青年も不思議そうに呟く。
「魔女?」
そしてその声に続くように、まさに興味津々といった様子で、子ども達は次々とこちら側へ回り込んできた。
「ホントだ、魔女だー」
「どうする、レオン? こいつおれ達の秘密の集会を聞いてたぜ!」
「自警団の回し者かもよ!」
その言葉に、大人げなくピエドラは首をブンブン振った。
「違う! 聞いてない! あたしはたまたまここを通りかかっただけ!」
「ひどい言い訳だな! どうやったらこんな所に通りかかるんだ」
そりゃそうだ。ほんとは話も聞いてたし。
子ども達に囲まれ、逃げようにも逃げられずあたふたするばかりの魔女の前に、子ども達の後ろからゆっくりと例の魔術師風の青年も姿を現す。
子ども達よりはるかに高い場所から、こちらへ視線が投げかけられた。
ピエドラも改めて、彼と正面から顔を合わせる。
歳の頃はピエドラと同じくらいか。細身だが筋肉質の長身で、淡い色の髪はさらさらと長く。
そして黒いローブの下は、長いジレの上からベルトを締めサッシュを巻いた旅姿。
野盗を恐れていないのか、ローブを含め全体的にこの辺りの住人より質のいい服を着ている。
左手で杖を持ち、右手には先程子ども達が編んでいた花輪が何本か引っ掛かっていた。
ピエドラに魔術師の格など分かりようもないが、それでも相当いい仕事に就いている魔術師だと分かる。明らかに貴族か軍人、あるいは成功した商家の者だ。
そして何より、初対面の人間の顔を見てこれ程びっくりしてしまったのは初めてだった。
その美しい面に対してもそうだが、何よりこちらに向いた彼の目に。
青年の瞳はまるで、空気が澄んだ日の夜空のような深い藍色をしていた。それこそ銀河を戴く明るい星空のような……。
さらに驚くことに、
「こんにちは、魔術師」
青年は微笑み、形のいい唇がそう囁く。
「魔術師……? あたしのこと?」
「……? 違った?」
純朴な瞳で問われて魔女はさらに戸惑った。
青年もピエドラも、お互いハテナ顔で首をかしげ合う。
彼が首をかしげると、そのふわりとした髪も一緒に横に流れた。
その目線が自分の持っている杖に向いていることに気付いて、魔女は慌ててそれを自分の背に隠す。
なるほど。彼は杖を見てピエドラを魔術師判定したらしい。
それは間違いだと魔女は訂正しかけて。
しかしそんなピエドラの目はすぐに青年の後ろの方に向けられていた。
そこでは一人、小さな女の子が青年の影に隠れて震えていた。
青年も気付いたのか、膝を曲げてその子に尋ねる。
「どうしたんだい、ネバ?」
「その女の人、お城から逃げてきたんでしょう?」
「え?」
か細い少女の言葉に、魔女も青年も同時に口を開いていた。




