05-06 バタフライ効果、なんて言葉があるけど
二つの世界の違いに霧島榛名の存在の有無があった。本人を目の前に、磯野はその事実を口にするか迷う。
榛名からしてみれば、得体のしれない並行世界の話だろう。
それでも、その世界で存在すらしていないなんて言われれば、すくなくとも気分の良いものではないはずだ。
「どうしたんですか?」
話題が変わって九死に一生を得たちばちゃんが、無意識か、それとも狙ってかはわからないが、最高にあざとい上目遣いで俺の顔を覗き込んできた。……なんだ、この破壊力のあるやつは。仕返しか? さっきの仕返しなのか?
「磯野、もしかして映研の世界に榛名はいないのかい?」
正解を言い当てた千尋の言葉に、霧島姉妹はたがいの顔を見合わせた。
「たしかに、磯野の話の中に榛名の話はなかったが……そうなのか?」
「はい。千尋の言うとおりです」
「サークルに所属してないってことではなく?」
「はい。存在自体……」
うーんと首をかしげる柳井さんにかわり、千代田怜が問いかける。
「むこうのちばちゃん本人から聞いたの?」
「いや、「もう一人の俺」が取り乱したときに、榛名のことを訊いたらしい。そこで、映研世界のちばちゃんが一人っ子だとわかったそうだ」
「行方不明とか以前の話なんだね」
当の榛名の様子を見ると、
「すげーな! 映研世界だとわたしいないのかよ。ヤバイな! SFだな!」
俺の心配は杞憂だったらしい。
「榛名……あんたねえ」
……まあ俺としては安心したのでよし。
榛名からしてみれば、文字が浮かび上がるという超常現象を間近で見たとはいえ、本当にあるのかどうかすらわからない並行世界の話。
それでも、自分が存在していないなんて言われれば、誰だって気分の良いものではない。死だって予感してしまうだろう。そんな不吉な話を、他人事のように面白がれる霧島榛名の神経の図太さに、俺は素直に感心した。
「それより千葉と二人っきりになったんだろ? チャンスだったじゃん」
「チャンス?」
「どうにでも出来るだろう、千葉なら」
「言っている意味がわからん」
「だからさ、その大学ノートを手に入れたいんだろ?」
「いや、どうとでもってどうするんだよ」
「例えば強引に押し倒すとか」
「もうお姉ちゃん!」
前言撤回。こいつはただの無神経だ。しかも中身おっさんだろ。
「磯野は島田兵並に踏み込みが足りん。落下から助けてやったシチュを強調すれば、千葉は基本的にちょろいし簡単に堕ちるぞ」
落下だけに、とオヤジギャグをかます霧島姉。
……それが言いたかっただけだろおまえは。
そんなツッコミはさておき、霧島妹は本気で怒り出した。
「お姉ちゃん! わたしちょろくなんかないもん! ちょろくなんかないもん!」
可愛らしい抗議にも関わらず、ちばちゃんは本気のようだ。
「落ち着けよ。並行世界なんて夢みたいなもんじゃん」
「夢じゃないし!」
姉妹喧嘩を横目に、俺と柳井さんはため息をついた。
千代田怜はなにごともなかったようにアイスコーヒーの残りを飲んだ。
興味のあるもの以外は気にもかけない竹内千尋は、姉妹喧嘩のことなどお構いなしに、天の川銀河のように輝く瞳を俺に向けてきた。
「ところで磯野、そのもう一つの世界――映研世界と僕たちの世界との違うところって、ほかにあったりする?」
「……えーと、サークルの違いと榛名の有無。……あとは俺のいままでの交友関係が少し違うくらいかな。だけど、調べてみたらほかにもいろいろと出てくるとは思う」
「やっぱり違いは微妙なんだね。バタフライ効果、なんて言葉があるけど、いま磯野の挙げた部室の違いや榛名の存在自体の有無って、世界的に見ればすごい影響力になるはずなんだ」
柳井さんが「なるほど」とうなずいた。
「いわゆるバタフライ効果は、言葉通り「蝶の羽ばたき一つがどこかで竜巻が起こるくらいの影響を与える」ってことだ。それがましてや人一人の存在が消えるなんてことがあれば、カオス理論的にこの大学含めた周囲の状況だって相当変わっていてもおかしくはないのだが……。オカ研が映研になっているというのも、榛名が存在しないことから起こったバタフライ効果の結果なのだろうが、それ以外は話を聞く限りたいした違いはなさそうだしな」
「原因と結果の連続性を考えると、榛名の存在の有無という大きな違いがあるのに、この二つの世界の共通点の多さはとても不自然な気がします。この二つの世界は、例えば榛名の有無という選択肢から分岐されたとしても、共通点となっているのは全然別の原因が元になっているんじゃないかと。それが偶然、パズルがハマったかのように一致しているというか。世界が似ているからといって、ものごとの分岐的にはお互いが近いとは限らない。本来はお互いとても遠い場所にあった世界……宇宙のような気がするんですよね」
「並行世界、レベル3マルチバース。多元宇宙論だな」
勝手に盛り上がる柳井さんと千尋のやり取りが俺には理解できない領域に踏み込んできた。マルチバース? 多元宇宙論? なんのこっちゃ。
「なるほど」
「磯野、あんたちゃんとわかってんの?」
なんだ、怜は理解できているのか?
「まったくわからん」
「わたしも」
なんだよおまえもかよ。
「ほかにも丘の上にある駅とか、チューブ状の高架とか気になることが山ほどあるのだが……まあ、話を戻してちばちゃん対策だな」
「助かります。このままだと、次に映研側のちばちゃんと二人きりになれるチャンスなんていつになるかわかりませんし」
「それなら映研の世界でも味方を作ればいいんじゃないの?」
「え」
「だから、今日ここでやったみたいに、大学ノートに書き込んで文字を浮かびあがらせれば、って……それって、」
怜は言葉を止めた。
俺も気づいた。
柳井さんも竹内千尋も。
「ちばちゃんの……大学ノート」
映研のちばちゃんが持っていた薄汚れた大学ノート、あれは今日俺たちが目の当たりにした超常現象、
――並行世界からの通信が書かれているんじゃないか?





