24-03 ……詰んだんだろうな
人型の輪郭が、逆光となって俺の視界を黒く覆っていた。小銃の銃口が俺に向いているのがわかる。撃つなら撃て。そのまま引き金を引いてしまえ。生存世界への収束を引き起こして、俺たちをこの場所とは別の世界へ吹き飛ばしてくれ。
目の前の兵士は微動だにしなかった。数秒の時が流れた。互いに銃口を突きつけ合うなか、俺のひたいから汗が流れ落ちる。俺を見つめているであろう相手の瞳は、月明かりを背にしてはっきりとは見えなかった。それでも、眼球がくり抜かれたかのような、グロテスクな虚さをまとった視線を俺は感じた。この感覚に身に覚えがあることに気づいた。
突如、男の頭の左側がいびつに膨れ上がり破裂した。頭部に詰まった肉と骨の弾け飛ぶ粘着質な音が、わずがに遅れて俺の耳に届く。俺は反射的に地面に伏せた。他の兵士たちの散開する足音と発砲音が混ざりあたりに響いた。俺はこみあげてくる吐き気を抑えながら、榛名のいる茂みのなかへ這った。
目の前で撃たれた兵士、あれは富士ジオフロント脳科学研究所にいたクローン人間だった。ISOが制御する真柄の兵隊蟻部隊がなんでこんなところにいるんだ? ともかく狙撃してきた相手はソ連兵ということになる。
俺は戦場をを背にして、榛名を抱えて走り出した。追跡から逃れるためにも、いまのうちにすこしでも遠くへ離れなければならない。行く手をふさぐ茂みを肩で退けながら走る。銃撃音が草木に遮られて急速にくぐもっていく。あのとき兵士が俺を撃たなかったのも、あの虚な目を通して観ていたISOの意志だったのだろうか。やみくもに走りつづけて俺は息が上がってしまった。俺は根をあげて榛名を抱えたまま倒れ込んでしまう。心臓の鼓動と肺に空気を送り込もうとする呼吸音が、騒がしく俺の聴覚を埋めた。
仰向けになると、月あかりの夜空があった。無数の星が、弧を描いて地平線の両端まで届いていた。夜空を何層にも隔たせるバームクーヘンのようだった。夏草の青臭さが鼻先を撫でる。となりに横たわる榛名の手にそっと触れた。彼女はすでに冷たかった。ああ、わかっていたというのに、なぜ彼女に触れてしまったんだろう。こころが急速に沈んでいく。
これからどうすればいい? どこかで正しいルートを踏み外してしまったのだろう。行き着くところまで行き着いてしまったと自覚した。
「……詰んだんだろうな」
限界だった。目と耳を塞いで、すべてのものごとを頭のなかから締め出したくなった。このまましばらく時間が経てば、俺はまた立ち上がれるのかもしれない。もがけるのかもしれない。けれど、いまはダメだった。
しばらくの時が流れたのだろう。身体を左に転がして、榛名をほうへ向けた。月明かりに照らされた彼女は、まるで妖精によって長い眠りにつかされてしまったかのように美しかった。
俺は肘を使ってゆっくりと起き上がった。小さな砂利があたる痛みがあった。手をついて立ちあがろうとしたところで、違和感に気づいた。俺はあたりを見渡すと、ひどく削り取られたアスファルトがひろがっていた。倒れ込んだときは草原だったはずだ。それがいまは駐車場のような空間に俺たちはいる。
強い光が俺たちを照らした。振り返ると目を潰す二つの光源が、俺たちに向けられていた。バタンというドアの閉じる音がして、数人の足音がそのあとにつづいた。俺は逃げられもしないまま、右手を掲げて光から目を守った。発せられる光のさきからアイドリング音が響いている。
光源をさえぎり、逆光となった三人の人影が近づいてくる。そのうちの一人は拳銃を構えていたが、途中で腰におさめた。敵ではない? 俺はわずかに気が弛んだが、拳銃を引き抜くことすらしていなかった自分自身の前後不覚さに呆れてしまう。
「磯野!」
聞き覚えのある声だった。近づいてきたその顔はぐちゃぐちゃに泣き腫らしていた。彼女はひざを落とし、両腕で俺を抱きしめる。俺の耳もとで、「生きててよかった」と喉からしぼりだした声が響く。千代田怜だった。
ロングワゴンの運転席には三馬さん、後部座席には霧島千葉がいた。
荷室には遺体が入る大きさのカプセル型のケースがあった。柳井さんと千代田怜と千尋の三人は手際よく榛名をケースにおさめた。俺は思考が追いつかないまま、怜に後部座席の千葉の向かいに座らされた。怜は俺の様子をわずかにみたあと運転席に移った。助手席に三馬さん、後部座席に柳井さんと千尋が乗り込み、車を発進させた。
俺は榛名の杖と、もう一人の榛名が落としたキャスケット帽を抱えて、カプセルに目を落とす。たびかさなるタイムスリップがあった。そのさきに待ち構えていたかのようにみんながいた。これもZOEの見通していた未来なのだろうか。霧島榛名の死は、あらかじめ予測されていたものだったのかもしれない。それとも、最悪の事態に備えていただけなのだろうか。
「磯野たちを見つけられてよかった」
竹内千尋はつぶやく。俺はなにも答えられないまま運転席を見ると、千代田怜はバックミラー越しに見ていた俺への視線を逸らした。質問したいことは山ほどあった。けれどなにから訊けばいいのかがわからない。それに、とても疲れた。いまはただ眠りたかった。榛名をはさんで向かいにいる霧島千葉と目が合った。千葉は彼女の姉が浮かべるような、弱弱しくてとてもやさしい微笑みを俺に向けた。そして小さくうなずいた。彼女の同意に身を委ねるように、俺は眠りに落ちた。
シーツのこまやかな肌ざわりに俺は体を沈ませていた。目蓋をひらくと、暗がりのなかに白い天井があった。個室らしい。俺はベッドに寝かされているのだとわかった。部屋に漂う木材の匂いが俺の鼻をかすめて、やすらかな空間に身を委ねているのだとわかると、わずがにあった緊張がほどけた。俺は既視感を抱いた。それがなんであるのかすぐにわかった。富士ジオフロント脳科学研究所からの脱出後にかくまわれた、セーフハウスのときとおなじものだった。
ベッドの左にある窓へ目をうつすと、厚手のカーテンに遮られた夏の日差しがわずかにもれていた。午後をすこし過ぎているのだろうか。陽が昇ってしばらく経っているらしい。何時間眠っていたのだろう。昨晩の記憶がすこしずつ呼び覚まされていく。たちの悪い悪夢であってほしかった。
右手に、誰かの手がかさねられていることに気づく。
「榛名?」
俺は触れている手のさきへ目を滑らせた。そこには警察官の制服のままの千代田怜が、椅子にもたれかかったまま眠り込んでいた。
「……ごめんな」
俺は怜の手からそっと自分の手を抜き出した。俺は起き上がると、昨日着ていたのとはちがうシャツを着ていた。怜の顔を見ると、頬に泣いたような跡があった。こいつをベッドに寝かせてやろうかと迷ったが、拍子に彼女を起こしてしまうことをおそれて、ベッドの掛け布団を肩にかけるだけにした。
「……ううん」
どうやら彼女の目を覚まさせずにすんだらしい。
俺は半開きになっていたドアをしずかに閉めて部屋を出た。廊下にある窓から外を覗くと森が広がっていた。そのまま吹き抜けの階段をおりると正面に玄関があり、左右それぞれに部屋があった。あのとき滞在したセーフハウスとあまりにおなじだった。もし本当にあの洋館だとしたら、俺はいま山梨県にいるのだろうか。
俺はG-SHOCKを見た。八月二〇日。一四時四七分。榛名の死から十二時間以上経過していた。タイムスリップなのだろうか。もしちがうなら、道北から山梨までを十二時間のあいだに移動してきたことになる。
「磯野、起きたのか」
声のほうへ振り向くと、柳井さんが左の部屋から顔を出していた。
柳井さんのいる部屋は、ライナスとはじめて出会ったのとおなじ客間だった。中央にあるテーブルを挟んだ二つのソファには、三馬さんと竹内千尋、向かいに霧島千葉が座っていた。
「体調はどうかね」
テーブルに広げている地図から目を離した三馬さんが声をかけてきた。
「ここはどこなんですか?」
「そうだな、道北にいたはずのきみがなぜここにいるのか疑問に思うだろう」
「山梨県なんですね?」
三馬さんはうなずいた。
「現状について説明しよう。ただまずはシャワーを浴びてくるといい。昼食をとる時間もまだある」
「時間がある?」
「磯野君、きみからみた我われの世界は、きみがいた時間軸から大幅に外れた位置にある」
「外れた位置?」
「昨晩きみが体験したのは時間遡行、すなわちタイムスリップだ。現在、この世界の状況は
熱力学の第二法則が当てはまらない状態にある」
「原因と結果の関係である因果律から外れはじめているってことだ」
柳井さんが口を挟んだ。
「過去から未来へと進む時間が断片化されて、時間の前後など構わずに出鱈目に結びつこうとしている。ただし、そのようなタイムスリップを伴った世界線の遷移を行えるのは、いまのところ磯野君と霧島榛名さんの二人だけだ。しかしこのまま事態が悪化すれば、いずれこの世界の人びともまた、無秩序にタイムスリップを繰り返すことになる」
「榛名……榛名はいまどこに」
「落ち着きたまえ。彼女は奥の部屋だ。体の腐食が進まないように生体保管装置に入れて大切に保管している」





