23-07 ごめん。きみを置いていく
「はい。周回軌道へと打ちあがり目標地点への落下まで、残り八分の猶予があります」
俺は口の端についた胃酸が混ざった唾液を手の甲で拭き取って、身体を起こした。さっき見た光景は、いまはどうだっていい。まだハルたちを助けるチャンスがあるんだ。いまはそのことだけに集中しろ。
足を止めていた隊員たちは、警戒態勢で換気立坑へと進みはじめた。まえの世界線よりも二名少ないと俺は気づく。
「磯野君、なにがあった?」
「ロケット発射前に管制室まで順調にたどり着いたあと、世界線の横断が起こりました。そして、HALが――」
言葉にしようとしたとき、彼女の死にざまが脳裏に浮かんで、吐き気をもよおしてしまう。HAL05は名前を呼ばれて俺に振り返った。
「わたしたちは、管制室に閉じ込められるかたちになって、ソ連兵たちに追い詰められました」
榛名がそう補足した。
佐々木さんはうなずき「そうか」とひとことうなずいた。
六名の隊員たちは、換気立坑へと向かう通路を進んでいく。
なんであれ一度目の生存世界の収束は引き起こせた。あと一度引き起こす必要があることを覚悟して進まなければならない。
換気立坑へと入る。
空間に変化は無く、筒状の立体空間が広がっていた。一〇〇メートルはあるであろう高さにある天井を見上げると、あいかわらず星空が覗いていた。隊員の一人が口を開く。
「通信回復します」
「真柄だ。米海兵隊による電磁パルス攻撃によるソ連側の通信障害が五分後に回復する。米軍が基地からのロケット制御をするためだが、海兵隊はいまだ敵地上戦力を排除できていない。管制室への到着後、ZOE……HAL05を経由して、ISOが着陸地点の操作に介入するが、敵からの干渉も受ける可能性がある。十分に注意してほしい」
「磯野さん、まえの世界線で私は殺されたんですね?」
HAL05からの単刀直入な問いに、俺は戸惑いつつもうなずく。
「ライナス博士とHAL03の救出は、おそらくですが……すべての世界において重要な要素です。よく聞いてください。このさきは私ではなく、ライナス博士とHAL03を最優先に、生存世界への収束を行ってください」
「え、ちょっとまて! HAL」
「ロケット発射を阻止できる状況から、世界線の横断が起こり、二人の救出が阻止されたとするならば、二人の救出の成功と失敗の二つの選択肢が、すべての世界線が選択する岐路となっているはずです。磯野さん、あと一度、なにかしらのかたちで生存世界への収束を発生させる必要があるはずです。その機会を見誤らないでください」
俺は反論すべき言葉を見つけられない。
誰かを救うために、誰かを犠牲にするなんて本末転倒のはずなんだ。だとしても、いまいる六人の隊員はなんなんだ。この世界ではすでに四名が犠牲になっていることを、俺は無視するのか?
隊員たちは、管制室へつづく通路へ向かうため、換気立坑の円筒状のキャットウォークを回り込んでいく。足を止めていた俺もまた榛名の手を取って、円筒状の足場を進んでいった。
わずかに、空気が動いたように感じた。
換気立坑という空間は、天井が地上とつながって口を開けているのだから、空気が動いていても不自然ではない。しかし、まえの世界線とはなにか感じかたがちがう。
この違和感が、まえいた世界線とちがう状況に俺たちがいることを示していることに気づいたときには、すべてが遅すぎた。
上空から、複数の無機的な連続音が、円筒空間を響かせてきた。
「ドローン!」
誰かの叫ぶ声に、俺は見上げようとした。
だが、出来なかった。
目の前にいる人びとが、上から叩きつけてくる銃弾によって、血を吹き出しながら倒れ込んでいく光景が、目に焼きつけられていく。俺の右肩に衝撃が走り、身体がよろめいた。我に返り体勢を崩しながらも、榛名の手を握っていた左手に精いっぱいの力を入れて、彼女を通路へと押しもどした。
泣き叫ぶ彼女の顔を見つめながら、俺の身体は、すでに何度も撃ち抜かれ動かなくなったことを悟る。
必要とされていた二度目の収束を引き起こせることに安心したのだろうか。霧島榛名が無事であることをたしかめられた俺は、おそらく笑顔を浮かべていたのだと思う。そこまで思考を走らせたあとに、鈍い音を聞いた気がした。世界が真っ暗に閉じた。
――それは、もう一度襲ってきた。
生存世界への収束をみずから引き起こしたはずなのに、またもや、その外側から観測したかのように、たくさんの俺がいる光景に出くわしてしまう。換気立坑にいる俺。すでに管制室にいる俺。通路で身を隠している俺。ただ、いままで見た光景と、ひとつだけちがうように思えた。それは、どの俺も
――走っていた。
「え?」
俺は、この世界にいるはずの無い存在の気配を感じた。
女性。長い髪が、風に揺れたように――
「磯野くん!!」
泣き腫らした榛名の顔が、俺の目に飛び込んできた。
あいかわらず、眩暈と頭痛と吐き気が同時に襲ってくることで、生存世界への収束が成されたことを実感する。
榛名は、俺を抱きしめ泣いていた。
二度の収束で、彼女の精神もボロボロになっていたんだと思う。嗚咽のまじった泣き声が、俺の身体に震えて伝わる。
俺は、言葉を発せないながらも、自分の右手を彼女の背中に置き慰めようとしていた。
「磯野さん、生存世界への収束ですか?」
HAL05にうなずいた。俺は、苦痛に耐えながら、榛名に抱きしめられながら、周囲を見渡す。森のなかにいた。残り時間はあと何分だ?
俺は無意識に、袖で口元をぬぐう。鼻血?
収束後に何度かあったことを思いだした。身体に、脳に負荷がかかっているんだろうか。
隊員たちを見ると、ひらきかけている緊急脱出口が視界に入った。
いままで見たことのない光景に、俺は固まってしまう。
――収束時に見た、走りたどっていた無数の俺がみえた。
記憶に焼きつけられたなごりのようなものが、視覚的に見えたというのが正しいのかもしれない。ただ、そのなごりは、いまだに消えずに、俺の視界に存在していた。そうだ、間違いない。これは、
――発射管制室までたどりつくための「ルート」だった。
「残り五分だ。急げ」
「佐々木さん! 俺に先に行かせてください」
「磯野君、無茶を言うな」
「俺はすでに二回収束を引き起こしました。榛名ごめん。きみを置いていく。けど心配しないでくれ」
「え、まって磯野くん! なにを見たの?」
榛名は、あの光景を見ていないのか?
収束の外側にいたのに?
「ごめん。説明はあとだ。HAL! 俺のあとについて来れるか?」
HAL05は一瞬の間があったあと、「わかりました。佐々木隊長、私たちが先行します。部隊は、私たちに気を取られている隙に敵を排除してください」と言って、俺にうなずいた。
俺はいまだ不安そうに見つめる榛名から手を離し、はしごを降った。
そのあとをHAL05がつづく。
「あと四分」
はしごのうえから佐々木さんの声が響く。
四分。すでに周回軌道を回る二機のロケットの、着陸地点を修正するために残された時間。
はしごを降りた俺は、収束時にみた無数の俺が走っていた「ルート」がしっかりと見えた。
俺は、ハルが縫ってくれた上着の赤い縫い目を指で撫でた。
間に合うのか? いや、間に合わせるなら――
HAL05を待たずに暗闇の通路を走り出す。
収束時に見たのとおなじように、なぞるように、俺は駆けだした。
格納庫に全速力で入り、やや右に逸れながらスライディングを掛けた。わずかに遅れてアサルトライフルの銃撃音が空間に鳴り響く。俺は、滑り込んだ勢いを生かして、そのまま立ち上がり加速した。うしろでHAL05であろう拳銃の発砲音が数発聴こえた。
格納庫を突っ切り、西立坑へ向かう通路へと入った。
駆けていく俺が作り出したルートが、いまだに鮮明に残っていた。そのルートに向かって俺は速度を落とさずに駆ける。遮蔽物から慌てて半身を晒したソ連兵が、俺に銃口を向けてくるが、引き金を引くころにはその脇をすり抜け、閉じられた西立坑の扉の横の壁に体当たりしながら到達した。
わずかに呼吸が乱れながらも、俺は立ち上がり、敵のことなど気にせず、扉の回転ハンドルをまわす。四人のソ連兵たちが、俺へ銃口を向けようとしたとき、走る足音とともに拳銃の銃声が複数聴こえ、倒れる音がそれに重なった。俺は見向きもせずに西立坑の扉をあけ、換気立坑への扉へと駆ける。後を追ってきたHAL05もまた、からになった弾倉を落とし、あらたな弾倉を装填ながら俺の横へ駆け寄った。
「残り三分」
俺はうなずき扉をあけた。
換気立坑に入り、管制室への通路側へ回り込んでいく。
「どうなっている!?」
真柄さんの声がイヤフォン越しに聞こえてきた。息のあがりそうな俺に代わって、HAL05がこたえる。
「真柄博士。二機のロケットの落下地点への介入間に合います。ISOから修正プログラムを受信しました」
「……わかった。世界線の横断が発生する可能性がある。警戒してくれ」
世界線の横断? もう一度起こるっていうのか?
真柄さんの返事が終わるころに、俺は発射管制室への通路の扉を開きおわった。なにが起ころうともう時間はない。このまま進むしかない。
換気立抗から通路へと入り、俺はふたたび走り出した。
いまだ見える無数の俺が作り出したルートをなぞり、通路の角を曲がった。管制室につきあたる扉が見える。その手前に、ソ連兵が二人、すでに銃口を向けて待ち構えていた。
銃口から火を噴く瞬間、俺は二人の兵士のあいだに滑り込んだ。このさきのルートが示されていないことに気づいた俺は、心拍数が一気に上がったことを感じながらも、二人の兵士に振り返った。片方のソ連兵が、アサルトライフルの銃床で殴りつけてきた。俺は腹を抱えて倒れ込む。つぎ瞬間、血しぶきが俺の頭へ降り注いだ。HAL05が速射で二人を倒したのだと気づいた。腹の痛みを抱えながら、べとついた管制室の扉に手をかけ、俺は立ち上がる。
HAL05は銃を構えたまま、片手で管制室の扉をひらいた。中にいる三人のソ連兵に躊躇なく弾丸を撃ち込んだ。
彼女は、遅れて入った俺へ一瞥したあと、まえの世界線とおなじ位置になるデスクトップパソコンの一台に駆け寄って、ワイヤーを接続した。直後、複数のウィンドウパネルがひらかれ、同時に操作していく。俺は肩で息をしながら、彼女が操作するパソコンの横へたどり着く。
「ダメです。二機のロケットのうち一機は太平洋上に着水させることが出来ますが、もう一機のプログラムが独立していて間に合いません」
HAL05が冷静を欠いたように声をあげた。





