23-04 重なり合う世界線が、たがいに干渉をはじめています
「HAL、もう一度訊くが、ISOは榛名についてはなにも言っていないんだな? 生存世界の収束を起こすのは、俺だけでいいんだな?」
「はい。現状ISOから榛名さんについての指示はなにも出ていません」
「それなら、榛名を置いていけないのか?」
「通信手段が限られている現在、磯野さんの関知しない場所に榛名さんを置くことで、彼女の命が危うくなる状況を作るのは得策ではありません」
俺は絶句した。
俺たちはどこかで護られていると信じ込んでいた自分に気づいた。いまとなっては、どこにいようと誰に護られていようと、安全な場所など存在しないのだ。榛名にとってもっとも安全な場所は、彼女にもしなにかがあったときに生存世界の収束を実行出来る俺のそば、ということになる。
「磯野さん、榛名さん、もうひとつお伝えしなければならないことがあります。真柄博士は、あなた方とおなじように、この世界にとって特別な存在です」
「特別な存在?」
「真柄博士は、本来、この世界にもあなた方の世界にも存在しない人間です」
真柄先生は、この世界にも、俺たちの世界にも存在しない?
「八月七日にあなた方の世界が創り換えられたときに、はじめて出現した存在、それが真柄博士です」
HAL05の言う意味がわからない。
「この現象は、地球上すべての場所で同時に発生するものではありません。各地で発生した座標から周囲一〇キロメートル程度の小さい範囲で波紋のようにひろがり、他の世界線を横断しているようです」
「HAL、世界線の横断の頻度が増えれば、この世界もまた静止する?」
「はい。正しい進路から逸れ曲線を描きはじめた時間の矢が、他の世界線を横断しています。影響としてはまだ小規模ですが、他の世界線との横断――交差時に起こる干渉がいま起こった現象の一端であると推測します。ブラックホールに飲み込まれるのとは別に、この世界が消失する前兆だとみていいでしょう。けどまだ時間はあります。さきほどの真柄博士のことも頭の片隅においてください」
HAL05は念を押すように言った。
真柄さんが、世界線の横断が起こったとしても大きな影響は無いというのは嘘だろう。ISOが伝えてきた、俺が二度の生存世界への収束を引き起こす必要があるという意味。これは、望まない世界から無理やり引き戻すために必要なタイミングが二回あるってことだ。
その後、俺たちの気づくかぎりでは、世界線の横断は起こらなかった。本当はいまも世界のどこかで地震のような歪みを引き起こし、世界線が横断されてしまっているのかもしれない。けれどまだ時間があると、そう思いたい。
真柄さんはこの三つ目の世界の住人じゃないのか? HALたちとおなじく、この世界から俺たちの世界へと送り込まれ、八月八日に北大医学部で出会ったんじゃないのか?
「だとしたらこの世界――あの富士ジオフロントの研究所で、なんで重要な立場として振る舞っていられるんだ?」
「八月七日にあなた方の世界――二つの世界が創られ、お二人がまた八月七日にこの世界にたどり着いた際、真柄博士の所在は、八月七日以前に、この世界から磯野さんの言うオカルト研究会の存在する世界にすでに送り込まれていた、という歴史として上書きされました」
「けどHALさん、この世界は八月七日以前には存在していないから――」
「榛名さんのおっしゃるとおり、真柄博士は、この世界から送り込まれた歴史だけを持ったうえで、あなた方の世界に誕生した存在、と解釈してください」
「なんでいまさら俺たちに伝えるんだ?」
「真柄博士の意図が、ISOの思考に影響を与えている可能性があります。それは、わたしたちの最終目的である、お二人のもとの世界への帰還の障害になる可能性があります」
「HALさん、真柄さんは、」
「この世界が失われること、そして俺たちの本当の世界が元に戻ることをいちばん恐れている存在……」
榛名の言葉をさえぎって出た俺の言葉に、HAL05は無言でうなずいた。
――ISOの導く選択肢を全面的に信用してはならない。
「真柄博士はお二人にとって危険な存在であると心得ておいてください。真柄博士は、あなた方の世界に潜入したHAL02を間接的にではありますが殺害しています。同様にHAL03への妨害もおこなわれていました」
「俺たちの世界で殺害?」
ライナスはHAL02を俺たちの世界に送り込み、命を失ったと言っていた。その後、HAL03が役割を引き継ぎ、この世界で俺に接触してきた。その原因が真柄さんだというのか?
「この通信は大丈夫なんだよな?」
HAL05はうなずいた。
そもそも、もっとまえに俺たちに伝えてくれていい話のはずだ。なのになぜ、いまなんだ?
「それじゃあHAL、ISOの話をどこまで信じればいい?」
「ISOについて信頼出来るのは、彼らと私たちの利害が一致するライナス博士たちの救出作戦までだと思っておいてください」
釈然としないままうなずこうとしたそのとき、奇妙な感覚が起こった。眩暈と頭痛、そして吐き気が、ないまぜになって俺を襲う。
「磯野さん、榛名さん! この世界にほころびが起こっています。衝撃がきます」
「ほころび?」
俺がHAL05の言葉を繰り返した瞬間、吐き気と頭痛がさらにはげしくなった。おもわず両手で頭をおさえる。身に覚えがあった。
――生存世界への収束。
いや、八月七日の午後にはじめて色の薄い世界に訪れたとき、霧島千葉の薄汚れたノートを目にしたときのほうが近い。
「え」
頭痛が弱まり顔をあげると、右どなりにいたはずの榛名がHAL05を挟んで、左へと入れ替わっていた。いっしょにいる隊員たちにも動揺が起こる。
HAL05は、声色を変えずに言う。
「この世界の、重なり合う世界線が、たがいに干渉をはじめています」
俺と榛名はHAL05を見つめ、その先にいるお互いをまた見つめた。
「――俺たちが生きた状態のまま、ほかの世界線へ収束したってことか」
「通信割り込み入ります。真柄博士です」
HAL05がそう言うと、イヤフォンから聴こえてくるローター音がわずかに低く変化し、俺たちが警戒しなければならない男の声が聞こえてきた。
「真柄だ。我々の世界と他の並行世界の横断がたったいま起きた。研究所で予測した通りの現象だ。体感してわかったと思うが、他の並行世界との横断時に、身体、主に脳に記憶された情報が一瞬重複を起こすため負荷がかかり、頭痛や吐き気を伴う。しかし、きみたちがいま戸惑っているように、交差したもうひとつの並行世界の記憶はすぐに消え去るから安心してほしい」
口調から、隊員に向けられた通信なのだろう。
「お二人がいままで体験してきた生存世界への収束。これに似た現象が、私たちにも自覚できるかたちで発生しはじめています」
HAL05が補足した。
「真柄博士の言うように世界線の横断とその影響がこのさき生じると考えてください」
「世界線の横断……?」
ふたたび真柄さんの声が差し込まれる。
「一時間まえから、なにも無い場所から突如、乗用車が出現するといった現象が世界各地で発生している。だが、動揺しないで作戦を遂行してほしい。我々の行動は、この世界のなかでも重要な位置づけにある。横断時に大きな変化を伴うことはないだろう」
「それって……」
以前見た、映研部室の夢とおなじだ。
あのときは、なにもない場所から建物が出現したり、柱に人がめり込む事故が起こったと柳生さんが言っていた。この世界でもおなじことがはじまったっていうのか?
「真柄博士はあのように言っていますが、このまま事態が悪化すれば、世界が時間軸を失います。世界の瞬間を切り取った無数のパズルが、エントロピーの増大とは関係なく並べられていく状況です」
「どういうことだ?」
「時間や場所に関係なく、いまみたいに人が現れたり消えたりすることがふつうに起こるってこと?」
「そうです。因果律を無視した世界におちいりはじめました。原因と結果から外れて、私たちの世界が変化していくでしょう」
まえに見た部室の夢は、夢なんかじゃなく俺たちがいた世界で異常現象が起こっているっていう現実、それをみせられたんじゃないか。
――それじゃあ、あの夢をみてから二日が経ったいま、映研世界はどうなっているんだ?
八月一九日 一時〇三分。
G-SHOCKのタイマーが、残り一五分を切った。俺たちを乗せたヘリは、施設の北西にある、森林を挟んだ平原に降下を開始した。
人工衛星の描く、墜落の軌跡がまばらになった夜空は、俺と榛名だけが見える、星ぼしの流線へと入れ替わっていった。
着陸と同時に、一〇名の隊員は、目標へ向けて前方の森林に入る。
ローター音から遠ざかるにつれて、前方からサイレンと、複数の銃撃音がかすかに聞こえてきた。すでに米軍海兵隊は、制圧作戦を開始したらしい。作戦どおりであれば、施設南東の連絡塔区画から響いていることになる。
「私の後方にいてくれ」
佐々木さんが言う。俺と榛名、HAL05は、そのうしろにしたがった。
部隊の通信は、煩雑になるという理由で、俺と榛名には遮断されていた。隊員たちは、閉じられた部隊内通信で、おたがいに情報を伝達している。HAL05は、ISOからの通信を受信していた。部隊と俺たちに伝えるために、彼女は、状況に応じて通信を切り替えていた。
暗がりの広がる森林を、部隊は駆けていく。遠くから聞こえる銃声が、次第に大きくなる。杖をついた榛名の手を引き、無理のない程度の速さで、俺たちもあとにつづいた。





