21-02 もといた世界の八月一七日の夜になにをしていたのか。きみは覚えているかい?
百年記念会館にたどりついた磯野たち。そこでスーツ姿の三馬が出迎えてくれる。彼は、「鶏が先か、卵が先か」という言葉を口にしたのち、大会議室のドアを開ける。
そんなに広くはない空間に、高級そうなスーツを着た大勢の人びとがいた。いくつかの丸テーブルがその隙間を埋める。多くは年配の男性で、ところごころに女性が混じっていた。
壁側を見ると、なんとも場ちがいなものものしい機械が置かれていた。はなやかな空間に同居する異様な物体。機械群の横には白衣をまとう科学者らしき人びとと、迷彩服を着た人びとが見えた。その不釣り合いな景色のうえに、歴代の学長なのだろうか、肖像画がいくつもならんでいた。
「あれは自衛隊?」
「そうだ」
大会議室中央にいた人びとは、俺たちに気づき目を向けた。
面食らっている俺に、三馬さんが肩に手をかけ前に進むよううながす。
「まあ、行こう」
俺たちの行く先を、まるでモーセが海を割るように人びとが道をつくった。ゆっくりと一歩、一歩、その道を俺たちは進み、ひとつの丸テーブルへとたどりついた。
目的地らしき丸テーブルの上には、置き時計とペン、そしてひらかれた大学ノートが置かれていた。その横に録画中をしめす赤いランプが点灯されたビデオカメラが備えつけられ、大学ノートをとらえている。
「これは」
「昨日、八月一七日の夜に、きみたちは向こうの世界であるメッセージを受信したはずだ。いまからその状況を再現する」
大学ノート。
ひらかれているのは最後のページ。
「この世界にもあったんですか」
「きみたちの世界とおなじものを見つけ出し、用意したんだ」
この三つ目の世界が、俺たちの二つの世界がもとになっているとするなら、大学ノートも存在するのはわかる。そもそも俺や榛名だっていたんだ。そう考えれば当たり前だ。
ということは、この大学ノートを使って――
「あのメッセージを、あなたたちが?」
三馬さんは首を振った。
「きみたちと一緒に、我々が「これから」発信するんだ」
「俺たちが?」
三馬さんはつづける。
「いまから彼らにメッセージを送ることで、はじめてこの世界は存在出来る。向こうの世界にいるもう一人の私に、彼が閃いた世界の変質化の仕組みが正しいことを、このメッセージが後押しするんだ」
どういうことだ?
この世界はすでに存在している。現に俺はこの世界の北大百年記念会館の大会議室に存在しているというのに、
「俺たちがここからメッセージを送ることでこの世界が生まれるって、順序が逆じゃないですか? これって親殺しのパラドックスですよね?」
「親殺しのパラドックスなんて言葉、よく知ってるね」
向こうの世界であなたと柳井さんの会話から知ったんですよ、と言いかけて、俺は口をつぐんだ。
「この世界を創造するために、この世界から君たちの世界にそのきっかけとなるメッセージを送る。矛盾に思えるだろう。しかし、君が向こうの世界の八月三一日からこの世界の八月七日へたどり着いた時点で、この世界の創造のきっかけを我々がつくることが可能となった。いや、我々の人類を存続させるためにもそうせざるを得ないと言ったほうが正しいだろう。今夜メッセージを送ることで、磯野君と榛名さんをこの世界に導き、情報の道をひらくための道筋が出来上がるんだ」
ライナスも言っていた情報の道。
ここで言う情報とは、世界を構築するために必要なものだとなんとなく理解したのだが――
「情報の道をひらく……この世界が生まれるきっかけを、ここにいる俺たちが作ることになる?」
「そういうことだ」
「もし、メッセージを送らなければ?」
「この世界も、君と霧島榛名さんも、やがて消えてしまうだろう」
「……鶏が先か、卵が先か」
「そういうことだ」
この世界が消える。
俺も榛名もこの世界にたどり着くことがなくなるわけだから、いままで起こった出来事を無しに出来るってことじゃないのか? それって、
「この世界が消えるなら、俺たちはもとの世界に戻る、つまりすべてが解決するんじゃないですか?」
「それはちがう。君たち二人は、この世界にたどり着いてしまった。この世界の八月七日から一八日までの時間的な道筋を作ってしまったんだ。もし君たちが消えてしまったら、
――君たち二人がこの世界にたどり着けなかったことが事実となってしまう。
そうなれば、君も榛名さんとともに、八月三一日からこの世界に至るまでのワームホールの出口を失ってしまう。結果として、君たち二人はバルク空間に永遠に閉じ込められてうだろう」
「バルク空間……。つまり、色の薄い世界に俺と榛名が閉じ込められる?」
「そういうことだ」
俺にとってはじまりの日。八月七日の正午。あの日文化棟を見上げていた霧島榛名。そして一二日の夜。雨の中をおなじ場所で見上げていた彼女が脳裏をかすめた。
色の薄い世界にとらわれた彼女。
あれとおなじことが、今度は二人いっしょに起こるっていうのか?
三馬さんは、テーブルのペンを手に取り、俺に差し出した。
「磯野君、私たちを信じてくれ。この世界と君たちの世界を救う一歩を、今日踏み出すことが出来るんだ。これはこの世界における初の時間遡行――タイムトラベル実験となる」
……タイムトラベル実験。
「信じていいんですね?」
「ああ」
色の薄い世界にとらわれた榛名は、記憶があいまいだと言っていた。もがくことすら出来ないままあの世界にとらわれるくらいなら、いまこの世界にいられるほうがずっとマシなのだろう。
俺は周囲の人びとへと目を向ける。
八月一七日に受け取った合い言葉と無数の署名。あのメッセージがその内容通りであれば、いまここにいる、俺たちを見つめている人びとは、
――この世界の人類の叡智。
俺は、三馬さんからペンを受け取った。
「あの言葉、ですか?」
三馬さんは、俺にうなずいた。
俺は、ペンを右手に持ちなおす。
ひらかれた大学ノートの最後のページ。
俺は、この世界にたどり着き、いまに至るまでに起こった出来事を頭にめぐらした。いままで起こったことを、現実を、映画研究会の部室にいる俺たちに伝えるために。
俺は、ペンを大学ノートへとゆっくりと近づける。もうすでに知っている、あの言葉を最後のページに記するために。
視界のはし、会議室前方にある巨大モニターに、ペンのさきがフレームインしてくるのが見えた。
ペンの先がページに触れたそのとき、
――クラトゥ・バラダ・ニクト
その言葉が、最後のページに浮かび上がった。
この世界ではじめての「文字の浮かび上がり現象」。
三馬さんが、柳井さん、千代田怜が、そして巨大モニターをとおして注目していた人びとが、いっせいに驚きの声をもらした。その一瞬後、拍手が空間を埋め尽くす。
一人のスーツを着た初老の男が、こちらに駆け寄ってきた。
「成功です。予測されていた通り、こちらで観測可能なレベルの重力波の発生を確認しました」
「おめでとうございます。山花博士」
三馬さんにうなずく山花と呼ばれた男は俺に向きなおり、握手を求めた。
「磯野さんですね。私は宇宙航空研究開発機構の山花と申します。世界の存続に手を貸してくださりありがとうございます」
「……宇宙航空研究開発機構?」
「磯野君、山花博士はJAXAの理事長だ」
JAXA。そうだ、あのときの文字の浮かび上がり現象で、最初に署名したのも――
「磯野です。こちらこそ。これを」
俺は、握手を交わしたあと、ペンを山花博士に差し出した。
「ありがとう」と言ってペンを受け取った山花博士は、例の機械のほうにひとつうなずいてみせ、腰をかがめて大学ノートにペンを近づけた。一瞬ののち、ノートにはJAXAの署名が浮かび上がる。
「なんとも不思議なものですね」
山花博士はそう言うと、いつの間にかとなりにきていた日本人と握手し、「平原博士、どうぞ」と言ってペンを手渡した。ペンを受け取った眼鏡をかけた白髪の男性は「緊張するね」と笑顔で言って、ペンを大学ノートに近づけた。
こうして、JAXA、QST、NASA、FNAL……と世界各国の科学者もまた、大学ノートに署名を連ねていった。
署名は二時間近くにもおよび、大学ノートの最後のページは、各研究機関や大学の署名で埋め尽くされた。
そのすべてが「文字の浮かび上がり現象」によって記されたものであり、それはまた、数多くの並行世界の俺たちが、この場所にたどり着いたことの証でもあった。





