18-06 ちょっとまってくれ。七夕は、七月七日だろ?
――すべての、根底が、くつがえされる。
溢れ出そうになる感情を押し込めるように、一つため息をついて、彼女はつづける。
「――祈っちゃったんだよ、わたしは。その祈りが、届いてしまったのかはわからない。けれど、一四日の明け方に灰色の世界に迷い込んだ夢をみて、目が覚めてから、夢のなかで見た百年記念塔を見に行って、二つの世界を行き来するようになってしまって」
榛名は、どうやったって笑顔にならない、そんな笑顔を見せた。
「もう一つの世界のわたしは、五体満足でね、はじめて入れ替わったときは戸惑ったけど、けれど、左手と左足を自由に動かせることが嬉しくて。だから、あの祈りが通じたんだって、そう喜んじゃって、けど――」
――うん。
「その世界はね、お父さんが、」
――わかってる。
「……わたしの左手と左足が不自由になれば、お父さんは死ななかったんだよ……って、それを、あの世界はわたしに見せたんだ。わたしが恨んで消えてしまえばいいって思ったその世界が、わたしの望むものを与えてくれたとき、同時に失ってしまうものがなんなのかを、その世界が」
榛名は、あきらめたように微笑み、
「だからね、これはわたしに対する罰なんだって。自分の境遇が嫌になったことに、神さまが――」
「榛名、それは、」
「ううん、これも自分のひとりよがりだってわかってる。けどね、事故があって、こうなっちゃったわたしを励ましてくれた、お父さんやお母さんや、千葉のことを全然考えてなくて、それが……」
彼女の言葉に答えられないまま、俺は、
「オカ研のね、わたしのほうが、ずっとまわりのことを見えていて。あの子と、あの子の世界をみせられて、重なって、痛いほどよくわかって。あの子は、お父さんを失ってしまったのに、それなのに、わたしは、何不自由なく過ごせるもう一人のわたしを羨んでしまったことが、そんな自分が許せなくて――」
榛名を抱きしめる。
「榛名、誰だっておなじことを思うさ。俺だって、おなじ境遇だったら、恨みもするし、羨みもする。榛名、きみは悪くない。大丈夫、悪くないから」
すべては仕方のないことで。
彼女がそう思ってしまったのも仕方のないことで。
けれど、彼女はいま考えずにはいられない。
考えるのをやめてしまったら、
言葉にならないものに、
こころが押し潰されてしまうから。
だから、
――彼女は、どうにもならないそれを言葉にして、
――俺は、そのどうにもならないものを否定してやらなければならないんだ。
「ごめんね、聞いてくれて……ありがとう」
榛名は、俺の肩にまかせていた顔をあげて、俺を見た。
「ひどい、顔だな」
俺の言葉に、彼女は、もう一度笑おうと顔を歪めて、
「それはお互いさま……だぜ」
俺たちは、手をつないだ。
そして、二人でしばらく、空を見上げた。
すでに陽は暮れかかっていて、オレンジから青へとグラデーションがはるか彼方までひろがっていた。すこしずつ染められ、夜がかっていく東の空は、夏の星が、ぽつり、ぽつりと、ちりばめられていた。
「あのね、八月七日にね、わたしたち約束をしたんだ」
俺はその言葉にハッとして、榛名を見る。
榛名の言っていた「約束」。
八月一二日の夜に彼女の口からこぼれたその言葉が、いままで、ずっとこころに引っかかっていた。
「八月七日の夜をむかえられたらね、天の川を見に行こうって、そう約束してたんだよ」
「天の川?」
「うん。七夕だから」
――え?
「七夕の夜に、天の川のもとで、わたしたちが、離ればなれにならないですんだことを祝って」
「ちょっとまってくれ。七夕は、七月七日だろ? なんで一ヶ月後の八月七日になるんだ?」
榛名は、驚いた顔を俺に向けたあと、なにかを悟ったかのように、さびしそうに微笑んだ。
「……そっか。七日のさきの世界は、また
――変わっちゃったんだね」
また……変わっちゃった?
「落ち着いて聞いてね。わたしの、たぶん、いまはわたしだけが知っている現実世界のことなんだと思う。八月七日の――あの時間のまえの世界。私の知る現実の世界での北海道の七夕は、旧暦の八月七日になっていたんだよ」
「旧暦の……七夕?」
「うん。現実の世界の北海道の七夕」
なんだよ、現実の世界って……。
「だから、本当は北海道百年記念塔も、数年前から閉鎖されていて入れなくなっているし――」
「――なにを、言ってるんだ?」
数年前から、百年記念塔が閉鎖されている?
いや、だって、この世界に来る前に、俺たちは二度も百年記念塔にのぼったじゃないか! 俺が、あの階段がどうしてものぼれないときに、怜が手を貸してくれて。三一日の夜も、全力で階段を駆け上がって……。
俺の問いに、榛名は俺に向きあって、告げる。
「――七月一四日にわたしが灰色の世界に迷い込んだとき、世界はすでに変質してしまっていたの。その世界は、311の影響が無かったから、だから百年記念塔に入れて、それがきっかけで――」
「311って、なんだ?」
その問いに、榛名は目を見開き俺を見た。
「311ってなんなんだ? アメリカの911みたいに、世界でテロかなにかが起きたのか?」
「……磯野くん、あのね、落ち着いて聞いてね。311のことを話すから」
榛名は俺に面と向かう。
「二〇一一年三月一一日、東日本大震災。マグニチュード9を超える大地震と、その影響で津波が起こったの。死者はおおよそ一万六千人、行方不明者は二千五百人。福島第一原子力発電所がメルトダウンを起こして――」
「ちょっとまってくれ。大地震? メルトダウン?」
榛名の口からつぎつぎと出てくる大災害と、その恐ろしい犠牲の数に俺は震え上がる。
その世界の日本は、なにが起こったっていうんだ?
その世界が本当の現実の世界だって言うのか?
現実世界は、あの映研のある俺がもとからいた世界で、その世界から霧島榛名を失ってしまったってことじゃないのか?
「あのね、磯野くん、たぶん、八月七日以降のきみがいた現実世界は、わたしが生きてきた現実世界とは別の世界、なんだと思う」
別の……世界?
「別って……別ってなんだよ。俺のいた、生まれたあの現実世界は、もともと榛名がいて、その榛名の存在が消えた、そういう世界じゃないのか?」
榛名は、俺を見つめ、首を振った。
「七月一四日の時点で、もう現実とはちがう世界になってしまっているの。おそらく八月七日にもう一度、世界は変わってしまって――」
そのひと言に、俺の頭は殴りつけられる。俺のなかで、なにかが、崩れていくのを感じた。そして、
――ひとつの言葉が、全身を駆け巡る。
「ニセモノ、なのか」
「え?」
「俺の生きてきたあの世界は、現実じゃないのか? 俺は、
――ニセモノなのか?」





