18-05 覚悟なんて、そんなものこれっぽっちも無かったのに
いまいる世界を救えないからこそ、共倒れになるまえに元の世界へ戻ることを榛名に伝える磯野。それはハルやライナスを置き去りにすることもまた意味し、
俺の視線に気づいた彼女が、ぽつりとつぶやく。
「だけど、わたしにはその記憶はぼんやりとしかなくて。だから、この世界の一二日、あの日の夜に、灰色の世界に引き戻されて……とても、とても怖かった。けどね、それよりも怖かったのが、
――磯野くんまで、あの世界に巻き込んじゃったこと。
わたしの選択した八月七日が、結局、なにも解決出来なくて、わたしの……」
榛名はそこで言葉を止めた。
彼女の、夕陽に照らされ頬へと流れていく光。
霧島榛名が経験したことを、俺もまた繰り返した。
だから、その悲しさが、悔しさが、わかってしまう。
八月三一日のあの夜、グラウンドへ向かおうとする色の薄い世界の八月七日の俺を引き返させたことで、世界は元に戻ったと思ったんだ。それが、なにも変わっていないって真柄さんから伝えられたとき、どうしようもない絶望に襲われてしまった。
霧島榛名が、俺を巻き込まないために身を投じて、その結果なにも変わらなかったという徒労。
あのときとおなじものを、彼女も感じているのだろう。
「……けど、ね、すごく自分勝手だってわかってるんだけどね……わたし、磯野くんと再会できて、うれしかった」
彼女は、涙のままの顔を俺に向けて、
「わたし、馬鹿だがら、一人で背負っちゃって。磯野くんを巻き込んじゃいけないって、あのとき、そう思っちゃって。覚悟なんて、そんなものこれっぽっちも無かったのに」
「一人で背負うのは、知ってる」
「そっか。……だよね」
俺もまた、暮れていく空を見上げる。
あのときのグラウンドも、こんな夕陽だったよな。
あのときの榛名も、こんな。
「俺だって、わからないのに、きみとの記憶が無いのに、あの一二日の夜にきみと会ってからここまで来ちまったんだ。けど、後悔なんてしてない。会えてよかったって、心の底から思えるから、だから気にしなくていい」
俺は榛名に向きなおり、
「いまのためだって、思えばいいから」
そう告げた。
「あいかわらず、優し過ぎるよ、磯野くんは」
彼女もまた優しいあきれ顔を俺に向けた。
あいかわらず、か。
榛名の知っている俺は、「八月七日以前の俺」で、そのときのことは、いまの俺はわからない。
それが、さびしかった。
けれど、彼女が言う「あいかわらず」の俺は、やっぱり俺なわけで、これからもとの世界に戻ったならその実感をやっと得られるようになるんだと思う。
それでも、俺はあえて訊く。
「そう……なのか?」
「うん」
そう言って微笑む榛名は、オレンジに照らされて、とてもきれいだった。
ZOEの連絡がいまだ無いまま、俺たちはショッピングモールへと戻り、ドラッグストアで応急処置用の一式を買い込んだ。
館内は夕飯時というのもあって、軽い人混みが出来るくらいに混雑しはじめていたため、人目を避けるため、もう一度ベンチへと戻った。
消毒用のエタノールを浸したガーゼを、榛名の右手の甲にある傷につけた。
「――――っ」
「痛いよな」
「平気、平気、つぎはわたしが磯野くんにするし」
「仕返しかよ」
笑う彼女をみると、オカ研のいたずらっぽい榛名の顔が重なって見えた。
「そういえば、なんで俺に君付けするんだ?」
「磯野くんはわたしのこと、霧島さんって呼んでたんだよ」
「マジか」
「うん。だって、現実世界のわたしたちって、七月一五日にはじめて話した仲だから」
七月一五日。
その前日一四日が、榛名が色の薄い世界にはじめて迷い込んだ日。
その翌日に俺と会っているってことは、
「榛名がオカ研側に入れ替わってから現実世界にふたたび戻ってきたことで、俺たちのことを知ったって流れなのか」
「うん。現実の世界では、磯野くんや柳井さん、怜ちゃんや竹内くんのことは知らなかったから」
怜ちゃん、か。
「そうか、みんなの呼び方もちがうんだな」
そういえば俺のなかにあるオカ研側の記憶でも、一年前の夏に部室に訪れた榛名は、はじめはお嬢さまのような雰囲気を醸し出していて、俺たちオカ研メンバーにかなり気を遣った丁寧な接し方をしていた。けれど、千代田怜に関しては、ちゃん付けで呼ぶまでにいたらないまま、しだいに元気さを押し出したキャラへ変わっていったんだよな。
「そうだね。わたし自身の境遇も、オカ研側のわたしとはやっぱり出会い方も、出会ってからの時間もちがったから」
俺は、映研での彼女がどう振る舞っていたのかはわからない。
けれどオカ研側で取り繕っていた榛名のキャラクターとそこでの関係があったからこそなのだろうと思う。オカ研側で触れた俺たちへの、彼女なりの親しみを込めた呼び方だったのかもしれない。
「不思議な感じがするんだけど、二つの世界のそれぞれで、自然とその世界での振る舞い方が出ちゃうんだよね」
榛名は、俺をみつめる。
「どうした?」
「あのね、わたし一五日に、現実世界でもオカ研があるのかたしかめようとして文化棟に行ってみたとき、一階のロビーで磯野くんに声をかけられて」
「俺に?」
「そのとき「足治ってよかったですね」って」
……おい、それってもしかして、八月七日に榛名を追いかけてたときに、声かけようとした台詞じゃねーか。
「なあ、」
「ん?」
「最後に「ふふっ」とか笑わなかったよな、俺」
榛名は左手を顎に添えて、
「言ってた……気がする。すごく緊張してたっぽいけど」
なんなんだよそれ。なに無様を晒してるんだよ俺は……。
榛名は、頭を抱える俺に苦笑いを返した。
「あ、空がきれい……」
彼女は、そう言ってベンチから立ち上がろうとしたところで、左足がふらついて姿勢を崩してしまった。
俺はとっさに彼女の身体を支える。
「……ごめん。ダメだね、わたし」
榛名は身体を起こして、左足をさする。
「わたしね、当時、左手と左足が不自由になってしまったことが、とてもつらくてね。……こんなことにした世界をずっと恨んでたんだ。なんで、わたしなんだろうって。なんで、わたしがこんなことにならないといけないんだろうって」
彼女は、微かに目を落とし、
「――けどね、」
笑いかけながら発した声が、うわずり震える。
「悔しくて……。ずっと、ずっと……悔しくて」
彼女は強い子だ、と思っていた。
振る舞いや、ここまでたどり着いたことで、そう言葉を当てはめていた。
けど、ちがうんだ。
強いとか弱いとかそういうことじゃない。人は、理不尽な状況に陥れば、誰もが戸惑い、悲しみ、そして、己の境遇を恨む。それが、取り返しのつかないことになればなおさらだ。そんな彼女に「強い子」なんて言葉を当てはめて、どこかで安心してしまっていた自分が、他人ごとにしてしまった自分が、腹立たしかった。
「――だから、七月一三日の夜に、こんな世界無くなっちゃえばいいって、そう、祈ったんだ」
榛名は、左足からベンチの影が伸びるコンクリートへと目を落とす。
「……祈っちゃったんだよ」





