18-01 ……覚えてなんかいないのに。俺と、きみが、なにをしてきたかなんて、俺にはわからないのに
――彼は、声をあげて、泣く。
「ごめん。起こしちゃったな」
「ううん、気にしないで」
「……無事で、良かった」
「磯野くんも」
彼女の手を触れている一瞬一瞬がとても長く感じられてしまう。
胸が高鳴り湧きあがる、甘苦しさと切なさ。この感覚を、もうすこしだけ味わっていたかった。俺と彼女のあいだにある「いま」を、こころに刻みたかった。だから、この瞬間を壊してしまいたくなくて、言葉をつむごうとするのを躊躇われてしまった。
けど、やっとここまでたどり着けたのだから、彼女とふたたびめぐり逢えたのだから、そのひと言でいいから言葉にしたい気持ちも湧く。それでも、あらためてそれを口にしようとすると、うわずった気持ちがこころを覆い尽くしてしまい、かたち作ろうとしていた言葉がことごとく霧散してしまう。それでもなお、ひと言をしぼりだそうと声にしたとき――
「「あの」」
俺たちは目を合わせられないまま、またうつむいてしまう。
――本当は、話したいことが、たくさんあるはずなのに。
――なにから話せばいいのか、わからない。
いままで、走りつづけて、ひたすら走りつづけて、やっと彼女にたどり着けた。彼女までの道のりを全速力で駆け抜けるために、途中で転ばないように、俺は俺の全神経を費やしてきた。それが、ここまでたどり着くための道を作り、守ってきたんだ。
失敗は許されない。
失敗したなら死をもって挽回しなくちゃならない。
その緊張が、意識が、ここまでたどり着くために必要だった。だから、いまの俺は、そんなふうに、がんじがらめになってしまっているんだと思う。
だからこそ、わからない。
彼女のとの、このさきのことが、わからない。
彼女が、霧島榛名がとなりにいてくれる時間。求めていたはずのこの時間に、いっしょに過ごしたはずの記憶の無いこの人と、
――なにを話せばいいのだろう。
いま、この瞬間、俺たちは生きている。
それはとても嬉しいことで、幸せなことで、それだけで、本当にそれだけでよかったはずなんだ。そうなんだから、彼女と交わす言葉なんてそんな些細なことで、悩む必要なんてないはずなんだ。彼女と再会するためにこそ、俺は、すべてのエネルギーを向けてきたはずなんだ。
だから、もうなにを話したっていい。
なんだっていい。
彼女に――
ふと、俺の左手がほんの少しだけ強く握られた。
かすかに、彼女の吐息が聴こえてから、
「迎えにきてくれて、ありがとう」
その言葉は、とてもやさしくて。
とてもとてもやさしくて。
いままで抱えてきた、背負ってきた、頑なだった、俺の覚悟が、
八月一二日のあの夜から雨のなかで悔やみ、背負ってきた重みが、
――溶かされていく。
俺はうつむいて、それにあらがうように、両手に力を入れようとする。
まだ崩れちゃいけない。
そう自分を保とうとして、けれど、どうしてもダメで。
そんな自分の弱さに、いまさら嫌気がさして。自分自身が保てなくなるのを、保たなくても良い瞬間が訪れてしまったことを、己の頭よりもはやく、こころが解ってしまって。
それが、全身へと沁み渡っていって、しまった。
だから、
頬に涙が伝っていくのに気づいてしまう。
……なに、泣いてんだよ、俺。
……止まれよ、みっともない。こんな顔、榛名に
――みせられるかよ。
それでも、涙は止まらない、止まらない……止まらない。
どうしても、俺の身体は、泣くことをやめようとしなかった。
出来なかった。
みっともなくて、
あまりにもみっともなくて、
そんな姿を見せたくなくて、
うつむきつづけながら、俺は、
「……覚えてなんかいないのに。俺と、きみが、なにをしてきたかなんて、俺にはわからないのに。それが、悔しくて。……悔しくて。けど、けれど、俺は、俺には、大事……だったんだよ」
嗚咽で言葉が詰まってしまう。
それすらもどかしくて。悔しくて。
言ったからって、訴えたからってどうにもならないし、なにを言いたいのかさえ、求めてるのかさえ、俺にはわからないっていうのに、
どうしても、止まらなくて。
いままで見たみんなの顔が、頭のなかを駆け巡っていく。
どうしようもなかった俺を奮い立たせてくれた柳井さんの顔。円山公園の夜の、あのベンチで、見送ってくれた千尋の顔。俺に起こる出来事を論理づけてくれた三馬さんの顔。霧島家に行く途中で、大丈夫だとはげましてくれた青葉綾乃の顔。事故のことを打ち明けたときのちばちゃんの顔。
かならず戻ってこいと見送ってくれた、怜の顔。
だけど、
「みんなのため……なんて、真っ当なもんじゃないんだよ。ただ、おまえに……もう一度、会いたかっただけなんだ。……ちばちゃんのことも、サークルの連中も、この世界のやつらも……みんな、みんな、巻き込んで、それでも……おまえに……」
理性が利かないまま、わけのわからないまま、俺は、俺の胸のなかにあったものを吐き出しつづける。そして、出てきてしまったその言葉に、俺自身が驚いてしまう。碌でもないことを吐きながらも、俺はそれを否定出来ない。
「……なにもかもが突然で、こころの準備なんて本当は出来てなくて、ただの大学生の俺が、なんの覚悟も無いのに、こんなところまできてしまって。そんな俺がやれることは、がむしゃらになるしかなくて、けれど、命までかけてるっていうのに、落としているっていうのに、」
――いままでやってきたことを免罪符にして、俺が望む世界を、彼女がとなりにいればそれでいいと、
そう、言い切ってしまっている最低な俺が――
「磯野くん」
霧島榛名は、うつむいていた俺の顔をそっと触れた。
おもわず顔を上げてしまったことで、俺たちは、ふたたび見つめ合ってしまう。
すぐ近くにある彼女の顔は、微笑んでいた。
そのとき、はじめて気づく。
この子の笑顔を、俺は、いま、はじめてみたのか。
――この子の笑顔をみるために、俺は、ここにきたのか。
涙に濡れる、彼女の笑顔が、そこにあって、
「ありがとう、とても、嬉しい」
やわらかく、やさしく、彼女は俺をつつんだ。
俺の頭はまっしろになって、
それでも、涙と、鼻水と、声が、止まらなくて、
止まらないまま、声を上げて、泣いた。
榛名に、抱かれつづける。
彼女の呼吸の、心臓の、鼓動を感じながら。
そのわずかな揺らぎに、身をゆだねた。
このままでもいいのかもしれない。
いつまでも、というわけにはいかないだろう。けど、いまこの瞬間を、大切な記憶に残しておくためにも、やっと得られたこの時間を、ゆるすかぎり、しずかに過ごすのもいいのかもしれない。
どれだけの時間が過ぎたのか、わからない。
やっと気持ちが落ち着いて、落ち着いてしまうと、彼女に包まれているその状況が恥ずかしくなって、心地よさと、けれど、彼女をみたくなって顔を上げてしまう自分がいた。
そうすると、もう一度、俺たちは見つめ合ってしまう。そして、おたがいに顔をそむけてしまって、最初の状態に戻った。けど、最初よりも、ずっと、気持ちは落ち着いていた。
「えっとね……ちょっと言いづらいこと、なんどけど」
榛名がうつむいたままつぶやいた。
「ん?」
「ちょっと、ね、血なまぐさい……かな」
「え……? あ、たしかに」
おたがいに顔を見合わせて苦笑いした。





