17-07 ううん。いまは、その名前だけわかれば大丈夫。あの人は、命の恩人だから
新東京駅一階から脱出した磯野と榛名。身を挺して時間を稼ぐハルを気にしながらも、二人は在来線の高架へと出て、飛ぶ。
俺たちは、絶えることのない車の流れへと落ちていく。
はたから見れば投身自殺のような、往来の激しい車道へと落下していくその「時」。まるで相対性を伴ったかのような、時間が引き伸ばされた感覚に襲われた。
突如、大きなシルエットが目のまえに現れ、スローモーションとなっていた時間は、一秒における一秒の間隔へと収縮していった。トラックの荷台のダークグリーンのシートが視界を埋めるのがわかるのと同時に、張られた布の鈍い感触が全身を包み込む。
痛みを生むことの無い軟らかな衝撃に安堵した。
布の波を掻き分け、左手の先にいる榛名を見る。
「怪我は無いか?」
声にしたあとに、走行中の鋭い風が、俺の発した音をかき消していることに気づく。しかし、俺を見つめる榛名は、大丈夫、というようにうなずいて見せた。
さっきまで俺たちがいた高架、そして、新東京駅が離れていく。
そうだ、ハルは、
「ZOE! ハルは無事なのか?」
「HAL03は無力化され、実行部隊に回収されました」
……回収。
左耳のイヤフォンからZOEの声が直に響く。
「現在、ライナス博士が作戦本部長に掛け合い、HAL03の引き渡しについて交渉中です」
そこまで聞いて、やっと肩の力が抜けた。
さすがに一安心というわけではない。
それでも、ハルが警視庁の手に渡る可能性は消えた。そのうえ、ライナスによって引き渡しの交渉が出来るというのだ。あの地獄に置き去りにしてしまったことから比べれば、はるかにマシだ。
「無事、引き渡されるんだろうな」
「CIA作戦副部長のウォルター・ナッシュ氏は反対するでしょうが、作戦本部長ロバート・ウェッブ氏とライナス博士は、懇意の間柄にあります。なにかしら取引はあるでしょうが、ウェッブ氏は非正規作戦が行われた関係上、強くは出られないでしょう。作戦本部長権限により、解放される可能性が高いです」
そこまで言ったZOEは、現在、それよりも緊急度の高い事態が進行中です、と付け加えた。
「警視庁が現在、お二人を乗せたその貨物自動車の追跡、および、検問の設置に動き出しております。江戸川区から北上中の千葉県の北部、茨城県、栃木県の県境への検問の設置に各県警と連携して動き出しました」
「……それって、陸路を完全に封鎖するってことか」
「現在、お二人がいる貨物自動車のIDから、位置情報がリアルタイムで警視庁側に送られております。その情報に基づき、警察は追跡を開始しています。お二方には、その貨物自動車から早急に降りていただく必要があります」
「わかった。降りるタイミングを指示してくれ」
「三分後に、貨物自動車は、信号の前で走行を停止します。その三〇秒のあいだに、荷台から降りてください。一分後に乗用車が到着しますので、それに乗ってください」
「そのあとは?」
「状況に応じて、数度乗り換えが必要になる可能性があります。その際、通信を一度とめる必要があるため、判断に注意してください」
「通信を止める?」
「NSAにより、この会話が傍受される危険性が発生しております。新東京駅の件で、私たちとCIAとの信頼関係に致命的な亀裂が生じました。この先、私の通信および活動について、より踏み込んだ監視がなされるでしょう」
ZOEは淡々と言う。
いまさらな感じだ。
実行部隊の動きだって、ZOEによるいままでの行動だって、お互いに騙し合いだっただろう。
「てことは、ZOEからの通信は無いが、サポートはつづくわけだな?」
「はい。車両の乗り換えの際、ID変更をリアルタイムで行うことで、警視庁、CIAおよびNSAの追跡を撒きます」
「逃げなきゃいけないことはわかっているが、そんなことをして、CIA側との関係はどうなるんだ?」
「千葉県内にゴーディアン・ノットのハッキング・キャンプがあります。そこを経由して、私たちの正体を偽装しますのでご安心を」
「ハッキング・キャンプ?」
「ハッカー基地のことです。駅構内でのジャミングは、そのハッキングキャンプから仕掛けられた可能性があります」
ZOEにも防ぎ切れない妨害をしてくる人工知能、だったよな。そこが拠点になっていたんだろうか。
というか、そもそも追跡をまくのにゴーディアン・ノットのせいにするっていうのも笑える話ではない。人の生き死にがかかっているとはいえ、なんとも乱暴な話だ。
「それでは磯野さん、幸運を」
ZOEとの通信が切れた。
幸運を、か。
AIが使うような言葉ではないな、と思いつつも、その言葉を発するZOEの言い方に、わずかにやさしさが感じられた気がした。ライナスが言っていたとおり、ハルとのつながりのなかで、人との関わり方を学んでいるのだろうか。
三分後、ZOEの言うとおり、トラックは赤信号によって停車した。
そのタイミングに合わせて、榛名を連れてトラックを降りた。一分後に回されてきたメタリックブルーの乗用車に俺たちは乗り込む。
「あの電話の人、ゾーイって言うの?」
「ああ。なんて説明すればいいか――」
「ううん。いまは、その名前だけわかれば大丈夫」
あの人は、命の恩人だから、と、榛名はつけ加えた。
三度の乗り換えを経て、おそらくまだ千葉県内にいるのだろう、ショッピングモールの屋外駐車場へと入った。俺たちの車は、駐車スペースの一つに停車し、エンジンを止めた。
俺たちはしばらく待ってみたものの、その後、乗り換え用の車が回されてくることがなかったため、この場で待機していろ、ということだろうと受け止めた。
G-SHOCKを見ると、八月一七日、一六時五四分。
一時間まえに新東京駅にいたのが信じられない。
ショッピングモールの駐車場、しかも、車内という静かな空間に身を置いていることに現実離れしたような感覚に襲われた。
霧島榛名を連れ出せたこともあって、俺のなかで緊張の糸が切れてしまったのかもしれない。となりに榛名がいることを気にしながらも、呆けてしまったかのように思考が停止してしまった。
これもまた収束に身をさらしてしまった結果なのだろう。
鉛がのしかかってくるような重々しい波が、俺の身体をふたたび襲ったのだ。俺は疲労に飲みこまれ、意識が遠のいていく。薄っすらととした感覚のなか、彼女がしだいに俺の左肩に身を寄せていくのが、つないでいた左手の感触となって伝わってくるのがわかった。
俺は、部室にいた。
外は雨らしい。ぽつぽつと雨が窓を叩く音が空間に響く。
暗くなってしまった部室は、蛍光灯で照らしだされ、そのなかに、見慣れた、まるで一年以上も離れてしまったかのような懐かしい面子が、テーブルを囲んでいた。
柳井さん、竹内千尋、ちばちゃんと青葉綾乃、三馬さん、そして、千代田怜。
みんな、なぜか暗い顔をしてうつむいている。
そんななか、柳井さんは、ホワイトボードに、24件と書き込み、ペンでその数字を指した。
「この二四という数は、ここ数日に世界中で起こった、突然姿が消えるいわゆる神隠しのような事件と、誰もいないところから突然人が現れたという、どちらも超常現象じみた事件の件数だ」
柳井さんは一度言葉を切り、一度ちばちゃんと青葉綾乃のほうを見て、一呼吸置いてから、ふたたび口をひらいた。
「あと特殊なものに、これは記事の画像にはすでに規制がかけられているが、インドでの、建造物のコンクリートの柱に突然発生した人間の事件。これは一人の現地の男が体がめり込んだ状態となり、内臓もやられたのだろう、そのまま死に至ったというものだ。ところがだ、この男と容姿も名前も同じ男性が、もう一人近くに住んでいたらしい。いわゆるドッペルゲンガーだ。この異常事態は、ちばちゃんのお姉さん、霧島榛名さんと磯野が消えてからの影響ではないかと思う。どうだ、三馬」
「関係はあるだろう。磯野君のドッペルゲンガー、あれは、重なり合う世界の数が密接になり過ぎたことによって起こった、別の世界線からの磯野君の発現だ。その人物のある位置に存在する確率が、実在出来る数字にまで達してしまった結果、この世界とはべつの磯野君も同居出来てしまう、というのがあの現象の仕組みとなっている。しかし、あのときの、八月中旬から発生したドッペルゲンガー現象は短時間で終わったが、今回のはちがう」





