16-03 彼らもまた、イソノさんの遺伝子を利用してバルク空間へアクセスしようとしている
磯野は死ぬはずだったハルの運命を変えた。無力だった己に人を救う力があると知り、彼は榛名を救うため動き出す。
「彼女、キリシマ・ハルナさんは、アメリカ合衆国、国防総省のあるバージニア州アーリントンの軍所属病院で厳重に保護されている」
アメリカ国防総省。
字面だけでも、有り余るくらいの安心感がある。
異なる世界の榛名とはいえ、彼女を保護してくれている。
そのことを思えば、なおさらさきほどライナスにしてしまったことが悔やまれた。
「世界の危機を救うべくバルク空間に突入するためには、イソノさんかキリシマ・ハルナさんの遺伝子が必要だった。きみたち二人の遺伝子――DNA情報は、この世界の二人のものと変わらない。画面に映るハルナさんの代わりに、彼女の遺伝子から造り出したバイオロイド・クローンHALが、現在まで、きみたちの二つの世界を救う役割を担っている」
「それにしてもなぜ、この榛名は人工呼吸器をつけているんですか?」
「この世界のハルナさんも同様に、三年前に交通事故に遭った。だが、きみたち二つの世界とのちがいは、ご覧の通り、昏睡状態が現在までつづいていることだ」
この世界の榛名は、意識が戻らない?
映研世界では足が不自由になり、オカ研世界では父親を亡くした榛名は、この世界では昏睡状態ってことなのか……
なんなんだよ、運命の悪戯にしたってタチが悪すぎる。
「この世界にキリシマ・ハルナさんがいるのと同じように、イソノさんもまた存在する」
……この世界の俺?
この世界もまた、映研世界とオカ研世界と同じように並行世界の一つってことなのか。けれど、この三つ目の世界で俺の入れ替わりが無いのだから、同じ世界に俺が二人存在する、ということになるだろう。
「残念ながら、この世界におけるイソノさんを、合衆国側で保護出来ていない。おそらく、日本政府側がすでに確保しているのだろう。きみとHAL03が囚われていた極秘研究施設――富士ジオフロント脳科学研究所内のどこかにいると思われる」
「富士ジオフロント?」
「日本政府が極秘に進めている、地下都市計画用の実験空間だ」
ハルが富士鉱山と言っていたあの場所か。
俺とハルがいた研究施設内にこの世界の俺がいたってことなのか?
なら、いっしょに連れ出すことは出来なかったのだろうか。いや、あのときそのことについて知らない時点で、俺はなにも出来なかった。それに、この世界の俺を見つけ出したとして、あの駐車場での状況下で無事連れ出すことが出来たとは思えない。
ZOEもおなじ考えだったんだろう。
だから、あのとき俺たちに、もう一人の俺のことを伝えなかった、ということか。
――まて、この世界の俺を確保するってことは
――あの研究所で行われていたことは
地下階に下りたときに見た、無数の「人」の光景が浮かんだ。
あの「人」は男のようだったが、俺の容姿とはあきらかにちがった。
だが、あのバイオロイドを造り出す技術と俺の遺伝子、この二つが結びつかないわけがない。
「あの研究所で、俺のクローンを?」
「ああ。彼らもまた、イソノさんの遺伝子を利用してバルク空間へアクセスしようとしている」
なんとも不気味な話だ。
俺のクローン――ライナスの言葉を借りればバイオロイド――が造られているとして、それが目の前に現れたらと思うとゾッとする。ドッペルゲンガーにでも遭遇するようなショックがあるだろう。
「話を戻そう。新札幌駅、および新東京駅における改札での生体認証は、DNAレベルで行われている。八月七日に、きみが改札を通過出来たのは、この世界のイソノさんのものとして認識されたからだ」
そうか、あのときの生体認証があったから俺の位置がバレたのか。
「だから、改札を通り過ぎた直後に、ZOEから連絡が入ったのか」
「そのとおり。同時に日本政府の諜報機関G2ANNEXと、ゴーディアン・ノットにも位置を特定された」
聞き覚えのない言葉に、俺は戸惑う。
「ゴーディアン・ノット?」
「きみを襲った集団だ。三日前、彼らは世界に向けて自らをそう名乗った」
脳裏に、あの冷徹な目の大男の顔がかすめた。
「ゴーディアン・ノット。「ゴルディアスの結び目」と言えば馴染み深いだろうか。三日前、イソノさんとキリシマ・ハルナさんのこの世界へ降臨したことを受けて、彼らは、きみたち二人の抹殺を世界に宣言した。崩壊するであろう世界に影響を与える存在となったきみたち二人を殺し尽くすことで、世界の安定化を図ろうとするその行為を、「複雑に結わえられた結び目を断ち切る」という、ゴルディアスの結び目になぞらえてそう名づけたのだろう。きみたち二人の存在とその影響力に関する情報は、まだ世界的には浸透していないため、この世界の人びとには、彼らの活動は反政府的なものとしてしかとらえられていない。が、我々の情報では、彼らの背後、そして資金源に、ソ連のKGBがあると見ている」
「……ソ連? 旧ソ連ですよね。ロシアのことですか?」
「きみたちの世界では、すでにソ連は崩壊してロシア連邦共和国だったね。しかし、この世界では、ソ連――ソビエト社会主義共和国連邦は存在している。冷戦はいまだ終わっていないんだ。九〇年代以降、東西両陣営とも一定の歩み寄りを見せ、現在に至るまでのそれは「緩慢なる冷戦」などと呼ばれてはいるが」
ソ連がいまだにある世界?
そんな世界に俺はいるのか。
なるほど、この世界が近未来的である根拠の一つなのかもしれない。東西冷戦による軍拡競争が皮肉にも科学技術の発展につながったと言われている。この世界が俺たちの世界よりも数歩先に進んでいる理由は、ライナスのいう冷戦の継続も大いに影響しているのだろう。
「KGB――ソ連国家保安委員会。彼らが最大の障害となるだろう。ZOEがいる分、現状はまだ我々が有利だが、八月七日の新東京駅での彼らのジャミングは、短時間ではあったがZOEの防壁を潜り抜け成功させられてしまった。あれはおそらく、ZOEと同規模のソ連で開発中と思われるASI――人工超知能によるものだと考えられる」





