15-06 八月七日の晩、きみが我われの指示に従ってくれたことに感謝している
磯野が気がつくとベッドに横たわっていた。そばには榛名を名乗る女性が付き添っていた。磯野は彼女の無事を知り安堵する。
二階から見た窓の外には、森が広がっていた。
森のなかにある洋館、それが俺と彼女がいる場所だった。
「研究所を出た時点で、私たちの位置は偽装されています。もし研究所側が私たちを突き止めようとしても、バックドア対策は万全ですのでご安心ください」
屋敷の周囲には、高度な訓練を受けた人間が複数警備についているということだった。
俺は二階の寝室から吹き抜けの階段を降りて、客間へと移動した。
映画に出てきそうな高級な屋敷ではあったが、俺たち以外に人気は感じられない。客間に入ると、そこに備えられた家具や調度もまた高価そうなものが揃っていた。空間の奥にある大きな窓の外は、きれいに整えられた芝生の庭になっていて、二階とおなじく森林が広がっていた。この屋敷を警備しているという人影はどこにも見当たらない。
部屋の中央に置かれているソファへ、すすめられるままに座ると「紹介したい方がいます」と言って、彼女は客間を出て行った。
あの電話の主だろうか。
この屋敷の所有者であり、護衛用の人員も雇えるほどなら相当の力のある人物だろう。ましてや、研究所――日本政府を敵にまわしているんだ。個人などではなく、もっと大きな規模の組織なのかもしれない。
とはいえ、電話の主はこの子を使い捨てるように扱ってきた。
敵の動きを把握していたはずだった八月七日のあのときも。研究所での彼女の扱いも。もし、彼女が人造人間なら、それも納得できる。彼女が拘束されている最中に、追跡用のチップとか、そんなものが埋め込まれて、研究所の外では使いものにならなくなったとか、そんな理由だろう。
だが、そんな道具みたいな使い方、俺は許さない。
客間の入り口に人影が見えた。
「はじめまして。イソノさん」
入ってきた人物は、驚いたことに白人の男性だった。
グレーの上等なスーツを着こなす小柄の男は、流暢な日本語で言った。特徴的な鷲鼻に眼鏡をかけ、神経質そうな空気をまとっている。男の手には、タブレットらしきものがあった。俺はソファから腰を上げた。
「八月七日の晩、きみが我々の指示に従ってくれたことに感謝している」
指示、やはり電話の主の仲間か。
いや、声を変えただけで、この男が電話の主だということもあり得る。
男はソファをすすめてきたので、テーブルをはさんでふたたび腰かけた。男のとなりに榛名が腰を下ろす。
「あの晩、きみは八月三一日の世界から時間をさかのぼり、我々の世界へと降り立った。きみたちのある行動は、きみたちの世界とこの世界をつなぐバルク空間を介して、無限に近い数のきみと、ハルナ・キリシマ……いや、キリシマ・ハルナさん、そして、それにともなう膨大な情報をこの世界へ送り込んだ」
男が話し出した内容に、俺は面食らった。
この世界に迷い込む以前からの俺の動向を、まるで見てきたかのように、目の前の男はスラスラと語っている。
しかし、気になる言葉がある。
無限に近い数の俺? 俺たちのある行動ってなんだ? バルク空間? いや、三馬さんがどこかでその言葉を口にしていた気もする。けど、情報って、なんのことだ?
「あの……なんのことを言っているのかわからないんですが」
「こう言えばわかるだろうか。きみたちのある「行動」の結果、並行世界のインフレーションが起こり、無限に近い数のイソノさんと並行世界が発生するに至った」
……無限に近い数の……インフレーション。
俺の脳裏に八月三一日の部室が浮かんだ。
部室の壁すべてに貼られた地図が、一瞬にして青へと染まっていくあの光景。それってもしかして、
「――柳井のぼっちローラー作戦?」
「その通り」
ひとり言のようについて出た俺の言葉に、鷲鼻の男はうなずいた。
「この世界が生まれ、二つの世界よりも進んだ文明を持った原因、それは、きみたちがこの世界に持ち込んだ天文学的な量の並行世界情報のおかげだと言える」
八月三一日のあのとき、部室の壁をすべて青へ塗りつぶしたんだ。
それは、それだけの数の俺が、あの部室にいたってことだ。つまり、部室の壁を青へ塗りつぶす数の並行世界と俺――
それが、天文学的な量だってことなのか?
たしかに膨大な数だったはずだが、その数は、目の前の男が言うとおり、無限に近い数だけ膨れ上がっていたってことか? けど、解らない。それがこの世界を生んだ? そもそも、見てきたかのように語るこの男は、いったい何者なんだ?
「きみたちのその「行動」によって集められた無限に近い並行世界の次の選択は、北海道百年記念塔の展望台でキリシマ・ハルナさんに接触する、という一点に集中してしまった。本来であれば、並行世界の数に応じた選択肢――無数の可能性へと分岐するのが自然の摂理なのだが。選択の過度の集中によって、きみとその周囲に次元を超えた規模の情報爆発が起こり、きみたちの世界からこの世界への「情報の道」が誕生してしまった。「情報の道」とは、きみがこの世界へ訪れるに至った、時空の流れを超えた五次元ワームホール空間のことだ。我々は、いま現在もワームホール空間を経てこの世界に流れ込んでくる情報の流入を止めたい」
まるで三馬さんを目の前にしているかのようだ。
すべて理解出来ないとはいえ、いままで俺が体験してきたこととその結果を、この人はなぞっている。けれど、
「まってくれ。わかりやすく説明してくれているんでしょうが、俺には理解が追いつかない。朝倉先生は、俺と榛名がこの世界の「創造者」と言っていました。八月三一日にとった俺たちのあの「行動」は、それに関係があるんですか?」
「「創造者」か。ドクター・アサクラはすこしロマンチストに過ぎるな。だが、間違ってはいない。きみたちの起こした並行世界のインフレーションは、この世界を生み出しただけに止まらない。現在のきみとハルナさんは、この世界における、まさに神のような存在だ。きみたちの物理的・心理的状況がこの世界に影響を与えつづけている。一方、きみたちが世界に影響を与えるのと同じように、世界もまたきみたちに影響を与えている」
朝倉先生たちが言っていたことと同じだ。
だけど、この世界への影響って、いったいどういうものなんだ?
「ひとつ例を挙げるならば、きみたち二人がこれまでにこの世界で命を失ったとしても、生きている世界へと収束したはずだ。これが世界がきみたち二人に与える影響のひとつだ。二人がこの世界にいる限り、「生存世界への収束の力」もまた、きみたちに作用しつづける」
生存世界への収束。
ドッペルゲンガーのときに起こったのと同じ、べつの並行世界への収束。
たしかにあの作用のおかげで、俺と榛名はあの脱出から生き延びられたんだ。けど、なぜそんなことが起こる?
「ドクター・アサクラの言葉を借りれば、きみたちはまさに創造者――神の力を持っていると言えよう。この世界が、きみたち二人を生かすこと、すなわち、きみたちの可能性を担保させつづけているのは、このさき未来における無数の可能性のなかから、きみたちがその一つを選択していく行為、きみたちの選ぶであろう歴史を、この世界が望んでいるからにほかならない」
鷲鼻の男はそこで言葉を切ったのち「しかし、それは無限の力では無い」とつけ加えた。
「この世界におけるイソノさんとハルナさんの死には、当然リスクをともなう。このリスクには二つの意味がある。一つ目は、きみたち二人の死がこの世界に影響を与えるだろう。その影響は、直接的に世界を不安定化させる恐れがある。二つ目のリスクは、きみたちが生存世界へ収束される回数は有限である、ということだ」





