15-04 ……頼む、お願いだから俺を――
彼女は、榛名どころか人間ですらないことを磯野は悟る。それでも命の恩人である彼女と共に研究所からの脱出を決意する。が、二人は兵士達に行く手を阻まれ
つぎの瞬間、彼女は一気に駆け出した。
裸足がコンクリートの地面をヒタヒタとたたく。柱から身を晒す彼女に、一瞬の静寂が、世界を支配した。直後、彼女をすり抜けて、無数の銃弾が壁にめり込んでいく。
そのすさまじい光景に、一瞬、唖然としてしまう。
我に返って俺は駆け出した。
長い長い一秒が、彼女の背中と、それをかすめる銃弾の航跡を出現させながら過ぎていく。俺が射線に出た一秒もないわずかな時間、銃撃に隙が出来たような気がした。
これなら、いける。
遮蔽物、俺たちが隠れていたのと同じ太さの柱の陰へと、一歩、一歩と近づいていく。
脇目を振れるな。
一気に、一気に駆け切れ!
もうすこし、あと、もうすこしで――
そう、心の中で叫んだとき、
――彼女のこめかみに、一つの航跡が貫いた。
ドクンという衝撃とともに、俺の中で固まるものを感じた。
聴覚に届き切らない己の叫びとともに、バランスを崩し、倒れ込んでいく彼女へと駆け寄った。
崩れ落ちる彼女の右手をつかみ、引き寄せ、彼女の身体を抱き上げる。
こうなることも、そのあとのこともわかっているはずなのに。とめどなく流れる涙に視界を奪われながら、俺は愚かにもその場に膝を突いてしまう。
「ダメだ。撃つな!」
左側から、男の掠れた声が響いた。
思わず俺は、その声へと顔を向ける。ぼやけた視界の中に黒い銃口を見とめ、焦点が合う。
「え」
額に衝撃が走った。
彼女を抱きかかえたまま、俺の視界は斜めにすべり落ちていく。
目の前にあるものが、ゆるやかに黒へと塗りつぶされ、消えていった。
「うあああああああああああああああ」
叫び声とともに、目の前を走る彼女の背中に、俺は全力で飛び込んでいく。吐き気と、俺の体を押し潰そうとしてくる急激な疲労に支配されながらも、俺は射線に背を向けながら彼女を抱き込んだ。
このまま俺が盾になって、すぐそこの柱の陰に――
右肩に激痛が走った。
「――っがああああ……あああああ!」
衝撃が全身を駆け抜け、気を失いそうになる。
「磯野さん!!」
……どうやら柱の陰へ潜り込めたらしい。
彼女の、榛名の声で、無事だとわかり、安心してしまったのか、笑いが込み上げてきた。
彼女の顔は、俺への心配と驚きが混ぜこぜになって濡れていた。彼女は、柱の陰に俺の脚を引き込む。
「……収束、ですね」
激痛にいまにも意識が飛びそうな中、俺は彼女にうなずいた。
彼女は、着ている上着の袖を引き裂き、それで俺の右肩をきつく縛った。
「磯野さん、私は……いえ、次からは、私のことは――」
言っただろ。絶対に、
「……榛名、俺は……おまえを……救い出す」
警備員たちの足音がふたたび響き出す。
彼女は強くまぶたを閉じたあと、静かに、こらえながら言う。
「銃創は肩に一つだけ。貫通しています。走れますか?」
走れるだろうか。いや、走れなかったとしても、彼女はここから逃げ出せるようにしなければ。そうだ、俺は殺されることはない。なら、足手まといの俺が出来ることは、霧島榛名一人でも無事脱出させる、それだけだ。
「……ああ、いける」
彼女は俺の目を見てうなずき返し、腰を上げた。
目指す先には数台の車が駐車してあった。
その中の射線の死角にある黒のSUV。距離はおおよそ一〇メートルだろう。
死ぬ気で走れ磯野。もう一度、全力で死ね。そうすれば、二人とも逃げられる望みが、得られるかもしれないのだから。
「いきます」
榛名の声に俺はうなずく。一瞬、彼女の瞳に、なにか、未練のようなものを見た気がした。
……いや、
彼女は俺から目標へと顔を戻し、一気に――
……このままじゃ、
「榛名! 待て!」
……ダメだ! 二回目なんだよ!
だから今回は最初から榛名を狙ってくるはずなんだ。
そんな中、榛名を先に走らせてしまったら、
――やつらの格好の標的にされちまうだろ!
すでに走り出した彼女の華奢な背中が、一歩、一歩、俺から離れていく。左から銃撃が起こり、彼女の前後を無数の銃弾がかすめていく。
「……ああ、これじゃあ、……ダメだ」
クソッ、榛名は俺に思考を、考える時間を与えずに飛び出したのか。この――
「ばかやろう!!」
俺は銃撃の空間へ一歩踏み出す。
あまりにも、ゆっくりと。急いでいるはずなのに。脚を前に出しているはずなのに。コンクリートが弾けるのを越えながら、痛みに耐えながら、それでも一歩、一歩と、前にある空間へと重心を移していく。
走れているのだろうか。
俺には解らない。
周囲を意識する力もない。
それでも前に、少しでも前に。
彼女が、振り返った。
ダメだ。頭を、頭を下げてくれ榛名。
俺にかまわず車までたどり着くんだ。俺は、殺されても死なない。だから、早く――
左ふくらはぎに、衝撃が走った。
支えられるはずの体が、崩れ落ちてしまう。
足を止めるな。今度は、やつらは俺を殺すようなミスは犯さないだろう。確実に生け捕りにしてくるはずだ。撃たれたのなら、殺されにいけ。時間があるなら、逃げ延びろ。
思考だけが空まわりし、視界が暗くなる中、俺は左腕を引きづられていく。
――捕まったのか?
ダメだ、ダメだダメだダメだ。
それじゃあ……ダメなんだ。撃ち殺してくれなくちゃ。……頼む、お願いだから俺を――
意識をしぼりだして頭を上げると、そこにいたのは榛名だった。
……よかった、生きている。銃創をかばい、俺の左肩をかつごうと、彼女は、俺の体を持ち上げた。
敵は? ダメだ、こんなところで俺をかついで平気な――
左からの衝撃が俺たちを襲った。
グラリと倒れ込んでいく榛名に引きづられてしまう。
「あ」
血しぶきが。いつのまにか、顔に。
「……榛名?」
俺たちはそのまま沈み込んでしまった。
起き上がれないまま、動かなくなった彼女を感じながら、足音が近づいてくるのを、俺は待つしかなかった。
「目標は生きています!」
「よし」
頭上から男たちの声が響いた。
榛名は、死んだのか?
死んだのか。
死んだ、なんて……そんなことは、
「そんなこと! 絶対にッ!!」
俺は上体を無理やり起こして、そばにいた警備員の、右腰のホルダーから拳銃を引き抜いた。
「くそおおおおおおおおお」
グロック19。そうだ。安全装置をはずして、俺の、こめかみに――
「よせ! 磯野君!」
引き金を
――引け!
があんという轟音と衝撃が、左のこめかみから脳内へ貫いていく。
八月七日で経験したのと同じ衝撃をふたたび感じた。
こと切れるまでのわずかな時間、
己がやり遂げたことの達成感に満たされ、
消えた。





