14-06 ばびばとう
八月七日一八時二七分二七秒。三つ目の世界が動き出したその日時を聞き、磯野は世界五分前仮説を思い出す。彼を襲った連中の目的は、この世界で磯野と榛名を死ぬまで殺すことだった。
その後は真柄先生の案内で、研究所を案内してもらった。
あの白い部屋を幾度も歩き回ったとはいえ、俺の足腰はそうとう弱っていたらしい。ベッドから立ち上がる際、真柄先生の肩を借りなくてはならなくなった。少しずつ歩くことで、しだいに脚の動かし方に慣れていった。
真柄先生によると、この研究所はもともと人工知能研究のために設立されたものらしい。国家の機密に関わる技術にも絡んでくるため、衛星写真には存在しない人工島に極秘裏に建てられたものだそうだ。
研究所は、いまいる居住区画と研究区画、そのほかにもう一つ区画があった。それぞれの区画は円形の建造物となっており、その三つの円から通路を渡して連絡してあった。機密となっている研究区画は、さすがに入れてもらえなかった。俺がいたのと同じ部屋から食堂、図書館、自販機の場所やレクリエーションルームなど、居住区画にあるものをひと通り見てまわった。途中、白衣を着た研究者らしき人びとや、この研究所の警備員らしき人を見かけた。警備員とすれ違う際、腰に備えつけられた拳銃が目に入り、肝が冷えた。
居住区画内をひと回り歩き終わり、部屋の前まで戻ってくると、真柄先生は腕時計を見た。
「午後三時か。レクリエーションルームに暇つぶしになるものがあるから、時間を持て余しそうなら遊んでくるといい。ひと仕事片付いたらまたくるよ」と言って、真柄先生は去って行った。
まだまだ聞きたいことが山ほどあるが、そのうちまた話をする機会もあるだろう。まずは安全が確保されたんだ。ありがたく思わなければ。
部屋に入った俺は、ベッドの横のかごに入れられていた俺の所持品をたしかめた。洗濯され、きれいに畳まれたTシャツと上着にジーンズ。現実世界から持ち込んだスマートフォンはあったが、バッテリーはやはり空らしく起動しなかった。この世界で榛名から受け取ったひしゃげたスマートフォンやインカム、拳銃のたぐいはすべて回収されたらしい。肩の痛みはすでに無く、わき腹もわずかにうずく程度になっていた。これなら、もう入院服を着ている必要ないだろう。
ふだん着ているのと同じものを身につけるとなんともホッとする。
非日常に取り囲まれ、至るところから不安がとめどなく押しよせてくるなかで、わずかながらもやっとささやかな日常を取り戻せた。このちょっとした出来事が、おのれの心の支えになるのをしみじみと感じる。安心してしまったからだろうか、腰かけていたベッドに身を投げ出してしまった。
一週間のあいだベッドにいたというのに、つかの間の安堵のなか、にじみ出る睡魔に負け、俺は眠りへと落ちてしまった。
ふと気がつくと、窓から陽が差し込んでるのがわかった。
夕焼けだろうか。数時間眠っていたらしい。慣れない足取りで館内を歩いた疲れだろう。やはり、体力が落ちているのかもしれない。
G―SHOCKを確認すると、八月一五日 午前五時二三分を指していた。
って、八月一五日?
午後三時から、次の日の朝まで寝入ってしまったのか。
俺は身を起こして、備えつけの冷蔵庫の扉をあけた。しかし、中にはミネラルウォーターのペットボトルが一つ入っているだけだった。
この居住区画に食堂があったな。
七時半に開くんだったか。とはいえ、昨日の午後三時からなにも腹に入れていないんだ。それまで待てそうにない。たしか昨日、カロリーメイトみたいな黄色いケースの自販機を見かけたよな。
カロリーメイトなのかよ……。すげえな大塚製薬。
それだけではない。ほかにも現実世界と同じメーカーの商品が自動販売機に並んでいた。とりあえず、カロリーメイトのグレープフルーツ味を確保する。購入の方法だが、自販機に備えつけられている生体認証装置が反応することで、購入したものが自動的に精算される仕組みらしい。購入できたということは、すでに俺の生体認証が登録されているということだ。真柄先生曰く、俺の認証で支払ったお金は、研究所が立て替えてくれるらしい。
カロリーメイトを片手に、レクリエーションルームのベンチへと移動した。
腰かけたベンチの窓から見える景色に海が見える。
すでに陽が昇った青空が見ていて気持ちよかった。
上着のポケットから スマートフォンを取り出し、電源ボタンを押してみる。しかし、やはり起動することはなかった。そのままスマホをベンチに置いて、カロリーメイトの箱をあける。
そういえば、飲み物もいっしょに買うべきだったな。
とはいっても、また自販機まで戻るのも面倒くさい。まあ、子供のころからカロリーメイトを水無しで食べられるという特技を自然と身につけていたため、このまま食べても問題ないのだが。ちなみにこれが特技だと気づいたのは、中学時代、俺のカロリーメイトを食す光景に、驚いた友達がツッコミを入れてきたからだった。
ふと、疑問がかすめた。
八月七日のあの生体認証付きの改札機を、俺はなにごとも無く通り過ぎることができた。あれはなんだったんだ? さっきの自販機の生体認証はわかる。ここ一週間のあいだに研究所のほうで登録してくれたのだろうから。しかし、改札機の場合は、この世界に来て直後のことだ。理屈が合わない。
いつのまにか横に、入院服を着た子供が座っていた。
子供?
その子供は、小学生くらいの見た目だったが、髪の毛が無いため性別がハッキリしなかった。それよりもそもそも、なんで子供がここにいるんだ?
足をぶらぶらさせながら、窓の外の景色を見ていた。
俺が見ているのに気づいたらしい。ぶらつかせた足はそのままに、俺の顔を見上げ見つめた。……いや、その子が見つめていたのは、正確には俺の手にある食べかけのカロリーメイトだった。
俺は、食べかけのグレープフルーツ味のブロックを、左右に動かしてみた。子供は俺の手の動きに合わせて左右に目で追う。
「なんだ? これ、食べたいのか?」
子供はこくりとうなずいた。
もしここでこの子供に俺の食料の半分をあげたとすると、俺の腹具合的にはとても中途半端な状態に陥ってしまうだろう。とはいえ、自販機に戻るには、それまた面倒だ。しかも、まだ足腰の調子が戻っていないため、億劫さがふだんより二倍増しだった。
「グレープフルーツ味だぞ」
子供はまたこくりとうなずいた。
チッ。こいつはよりによってグレープフルーツ味が好きなのか。……仕方がない。
俺は観念して、箱にあるもう一袋を差し出した。
子供はそれを受け取ると、器用に袋をあけ、ブロックの一つを取り出してぼりぼりと頬張りはじめた。
やけにうまそうに食うなコイツは。
「人からものをもらったら、ちゃんと「ありがとう」って言うんだぞ。って、おまえもカロリーメイト、水無しで食えるのか」
子供はこくりとうなずきながら、むしゃむしゃと一ブロック目を平らげた。そしてすぐさま二つ目のブロックを頬張りはじめる。
柳井さんまでとは言わないまでも、この早食いといい、こいつには妙に親近感が湧いてしまう。にしても、カロリーメイトを水無しで食えるってのは、自分が食うぶんには気にならないものだが、人が食べているのを見ると妙に喉が渇いてしまうな。
「なあ、なにか飲み物欲しくないか? ちょっと自販機まで行って買ってやるから、飲みたいものを言ってみろ」
もぐもぐしながら俺の顔を見上げた子供は、そのままの状態で意思伝達を試みた。
「ぼば、ぼーら」
「口にものを入れたまましゃべるんじゃねえ」
まあ、なにが欲しいかはわかった。
「ほんじゃここで待ってろ。買ってきてやるから」
坊主頭を撫でてやりながら、俺は立ち上がった。二、三歩歩き出したところで、うしろから声が聞こえてきた。
「ばびばとう」
自販機で、コカ・コーラを二つ買ったあと、さっきのベンチまで戻った。が、そこにはもう誰もいなかった。いや、ベンチに置き忘れていた俺のスマートフォンだけがそこにあった。
「……ったく、二本も飲めねえぞ」





