14-02 これで、首の……頸動脈を切れってことか
現実世界に帰ってきたような明晰夢から醒める磯野。目覚めた場所は四方の壁と天井が真っ白の「白い部屋」だった。磯野は外に出ようとするが扉は見つからず――
抜け切らない重さと痛みがべっとりとこびりつき、俺の足をもつれさせた。壁に手をつけて立ち上がり、ドアとの境い目を見つけるために、その壁に手を這わせながら、一歩、一歩と、進んでいった。
点滴ポールにつながれた容器が目に入る。
容器の中身はあと三割程度だった。
もし三日ちかく経過していたのなら、そのあいだの点滴液の交換だって、何度もあったはずなんだ。それなら、人の出入りだってある。どこかにかならず外へつづくドアがあるはずなんだ。もっと慎重に、丁寧に探すんだ。見落としてる場所があるはずだ。そうだよ、見落としている場所が……。
柔らかいシーツに体を沈みこませながら、俺は白い天井を見ていた。左腕には点滴が打たれ、その容器にある点滴液の量は七割になっていた。
いつのまに、気を失っていたのか。
顎を触ると、また半日が経過しているようだ。
外光が無いため、正確な時間は解らない。この部屋の出口を見つけるには、俺の意識がはっきりしているあいだに、点滴と、おそらく下の世話のために誰かが入室してくるタイミングを待ちかまえなければならない。
容器の中の液体が、一滴、一滴と管の中へ滑り落ちていく。
入室のタイミングはいつになるんだろう。このまま待ち続けなければならないのだろうか。この瞬間も一刻一刻と過ぎていく時間が、すべてを手遅れにしていくような予感となって、どうしようもない焦りを俺のこころに積もらせていく。
思考できるくらいに頭がハッキリとしてくると、彼女を失った光景が、またも頭の中で再生されはじめた。そのたびに込み上げてくる感情の渦が、俺の胸をまたもや切り刻んでいった。吐ききれない吐き気に苛まれながら、これがトラウマというものなのだろうと悟ったところで、そいつは俺の体を、現実的にも感情的にもどうにもならないという諦めへと染めていった。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
疲労という名の生理的感覚が全身を覆い、世界を閉じていく。なにも出来ないという絶望が、俺という人間を無力にしていった。朦朧とした意識の中、いつのまにかまた点滴液が満たされていることに気づき、機を逸したことを知る。
「……また、来たのか」
つぎの接触へ挑むだけの気力が、俺にはあるのか?
「前に進むんだ。意識を――」
自分に言い聞かせるように、頭を振った。
左へ、右へと視界が揺れていくなか、見かけないものが映り込んだことに気づく。
そこへ焦点を合わせると、ベッドの前方二メートルに白いテーブルが置かれていた。その上に、銀色のトレイがある。そして、その中になにかがある。
俺は上体を起こし、以前よりもまた動かしやすくなった腰をあげた。
数歩、歩く。
テーブルにたどり着く前に、すでにトレイのなかにあるものが、なんであるのか解った。
それは、メスだった。
そして、なぜそれが置かれているのかも、理解できた。
「これで、首の……頸動脈を切れってことか」
そう声に出し、あたりを見回す。
こんなことをして、監視していないほうがおかしい。
俺に自殺をうながすようなことをする意味は、一つしか無い。
――こいつらは、俺が死んだとしても、俺が生きている世界に収束していくのを知っている。
知っていて、それを観たいんだ。
俺に対するこの悪趣味な試みは、それでも八方塞がりだった俺に一つの選択肢を与えた。これまで二度死んでいるが、その重なりあう記憶の中に彼女が生き残っている事実は無い。
もし、ここで俺が死ねば、あの霧島榛名が生きている世界線へ収束される可能性を得られる。
そう、俺にとっても都合がいい。
確実ではない。けれど、試してみる価値はある。
いまだ死ぬことになど慣れてなどいないが、
俺は自分を殺しても死ぬことはない。
だから、自殺などたいしたことじゃない。
彼女を救えるのだから。
こころに浮かんだ結論を数度、反芻する。
俺は、トレイからメスを取り上げた。
手にした金属のひんやりとした感触が、俺がこれからやることに現実味を帯びさせ、怯ませる。一度、大きく息を吐いて、つかんだ右手の震えを止めようとする。
考えすぎるな。
俺は二度、死んでいるんだ。
右手を添えて、鋭い金属を首に近づけようとする。
一気にいけ。躊躇うな。
――彼女を救うんだ。
メスの刃が首筋へと当たったところで、突然、強烈な情動が俺のなかで湧き上がった。
――たくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない――
震える両手に無理やり力を入れようとする。
だが、俺のこころの声は止まらない。
――れ。黙れ。黙れ。黙れ。黙れ。彼女を救うんだ。黙れ。黙れ。お願いだ。黙ってくれ。決意を揺るがすな。黙れ。黙れ――
「黙ってくれよおおおおおおおおお!!」
涙がボロボロと溢れ、頬を伝ってとめどなく流れ落ちていく。両手でつかんでいたはずのメスを取り落とし、嗚咽に息を詰まらせる。
「……お願いだ。彼女を……救わせてくれ」
俺は床に手を突いた。頭を垂れながら、怒りと無力さが混ぜこぜになったものを吐き出せもせずに――
「俺は……人ひとり救うことも出来ないのか」
またベッドの上だった。
俺を覆っていく虚無に身を晒しながら、無為に時が過ぎていく。
ここに運び込まれたときに見た、現実のようなあの夢をもう一度見られないだろうか。夢でいい。夢でいいからみんなの顔が見たい。つぎ眠りから目覚めたら、何事も無かったかのように、現実のあと世界に目覚められないだろうか。
ゆっくりと、まぶたを閉じる。
意識の無い時間が、俺にとって唯一の救いになってしまった。
夢の世界に行こう。ここでは無い別の場所へ。わずかでもいい。この世界を忘れられる場所へ。
肩を、揺さぶられた。
その揺れが、俺を現実の世界へと引き戻す。
意識が覚醒していくのと同時に、視界もまた、クリアになっていく。左肩に手が置かれ、俺を覗き込んでくる男の顔が見えた。
「目が覚めたかい? 磯野君、一ヶ月ぶりだね」
俺は、聞き取ることのできる言葉で話しかけてくるその人物を見て、驚き、思わずその白衣に顔を埋めた。
「大丈夫。もう、大丈夫だ」
知っている人間がいるという安堵感が、これまで抱えてきた重圧を溶かし、その反動がとめどない嗚咽となった。俺は顔を上げ、引きつった声のまま、白衣のその人に言った。
「……ありがとう……ございます。真柄先生」





