1-1 知らない森で、知らない私と知らない誰か
(水……)
意識を取り戻した瞬間、エツ子は強烈な渇きに苛まれた。
ついこの前ネイルに行ったばかりのはずなのに、何故か短く整えられた素爪に戻っていたり。
ちらちらと視界に入る自分の髪が、何故か緩く波打つ綺麗なエメラルドグリーンだったり。
おかしなことは他にもたくさんあったけれど、今はとにかく喉が乾いて仕方がない。
(あたま、くらくらする……)
徹夜明けのようにひどく頭が重だるかった。
見覚えのない景色がぐるぐると回っていて気持ちが悪い。
森か林かはわからないが、周囲にはたくさんの木々が生い茂っていた。
樹木に関心がないエツ子にはどれも同じ「木」としか認識できない。
キーンという不快な耳鳴りと、鳥のさえずり、風で枝葉が揺れる音などが混じり合い、地味にダメージが蓄積していく。
(のど、かわいた……おなかすいた……)
原始的な欲求に頭の中が支配される。
立ち上がる気力も体力もないエツ子は、それでもどうにか力を振り絞って地面をずりずりと這う。
行くあてはなかったが、どこからか風に乗って芳しい香りがした。
炊きたてのご飯や焼き立てのパンのような、食欲を刺激する匂い。
だが、その香りに近付こうとしても身体がうまく動かなかった。
普段なら気に留めることのない、地面からわずかに露出した木の根が行く手を阻む。
穏やかなはずの木漏れ日が、真夏の日光のように目や肌に突き刺さる。
美味しそうな香りがだんだんと薄れていき、土と青臭い葉っぱの匂いばかりが鼻につく。
(今どき日本で行き倒れとか、どういうこと……?)
突然自分に降り掛かった不運を呪う。
どうして自分が森と思しき場所で乾きと空腹で倒れているのか。
栄養の足りない頭では見当もつかない。
(……あ、やば……)
エツ子の視界に白い砂粒が舞った。
前に一度経験がある。小学校の頃、熱中症で倒れた時と同じだった。
数秒もしないうちに視界が白い点で埋め尽くされ、その後、
がんっ! と幕を下ろされたかのように目の前が真っ暗になる。
「──おいっ、大丈夫か?」
どこかから聞こえてくる、若干の焦りが滲んだ声。
――全然大丈夫じゃないです。
誰かの声に対し、そう答えたつもりだった。
エツ子の喉からはひゅうひゅうと空気のかすれる音しか出ていない。
息を吐き出すだけでも肺が潰れるように痛む。
こんなにも身体の色んな場所で不調があるなんて、空腹で行き倒れているだけではないのかもしれない。
(いやだ……待って……)
得体の知れない不安から、エツ子の全身が小刻みに震えた。目の奥の方がじくじくと熱く痛む。
誰かはわからないが、このまま見捨てられては困る。
エツ子が震える手を懸命に伸ばすと、大きな手に包まれた。
何かを伝えるようにぎゅっと握られる。
知らない手、知らない体温なのに、エツ子の胸に込み上げてくるものがあった。
安心感からか、涙がこぼれそうになる。
「取りあえず、これを飲め」
低音だが聞き取りやすい、落ち着いた声だった。
エツ子の口元にひやりとした固い物が押し当てられる。
砂糖水のようにとろりと甘い液体が口の中に入ってきた。
必死にそれを飲み下そうとしたが、今の自分にはその力すらなかった。むせて吐き出してしまう。
しかし、いくらか水分を取れたおかげか、エツ子の視界にほんの少しだけ色が戻った。
木々の緑と、黒い塊。
何度かまばたきを繰り返すと、黒い塊は黒づくめで黒髪の男性の姿になった。
顔のパーツはぼやけていてよく見えないが、黒髪の男性が不機嫌そうに眉をひそめているのはわかった。
男性は眼鏡のブリッジを押さえ、大きくため息をついた。
「……失礼、苦情は後で受け付ける」
液体の入った小瓶を呷ると、男性は不躾にエツ子の顎をつかんだ。
顔を上向かせ、蓋をするように唇を重ねる。
それは、キスと呼ぶにはあまりにも事務的だった。
「っ! ……ん、ぐっ……」
反射的に上げた抗議の声は、塞がれた唇の奥でくぐもった音にしかならない。
その間に、先ほどと同じ砂糖水がエツ子の口に強制的に流し込まれる。
今度はむせることなく食道を下り、身体の内側に染みわたりながら胃まで落ちていく。
唇が離れた瞬間、一陣の風が吹き抜け、世界が鮮やかに色付いた。
きっちりと後ろに撫でつけられた艶のある黒髪。
怜悧なブルーグレーの瞳と、それを縁取る長いまつ毛。
眉間に寄った皴まではっきりと見える。
「だ……れ……」
いきなり何すんのよ! とか、助けてくれてありがとう、よりも先に、エツ子の口から疑問がついて出ていた。
男性は目を見開き、唇を微かに動かす。
「……何故、君は――」
肝心の部分が聞き取れない。
風に容易く流されるほど男性の声は小さかった。
(なんて、言ったの……?)
エツ子は男性の態度に違和感を覚えたが、その正体を確かめる前に視界がぐらりと揺れた。
再び世界から色が失われ、黒い幕が下りる。
エツ子が完全に意識を失う直前、頬を叩かれる感触と、何かを叫ぶ男性の声が遠くで聞こえた。
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