観察不能なノイズになった結果、さらに溺愛されました
黒焦げになった実験室の中央で、カイル・アークライトの探究心は、かつてないほど燃え上がっていた。
壊れた魔導計算機からは煙が立ち上り、床には砕けた魔石と歯車が散乱している。
助手たちが慌ただしく消火に走る中、カイルだけは、ひび割れた観測画面を食い入るように見つめていた。
「君の生活維持に必要なルーティンが、完全に崩壊している……」
画面に表示されたエレノアの最新データは、どれも過去十年間の記録から大きく外れていた。
起床時間。
服装。
行動範囲。
運動量。
笑顔の種類。
そのすべてが予測不能でだった。
「このままでは、君の健康状態が未知の領域に突入する可能性がある」
カイルは静かに立ち上がった。
煤で汚れた銀色の髪を払いもせず、周囲の助手たちへ命じた。
「魔塔の観測用魔導具を、すべてエレノアの監視と保護に回す」
「すべてですか!?」
「全リソースを投入する。必要なら私の魔力も使え」
「ですが、現在進行中の研究が――」
「エレノアより優先すべき研究があるのか?」
「ございません!」
助手たちは即座に姿勢を正した。
こうしてエレノアのノイズ作戦は、婚約者を諦めさせるどころか、彼の異常な使命感へ盛大に火をつけてしまった。
カイルには、エレノアの行動が自分の監視に対する抗議であるという事実が、欠片ほども伝わっていなかった。
むしろ彼は、未知の異常に襲われた愛する婚約者を救わねばならないと、本気で思い込んでいたのである。
◇
翌日。
エレノアは淑女の嗜みである刺繍を放り出し、屋敷の庭で木刀を振っていた。
兄から借りた乗馬用のズボンを穿き、髪も簡単に一つに結んでいる。
「やあっ!」
掛け声とともに、木刀が空を切る。
剣術の型など知らない。
ただ思い切り腕を振り、汗を流すだけで楽しかった。
「こんなに気持ちがいいなんて……!」
その頭上では、昨日より数を増した小型観察機の群れが、彼女の動きを懸命に追っていた。
一機が腕の角度を測り、もう一機が心拍数を記録し、さらに別の一機が発汗量を測定している。
別の一機が発汗量を測定している。
「増えているではありませんか!」
エレノアは木刀を振り上げ、観察機を追い払った。
しかし魔導具は素早く距離を取り、一定の間隔を保ったまま観測を続ける。
次の日。
エレノアは巨大なキャンバスを庭へ持ち出した。
本来なら高価なドレスを汚さぬよう、筆先だけで丁寧に描くところだが、今日は違う。
「もう、どうにでもなりなさい!」
両手を絵の具に突っ込み、素手でキャンバスを塗りたくる。
青。
赤。
黄色。
思いつくまま、感情のままに色を重ねていく。
結果として完成したのは、何を描いたのか本人にも説明できない、前衛的すぎる抽象画だった。
さらに別の日には、庭の土を掘り返し、巨大な粘土細工を作り始めた。
それが馬なのか、鳥なのか、あるいは魔物なのかは、誰にも分からない。
「お嬢様、それは一体……」
侍女がおそるおそる尋ねる。
「自由です」
「作品名でしょうか」
「私の心境です」
屋敷の使用人たちは、何も言えなくなった。
ほどなくして、エレノアの奇行は社交界の噂になった。
「あの完璧な侯爵令嬢が、庭で木刀を振り回しているらしい」
「高価なドレスを絵の具まみれにしたそうよ」
「今度は泥をこねているとか」
「ご乱心ではなくて?」
「婚約者のカイル様は、何もおっしゃらないのかしら」
むしろ、その婚約者こそが原因である。
だが、エレノアは気にしなかった。
周囲の目を恐れず、自分の好きなことをするのは、想像していた以上に楽しかった。
長い間、完璧な侯爵令嬢であろうとするあまり、彼女は自分が何を好きなのかさえ忘れていたのだ。
けれど、一つだけ大きな問題があった。
「なぜ観察機が、日に日に増えていくのですか……!」
今や庭の上空には、十を超える小型魔導具が飛び交っていた。
まるで渡り鳥の群れである。
エレノアが睨みつけた、そのときだった。
空から、強烈な魔力の気配が降ってくる。
「エレノア!」
聞き慣れた声に、彼女は顔を上げた。
カイル本人が、空中浮遊用の魔導板に乗って急降下してくる。
魔導板は彼が最近開発した試作品らしく、細長い板の下で青白い魔力光が激しく明滅していた。
「カイル様!?」
「動かないでくれ!」
血相を変えたカイルが、エレノアの目の前で急停止する。
止まり切れなかった魔導板が地面を削り、庭の土を盛大に巻き上げた。
「君の肉体データと魔力波長、それから、この前衛的すぎる芸術性を分析した結果、精神状態が予測不能な危険域に達している!」
「前衛的すぎる芸術性とは何ですか!」
「私の計算式では、現在の君は予測不能な狂気の境界線を突破しかけている!」
「失礼にもほどがありますわ!」
エレノアは泥だらけの手から粘土を落とし、冷たい目で婚約者を見上げた。
「ですから、私を観察するのをやめてくださいと、何度も申し上げているでしょう」
カイルは目を見開いた。
「それはつまり……」
嫌な予感がした。
「データ収集の対象としてではなく、純粋な愛の対象として私に見つめられたいという、高度な逆関数要求なのか?」
「どこをどう計算したらそうなるのですか!」
エレノアの怒声と同時に、彼女を取り囲んでいた観察機が一斉に警告音を鳴らした。
《感情波形、測定範囲超過》
《複数の感情が同時発生》
《怒り、呆れ、困惑の分類に失敗》
次の瞬間、観察機の一つが火花を散らした。
それにつられるように、別の機体も次々と停止する。
「未知の感情波形だ……!」
カイルが感動に目を輝かせた。
「エレノア、今の感情をもう一度――」
「再現を求めないでください!」
エレノアの叫びに気を取られ、カイルは魔導板の上でバランスを崩した。
「あ」
「え?」
魔導板が大きく傾く。
カイルの身体が宙へ投げ出され、そのまま花壇の真ん中へ落下した。
ガサッ。
ドスン。
土と花びらが舞い上がった。
「カイル様!」
エレノアが駆け寄る。
花壇の中で、カイルは目を回していた。
美しい銀髪には葉が絡まり、頬も礼服も泥だらけである。
普段は冷静で完璧な魔塔の主とは思えない、あまりにも情けない姿だった。
エレノアはしばらく無言で彼を見つめた。
そして、ついに悟った。
この男には、皮肉も遠回しな拒絶も通じない。
普通の人間なら察することも、数式へ置き換えた瞬間、すべて斜め上の結論へ変換されてしまう。
ならばもう、飾らずに本音をぶつけるしかない。
エレノアはカイルの前へしゃがみ込んだ。
「いいですか、カイル」
泥だらけの彼の襟元を掴み、真っすぐに睨みつける。
「私の私生活を観察する暇と魔力があるなら、その膨大なリソースを魔塔の仕事に使ってください!」
「エレノア……」
「私は、一人で馬に乗りたいのです。好きな絵を描いて、泥まみれになって、誰にも測定されずに眠りたいのです!」
エレノアの声が庭に響く。
「公務はします。婚約者としての役割も果たします。ですが、私生活まで四六時中見張られるのは嫌です!」
カイルは、呆然と彼女を見つめていた。
「私のことを愛しているのなら、放っておいてください!」
言い切った瞬間、エレノアの目に涙が浮かんだ。
怒っているのか、悔しいのか、自分でも分からない。
ただ、長い間我慢していたものが、堰を切ったように溢れ出したのだ。
カイルはゆっくりと身体を起こした。
そして、珍しくすぐには何も言わなかった。
手元の測定器へ目を向けることもない。
ただ泣きそうなエレノアの顔を、黙って見つめている。
「……分かった」
やがて、カイルが言った。
「本当に?」
「君が望むのなら、私生活の観察はやめる」
エレノアは目を瞬いた。
あまりにも素直な返事に、逆に疑ってしまう。
「観察機も、外してください」
「分かった」
「寝具の測定機能もです」
「解除しよう」
「衣服や部屋に、他の魔導具を仕込んではいませんね?」
一瞬の沈黙。
「カイル」
「……三つほどある」
「全部外してください!」
「分かった」
エレノアは大きく息を吐いた。
ようやく伝わった。
長い戦いの末、初めて彼の異常な監視を止めることができたのだ。
だが、カイルはどこか不安そうだった。
泥のついた指先を見つめ、珍しく言葉を選んでいる。
「ただ、一つだけ条件がある」
「条件?」
「一日一度でいい。君が無事であることを、私に知らせてほしい」
先ほどまでの理屈に満ちた声ではなかった。
静かで、頼りなく、幼い子供のような声だった。
「それだけで構わない。君の体温も、脈拍も、魔力波長も必要ない。ただ、今日も無事だと、君の言葉で聞かせてほしい」
エレノアは、その言葉に答えられなかった。
◇
数日後。
エレノアは魔塔の執務室で、山のような書類を処理していた。
カイルは宣言どおり、私生活の観察をやめた。
自室の鳩時計からは測定機能が取り外され、安眠枕も普通の枕へ作り直された。
屋敷の上空を飛び回っていた観察機も、一機残らず姿を消した。
その代わり、エレノアは一日の終わりに、短い手紙を魔塔へ送るようになった。
『今日も元気です』
たったそれだけである。
だが、カイルはその一文を受け取るたび、何より大切そうに保管していた。
「エレノア」
隣から声を掛けられ、エレノアは顔を上げた。
カイルが、彼女の手元の書類を見ている。
「今日の署名速度は一枚につき平均二・四秒だ。昨日より〇・一秒――」
エレノアが無言で睨む。
「……いや」
カイルは咳払いをした。
「順調そうだね」
「今、測定していましたね?」
「公務中のみという約束だ」
「そうでしたわね」
エレノアは苦笑した。
彼の観察癖が完全に消えたわけではない。
ただし、現在は公務中に限り、彼女の作業を効率化するためだけに使われている。
書類の分類。
休憩時間の管理。
室温や照明の調整。
以前のように一方的に押し付けるのではなく、エレノアに確認を取るようにもなった。
それは、彼なりの大きな進歩だった。
隣を見ると、カイルはエレノアの手元へ視線を向けながら、どこか満足そうに微笑んでいた。
額には、作業へ集中しすぎたためか、うっすらと汗が滲んでいる。
(本当に、この人はどうしてここまで私にこだわるのかしら)
呆れ半分で彼を見つめていた、そのとき。
エレノアの脳裏に、遠い日の記憶が蘇った。
あれは、彼女が八歳の頃。
エレノアは、致死率の高い魔力熱という流行り病に倒れた。
高熱は何日も続き、医師からも今夜が峠だと告げられた。
意識が朦朧とする中、ベッドの傍らにはいつも幼いカイルがいた。
当時、わずか九歳。
まだ魔塔の主でも、天才魔術師でもなかった少年は、何冊もの魔術書をベッドの周りに広げていた。
寝食を忘れ、目の下に酷い隈を作りながら、震える手でエレノアの状態を書き留めている。
『お願いだ、エレノア』
幼いカイルは、泣きそうな顔で彼女の手を握っていた。
『呼吸を止めないで』
彼はエレノアの脈を取り、体温を測り、魔力の揺らぎを何度も確認していた。
『僕が必ず、君の魔力を安定させる術式を見つけるから』
必死に涙をこらえながら、カイルは何度も同じ言葉を繰り返した。
『君の脈拍も、体温も、魔力波長も、全部僕が記録する。小さな異変も見逃さない』
そのときカイルが初めて完成させた魔導具が、エレノアの呼吸と心拍を監視し、異常があれば医療魔術を起動させる装置だった。
少年は、それを命綱と呼んだ。
(……ああ、そうだったわ)
エレノアは羽ペンを止めた。
カイルの常軌を逸した監視とデータ収集。
その根底にあるのは、冷酷な探究心ではない。
愛する人を、また失うかもしれないという恐怖。
彼はエレノアが生きていることを、健康であることを、絶対的な数値として確認し続けなければ、安心できなかったのだ。
天才でありながら。
不器用で。
臆病で。
子供の頃の恐怖を、今も手放せずにいる。
その事実に気づいた瞬間、エレノアの胸に込み上げたのは、これまでの苛立ちでも、恐怖でもなかった。
「……ふふっ」
静かな執務室に、小さな笑い声がこぼれる。
完璧な淑女の微笑みではない。
素の、柔らかな笑いだった。
「何をしているのよ、このお馬鹿さん」
「え?」
カイルが顔を上げる。
エレノアは口元を押さえたが、笑いは止まらなかった。
愛の証明を数字に求め、自分のすべてを把握しようと必死になる、この不器用で大真面目な魔塔の主が、たまらなく愛おしく思えた。
自分の頬が熱くなっていく。
(私、どうかしているわ)
あれほど嫌だった重すぎる愛の理由を知り、あろうことか、その不器用さを可愛いと思い始めている。
それは、監視されていたときとは別の意味で、非常に危険な変化だった。
「エレノア!」
カイルの手元に置かれていた公務用の測定器が、軽快な音を鳴らす。
「今の笑い声と表情筋の弛緩率は、幸福度九八パーセントを示している!」
彼は椅子を寄せ、勢いよくエレノアの顔を覗き込んだ。
「原因は何だ? 直前の私の発言か? それとも室温が適切だったからか?」
「さあ、どうでしょう」
「今の感情変化は、通常の公務データとして記録しても?」
「駄目です」
「では、個人的な研究記録として――」
「もっと駄目です」
エレノアは笑いながら、カイルの人差し指をそっと握った。
そのまま彼の口元へ押し当て、言葉を止める。
「内緒ですわ、カイル」
カイルは目を見開いた。
測定器が、再び小さな音を鳴らす。
けれど、その数字が何を示しているのかを確認するより先に、エレノアは測定器の上へ書類を重ねた。
(その原因はね)
心の中で、彼にだけ聞こえない声を呟く。
(私があなたを、心の底から愛おしいと思ったからよ)
けれど、それだけは教えない。
どれほど優秀な魔導具でも、彼女が自ら隠した恋心の奥までは測れない。
それが、振り回され続けたエレノアなりの、ささやかな復讐だった。
「エレノア」
カイルは口元を押さえられたまま、真剣な目で彼女を見つめている。
「何ですか?」
「愛している」
あまりにもまっすぐな言葉に、エレノアの指がわずかに揺れた。
「君の公務における最適解と、最高の作業環境を、今後も全魔力と全リソースを使って支えたい」
「……愛の告白に、公務を混ぜないでください」
「では訂正する」
カイルはエレノアの手を取り、指先へそっと唇を寄せた。
「君が自由に笑っていられるように、私は君を支えたい」
エレノアは目を瞬いた。
数式も。
関数も。
分析結果もない。
ただの言葉だった。
「それなら、及第点ですわ」
エレノアは微笑んだ。
自由を求めた侯爵令嬢の逃走劇は、こうして幕を閉じた。
婚約は破棄されず。
変人魔術師の愛も、軽くはならなかった。
けれどエレノアは私生活の自由を手に入れ、カイルもまた、データではなく言葉で彼女を信じることを、少しずつ覚え始めた。
もちろん、公務中は今も秒単位で測定されている。
「エレノア。休憩まで、あと三十二秒だ」
「そこまで細かく知らせなくても結構です」
「では三十秒前に改めて知らせよう」
「そういう意味ではありません!」
執務室に、エレノアの声とカイルの真面目な返事が響く。
完璧なデータでは予測できない、騒がしくも穏やかな日々。
それこそが二人にとって、最も幸福な異常値だった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
少し怖いほどのカイルのデータ収集癖。
その根底にあったのは、かつてエレノアを失いかけた恐怖でした。
彼なりにエレノアを守ろうとした結果、愛情表現がどこまでも不器用で、少しばかり……いえ、かなり重くなってしまったようです。
そんなカイルの想いを知り、呆れながらも放っておけなくなったエレノア。
完全に逃げることは諦めたものの、私生活の自由だけはしっかり勝ち取りました。
すれ違っているようで、どこか噛み合っている二人の勘違い恋愛劇を、くすりと笑っていただけましたら幸いです。
Ritaの世界観を少しでも楽しんでいただけましたら嬉しいです。
またいつか、二人のその後も書けたらと思っています。
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