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観察不能なノイズになった結果、さらに溺愛されました


黒焦げになった実験室の中央で、カイル・アークライトの探究心は、かつてないほど燃え上がっていた。


壊れた魔導計算機からは煙が立ち上り、床には砕けた魔石と歯車が散乱している。


助手たちが慌ただしく消火に走る中、カイルだけは、ひび割れた観測画面を食い入るように見つめていた。


「君の生活維持に必要なルーティンが、完全に崩壊している……」


画面に表示されたエレノアの最新データは、どれも過去十年間の記録から大きく外れていた。


起床時間。


服装。


行動範囲。


運動量。


笑顔の種類。


そのすべてが予測不能でだった。


「このままでは、君の健康状態が未知の領域に突入する可能性がある」


カイルは静かに立ち上がった。


煤で汚れた銀色の髪を払いもせず、周囲の助手たちへ命じた。


「魔塔の観測用魔導具を、すべてエレノアの監視と保護に回す」


「すべてですか!?」


「全リソースを投入する。必要なら私の魔力も使え」


「ですが、現在進行中の研究が――」


「エレノアより優先すべき研究があるのか?」


「ございません!」


助手たちは即座に姿勢を正した。


こうしてエレノアのノイズ作戦は、婚約者を諦めさせるどころか、彼の異常な使命感へ盛大に火をつけてしまった。


カイルには、エレノアの行動が自分の監視に対する抗議であるという事実が、欠片ほども伝わっていなかった。


むしろ彼は、未知の異常に襲われた愛する婚約者を救わねばならないと、本気で思い込んでいたのである。



翌日。


エレノアは淑女の嗜みである刺繍を放り出し、屋敷の庭で木刀を振っていた。


兄から借りた乗馬用のズボンを穿き、髪も簡単に一つに結んでいる。


「やあっ!」


掛け声とともに、木刀が空を切る。


剣術の型など知らない。


ただ思い切り腕を振り、汗を流すだけで楽しかった。


「こんなに気持ちがいいなんて……!」


その頭上では、昨日より数を増した小型観察機の群れが、彼女の動きを懸命に追っていた。


一機が腕の角度を測り、もう一機が心拍数を記録し、さらに別の一機が発汗量を測定している。


別の一機が発汗量を測定している。


「増えているではありませんか!」


エレノアは木刀を振り上げ、観察機を追い払った。


しかし魔導具は素早く距離を取り、一定の間隔を保ったまま観測を続ける。


次の日。


エレノアは巨大なキャンバスを庭へ持ち出した。


本来なら高価なドレスを汚さぬよう、筆先だけで丁寧に描くところだが、今日は違う。


「もう、どうにでもなりなさい!」


両手を絵の具に突っ込み、素手でキャンバスを塗りたくる。


青。


赤。


黄色。


思いつくまま、感情のままに色を重ねていく。


結果として完成したのは、何を描いたのか本人にも説明できない、前衛的すぎる抽象画だった。


さらに別の日には、庭の土を掘り返し、巨大な粘土細工を作り始めた。


それが馬なのか、鳥なのか、あるいは魔物なのかは、誰にも分からない。


「お嬢様、それは一体……」


侍女がおそるおそる尋ねる。


「自由です」


「作品名でしょうか」


「私の心境です」


屋敷の使用人たちは、何も言えなくなった。


ほどなくして、エレノアの奇行は社交界の噂になった。


「あの完璧な侯爵令嬢が、庭で木刀を振り回しているらしい」


「高価なドレスを絵の具まみれにしたそうよ」


「今度は泥をこねているとか」


「ご乱心ではなくて?」


「婚約者のカイル様は、何もおっしゃらないのかしら」


むしろ、その婚約者こそが原因である。


だが、エレノアは気にしなかった。


周囲の目を恐れず、自分の好きなことをするのは、想像していた以上に楽しかった。


長い間、完璧な侯爵令嬢であろうとするあまり、彼女は自分が何を好きなのかさえ忘れていたのだ。


けれど、一つだけ大きな問題があった。


「なぜ観察機が、日に日に増えていくのですか……!」


今や庭の上空には、十を超える小型魔導具が飛び交っていた。


まるで渡り鳥の群れである。


エレノアが睨みつけた、そのときだった。


空から、強烈な魔力の気配が降ってくる。


「エレノア!」


聞き慣れた声に、彼女は顔を上げた。


カイル本人が、空中浮遊用の魔導板に乗って急降下してくる。


魔導板は彼が最近開発した試作品らしく、細長い板の下で青白い魔力光が激しく明滅していた。


「カイル様!?」


「動かないでくれ!」


血相を変えたカイルが、エレノアの目の前で急停止する。


止まり切れなかった魔導板が地面を削り、庭の土を盛大に巻き上げた。


「君の肉体データと魔力波長、それから、この前衛的すぎる芸術性を分析した結果、精神状態が予測不能な危険域に達している!」


「前衛的すぎる芸術性とは何ですか!」


「私の計算式では、現在の君は予測不能な狂気の境界線を突破しかけている!」


「失礼にもほどがありますわ!」


エレノアは泥だらけの手から粘土を落とし、冷たい目で婚約者を見上げた。


「ですから、私を観察するのをやめてくださいと、何度も申し上げているでしょう」


カイルは目を見開いた。


「それはつまり……」


嫌な予感がした。


「データ収集の対象としてではなく、純粋な愛の対象として私に見つめられたいという、高度な逆関数要求なのか?」


「どこをどう計算したらそうなるのですか!」


エレノアの怒声と同時に、彼女を取り囲んでいた観察機が一斉に警告音を鳴らした。


《感情波形、測定範囲超過》


《複数の感情が同時発生》


《怒り、呆れ、困惑の分類に失敗》


次の瞬間、観察機の一つが火花を散らした。


それにつられるように、別の機体も次々と停止する。


「未知の感情波形だ……!」


カイルが感動に目を輝かせた。


「エレノア、今の感情をもう一度――」


「再現を求めないでください!」


エレノアの叫びに気を取られ、カイルは魔導板の上でバランスを崩した。


「あ」


「え?」


魔導板が大きく傾く。


カイルの身体が宙へ投げ出され、そのまま花壇の真ん中へ落下した。


ガサッ。


ドスン。


土と花びらが舞い上がった。


「カイル様!」


エレノアが駆け寄る。


花壇の中で、カイルは目を回していた。


美しい銀髪には葉が絡まり、頬も礼服も泥だらけである。


普段は冷静で完璧な魔塔の主とは思えない、あまりにも情けない姿だった。


エレノアはしばらく無言で彼を見つめた。


そして、ついに悟った。


この男には、皮肉も遠回しな拒絶も通じない。


普通の人間なら察することも、数式へ置き換えた瞬間、すべて斜め上の結論へ変換されてしまう。


ならばもう、飾らずに本音をぶつけるしかない。


エレノアはカイルの前へしゃがみ込んだ。


「いいですか、カイル」


泥だらけの彼の襟元を掴み、真っすぐに睨みつける。


「私の私生活を観察する暇と魔力があるなら、その膨大なリソースを魔塔の仕事に使ってください!」


「エレノア……」


「私は、一人で馬に乗りたいのです。好きな絵を描いて、泥まみれになって、誰にも測定されずに眠りたいのです!」


エレノアの声が庭に響く。


「公務はします。婚約者としての役割も果たします。ですが、私生活まで四六時中見張られるのは嫌です!」


カイルは、呆然と彼女を見つめていた。


「私のことを愛しているのなら、放っておいてください!」


言い切った瞬間、エレノアの目に涙が浮かんだ。


怒っているのか、悔しいのか、自分でも分からない。


ただ、長い間我慢していたものが、堰を切ったように溢れ出したのだ。


カイルはゆっくりと身体を起こした。


そして、珍しくすぐには何も言わなかった。


手元の測定器へ目を向けることもない。


ただ泣きそうなエレノアの顔を、黙って見つめている。


「……分かった」


やがて、カイルが言った。


「本当に?」


「君が望むのなら、私生活の観察はやめる」


エレノアは目を瞬いた。


あまりにも素直な返事に、逆に疑ってしまう。


「観察機も、外してください」


「分かった」


「寝具の測定機能もです」


「解除しよう」


「衣服や部屋に、他の魔導具を仕込んではいませんね?」


一瞬の沈黙。


「カイル」


「……三つほどある」


「全部外してください!」


「分かった」


エレノアは大きく息を吐いた。


ようやく伝わった。


長い戦いの末、初めて彼の異常な監視を止めることができたのだ。


だが、カイルはどこか不安そうだった。


泥のついた指先を見つめ、珍しく言葉を選んでいる。


「ただ、一つだけ条件がある」


「条件?」


「一日一度でいい。君が無事であることを、私に知らせてほしい」


先ほどまでの理屈に満ちた声ではなかった。


静かで、頼りなく、幼い子供のような声だった。


「それだけで構わない。君の体温も、脈拍も、魔力波長も必要ない。ただ、今日も無事だと、君の言葉で聞かせてほしい」


エレノアは、その言葉に答えられなかった。



数日後。


エレノアは魔塔の執務室で、山のような書類を処理していた。


カイルは宣言どおり、私生活の観察をやめた。


自室の鳩時計からは測定機能が取り外され、安眠枕も普通の枕へ作り直された。


屋敷の上空を飛び回っていた観察機も、一機残らず姿を消した。


その代わり、エレノアは一日の終わりに、短い手紙を魔塔へ送るようになった。


『今日も元気です』


たったそれだけである。


だが、カイルはその一文を受け取るたび、何より大切そうに保管していた。


「エレノア」


隣から声を掛けられ、エレノアは顔を上げた。


カイルが、彼女の手元の書類を見ている。


「今日の署名速度は一枚につき平均二・四秒だ。昨日より〇・一秒――」


エレノアが無言で睨む。


「……いや」


カイルは咳払いをした。


「順調そうだね」


「今、測定していましたね?」


「公務中のみという約束だ」


「そうでしたわね」


エレノアは苦笑した。


彼の観察癖が完全に消えたわけではない。


ただし、現在は公務中に限り、彼女の作業を効率化するためだけに使われている。


書類の分類。


休憩時間の管理。


室温や照明の調整。


以前のように一方的に押し付けるのではなく、エレノアに確認を取るようにもなった。


それは、彼なりの大きな進歩だった。


隣を見ると、カイルはエレノアの手元へ視線を向けながら、どこか満足そうに微笑んでいた。


額には、作業へ集中しすぎたためか、うっすらと汗が滲んでいる。


(本当に、この人はどうしてここまで私にこだわるのかしら)


呆れ半分で彼を見つめていた、そのとき。


エレノアの脳裏に、遠い日の記憶が蘇った。


あれは、彼女が八歳の頃。


エレノアは、致死率の高い魔力熱という流行り病に倒れた。


高熱は何日も続き、医師からも今夜が峠だと告げられた。


意識が朦朧とする中、ベッドの傍らにはいつも幼いカイルがいた。


当時、わずか九歳。


まだ魔塔の主でも、天才魔術師でもなかった少年は、何冊もの魔術書をベッドの周りに広げていた。


寝食を忘れ、目の下に酷い隈を作りながら、震える手でエレノアの状態を書き留めている。


『お願いだ、エレノア』


幼いカイルは、泣きそうな顔で彼女の手を握っていた。


『呼吸を止めないで』


彼はエレノアの脈を取り、体温を測り、魔力の揺らぎを何度も確認していた。


『僕が必ず、君の魔力を安定させる術式を見つけるから』


必死に涙をこらえながら、カイルは何度も同じ言葉を繰り返した。


『君の脈拍も、体温も、魔力波長も、全部僕が記録する。小さな異変も見逃さない』


そのときカイルが初めて完成させた魔導具が、エレノアの呼吸と心拍を監視し、異常があれば医療魔術を起動させる装置だった。


少年は、それを命綱と呼んだ。


(……ああ、そうだったわ)


エレノアは羽ペンを止めた。


カイルの常軌を逸した監視とデータ収集。


その根底にあるのは、冷酷な探究心ではない。


愛する人を、また失うかもしれないという恐怖。


彼はエレノアが生きていることを、健康であることを、絶対的な数値として確認し続けなければ、安心できなかったのだ。


天才でありながら。


不器用で。


臆病で。


子供の頃の恐怖を、今も手放せずにいる。


その事実に気づいた瞬間、エレノアの胸に込み上げたのは、これまでの苛立ちでも、恐怖でもなかった。


「……ふふっ」


静かな執務室に、小さな笑い声がこぼれる。


完璧な淑女の微笑みではない。


素の、柔らかな笑いだった。


「何をしているのよ、このお馬鹿さん」


「え?」


カイルが顔を上げる。


エレノアは口元を押さえたが、笑いは止まらなかった。


愛の証明を数字に求め、自分のすべてを把握しようと必死になる、この不器用で大真面目な魔塔の主が、たまらなく愛おしく思えた。


自分の頬が熱くなっていく。


(私、どうかしているわ)


あれほど嫌だった重すぎる愛の理由を知り、あろうことか、その不器用さを可愛いと思い始めている。


それは、監視されていたときとは別の意味で、非常に危険な変化だった。


「エレノア!」


カイルの手元に置かれていた公務用の測定器が、軽快な音を鳴らす。


「今の笑い声と表情筋の弛緩率は、幸福度九八パーセントを示している!」


彼は椅子を寄せ、勢いよくエレノアの顔を覗き込んだ。


「原因は何だ? 直前の私の発言か? それとも室温が適切だったからか?」


「さあ、どうでしょう」


「今の感情変化は、通常の公務データとして記録しても?」


「駄目です」


「では、個人的な研究記録として――」


「もっと駄目です」


エレノアは笑いながら、カイルの人差し指をそっと握った。


そのまま彼の口元へ押し当て、言葉を止める。


「内緒ですわ、カイル」


カイルは目を見開いた。


測定器が、再び小さな音を鳴らす。


けれど、その数字が何を示しているのかを確認するより先に、エレノアは測定器の上へ書類を重ねた。


(その原因はね)


心の中で、彼にだけ聞こえない声を呟く。


(私があなたを、心の底から愛おしいと思ったからよ)


けれど、それだけは教えない。


どれほど優秀な魔導具でも、彼女が自ら隠した恋心の奥までは測れない。


それが、振り回され続けたエレノアなりの、ささやかな復讐だった。


「エレノア」


カイルは口元を押さえられたまま、真剣な目で彼女を見つめている。


「何ですか?」


「愛している」


あまりにもまっすぐな言葉に、エレノアの指がわずかに揺れた。


「君の公務における最適解と、最高の作業環境を、今後も全魔力と全リソースを使って支えたい」


「……愛の告白に、公務を混ぜないでください」


「では訂正する」


カイルはエレノアの手を取り、指先へそっと唇を寄せた。


「君が自由に笑っていられるように、私は君を支えたい」


エレノアは目を瞬いた。


数式も。


関数も。


分析結果もない。


ただの言葉だった。


「それなら、及第点ですわ」


エレノアは微笑んだ。


自由を求めた侯爵令嬢の逃走劇は、こうして幕を閉じた。


婚約は破棄されず。


変人魔術師の愛も、軽くはならなかった。


けれどエレノアは私生活の自由を手に入れ、カイルもまた、データではなく言葉で彼女を信じることを、少しずつ覚え始めた。


もちろん、公務中は今も秒単位で測定されている。


「エレノア。休憩まで、あと三十二秒だ」


「そこまで細かく知らせなくても結構です」


「では三十秒前に改めて知らせよう」


「そういう意味ではありません!」


執務室に、エレノアの声とカイルの真面目な返事が響く。


完璧なデータでは予測できない、騒がしくも穏やかな日々。


それこそが二人にとって、最も幸福な異常値だった。


ここまでお読みいただきありがとうございます。


少し怖いほどのカイルのデータ収集癖。

その根底にあったのは、かつてエレノアを失いかけた恐怖でした。


彼なりにエレノアを守ろうとした結果、愛情表現がどこまでも不器用で、少しばかり……いえ、かなり重くなってしまったようです。


そんなカイルの想いを知り、呆れながらも放っておけなくなったエレノア。

完全に逃げることは諦めたものの、私生活の自由だけはしっかり勝ち取りました。


すれ違っているようで、どこか噛み合っている二人の勘違い恋愛劇を、くすりと笑っていただけましたら幸いです。


Ritaの世界観を少しでも楽しんでいただけましたら嬉しいです。


またいつか、二人のその後も書けたらと思っています。


よろしければ、ブックマークや評価をいただけると、とても励みになります。


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