婚約破棄を申し出たのに、愛情表現だと解析されました
「カイル様。私、あなたとの婚約を破棄させていただきます」
エレノアが婚約破棄を告げた相手は、自室の壁に掛けられた鳩時計である。
ポッポー。
小窓から飛び出した木製の鳩は、婚約者であるカイル・アークライトの無表情を、腹立たしいほど精巧に再現していた。
「どこをどう解釈したら、そうなるのですか!」
彼女の婚約者は、百年に一人の天才であると同時に、百年に一人の変人でもあった。
◇
侯爵令嬢エレノア・フォン・クライス、十八歳。
金糸のように輝く髪は一糸乱れぬシニヨンに結い上げられ、細い腰を締めるコルセットから広がるシルクのドレスにも、わずかな皺一つない。
今日も鏡の前に立つ彼女の口元には、完璧な淑女の微笑みが浮かんでいた。
口角は十五度。
幼い頃から何度も練習させられた、侯爵令嬢として最も上品に見える角度である。
けれど、その優雅な微笑みの裏側で、エレノアは声にならない絶叫を上げていた。
(自由になりたい!)
山積みの公務書類。
息の詰まるような礼儀作法。
分刻みで組まれた社交予定。
そして何より――婚約者による、常軌を逸した観察。
そのすべてから逃げ出したかった。
エレノアの婚約者、カイル・アークライトは十九歳にして、国内最高峰の研究機関である魔塔を率いる天才魔術師だ。
銀色の髪に、氷のように澄んだ青い瞳。
魔術と魔導具開発において比類なき才能を持ち、その容姿も地位も申し分ない。
二人の婚約は、社交界において理想的な縁談だと羨望の的になっていた。
しかし、誰も知らない。
カイル・アークライトという男が、愛という感情を「究極の感情魔力に関する研究対象」と定義している、正真正銘の変人であることを。
彼にとってエレノアを愛するとは、彼女のあらゆる情報を収集し、分析し、最適化することだった。
エレノアの自室には、彼から贈られた“愛の贈り物”が所狭しと並んでいる。
最初のうちは、宝石やドレスだった。
だが、ある日を境に、その方向性はおかしくなった。
『君の睡眠中の呼吸数と寝返りの周期を三か月間計測し、最も安眠できる枕を開発したよ。これにより、君の睡眠の質は二四・八パーセント向上する』
そう言って贈られたのは、使用者の呼吸と心拍を自動で計測する特注の枕だった。
別の日には、分厚い書類の束が届けられた。
『今日の君の魔力変動率と血圧の推移をもとに、公務予定を最適化しておいた。無駄な空白時間を排除した、最も効率的な予定表だ』
その結果、エレノアは息をつく暇すら失った。
毎日のように届く手紙にも、愛の言葉ではなく、謎の数式とグラフがびっしりと並んでいる。
『本日の君の幸福度は昨日比で三・二パーセント低下している。原因と思われる要素を十二件抽出したので、確認してほしい』
(その手紙を読む時間が、私の幸福度を下げているのよ!)
何度そう書き返そうと思ったことか。
それでもエレノアは耐えてきた。
侯爵家の令嬢として。
将来、カイルを支える婚約者として。
完璧でなければならないと、自分に言い聞かせてきたのだ。
しかし今日、ついに我慢の限界を超える事件が起きた。
「エレノア。聞こえるかい」
唐突に、壁の鳩時計型魔導具からカイルの声が響いた。
ポッポー、と小窓が開き、カイルそっくりの無表情な鳩が飛び出してくる。
何度見ても不気味である。
「聞こえていますわ」
「昨夜、君は夢の中で魔塔の石壁に、何度も頭を打ちつけていたね」
「……はい?」
エレノアの完璧な微笑みが固まった。
「君の脳波と潜在意識の魔力変動を解析した結果、君が無意識下で魔塔の建築構造に強い不満を抱いていることが判明した。すぐに改修案を作成しよう」
「お待ちください」
「防音性の問題だろうか。それとも石材の硬度が――」
「どうして、私の夢の内容をご存じなのですか!?」
エレノアの叫びに、鳩は小さく首を傾けた。
カイル本人がよく見せる仕草まで再現されていることが、今は無性に腹立たしい。
「先日贈った安眠用枕には、脳波と感情魔力の測定機能があるからね」
「そのような機能があるなんて、聞いておりません!」
「伝えれば、普段通りの正確な数値が得られない可能性があった」
「それを世間では、騙し討ちと言うのです!」
エレノアは思わず自分の体を両腕で覆った。
脳波を測られていたのなら、他にも何か仕掛けられているのではないか。
入浴中の湯気から肌の状態を解析されたり、ドレスの縫い目にかかる張力から体型の変化を測定されたりしていてもおかしくない。
カイルならば、悪意なく実行する。
むしろ彼女の健康のためだと、胸を張るに違いない。
「念のため言っておくが、映像を記録する機能はないよ」
「心を読まないでください!」
「君の現在の心拍数から推測しただけだ」
「それもやめてください!」
もう限界だった。
淑女の仮面も、侯爵家のためという使命感も、この重すぎるデータ愛の前では役に立たない。
エレノアは深く息を吸った。
そして鳩時計の中にいる、無表情な婚約者へ向かって告げた。
「カイル様。私、あなたとの婚約を破棄させていただきます」
しん、と部屋が静まり返った。
さすがのカイルも、これには驚くかもしれない。
怒るだろうか。
焦るだろうか。
少しでも反省してくれれば、それでいい。
だが、返ってきたのは相変わらず冷静な声だった。
「エレノア。君の今の声紋と昨日までの感情グラフ、さらに発汗量の微細な変化を解析した結果、その発言は本心ではないと結論づけられる」
「……私は本気ですわ!」
「いや、君は私を試しているのだね。これは二人の愛をさらに深めるための、複雑な心理的関数だと解釈する」
「関数って何ですか!」
エレノアは頭を抱えた。
「あなたは、生身の私より、羊皮紙に書かれたデータの私の方が愛おしいのではありませんか!?」
その悲痛な訴えに、カイルはひどく真剣な声で答えた。
「そんなことはないよ。君という存在そのものを愛しているからこそ、君のすべてを記録し、理解する必要があるんだ」
「データの羅列で、私の何が分かるというのです!」
「君がまだ気づいていない君自身を、私が先に把握して守ることができる」
一瞬だけ、その声に切実な響きが混じった。
だが、怒りに震えていたエレノアは、それに気づかなかった。
「例えば今も、君は強い口調で私を拒絶している。しかし、声帯の震えと脳波の数値から、本心では私への好意を捨てきれず、葛藤していることが分かる」
「なっ……!」
「つまり婚約破棄という発言は、愛情表現の一種である可能性が高い」
「どうしてそうなるのですか!」
どれほど言葉で否定しても、カイルは身体の反応を根拠に、彼にとって都合のいい結論を導き出してしまう。
これでは話し合いにならない。
「エレノア。そろそろ君の最適な就寝時間だ」
「まだ話は終わっておりません!」
「心拍数も上がっている。ホットミルクを飲むといい。蜂蜜は五グラムまでなら、睡眠への影響は最小限だ」
「カイル様!」
「おやすみ、エレノア。愛しているよ」
プツン、と通信が切れた。
無表情な鳩は、何事もなかったかのように時計の中へ引っ込んでいく。
残されたエレノアはしばらく立ち尽くし、やがてベッドへ倒れ込んだ。
「駄目だわ……」
正攻法で何を言っても、すべて愛情の裏返しか、心理的なノイズとして処理されてしまう。
これでは婚約破棄どころか、嫌われることすら不可能だ。
その夜、エレノアは眠れなかった。
けれど、夜が明ける頃には、彼女の瞳にかつてない強い光が宿っていた。
(カイルが最も信頼しているのは、私の正確なデータ)
言葉を信じないのなら、データの方を壊せばいい。
これまでの行動傾向から予測できない存在になり、計算不能な異常値を叩き出す。
完璧主義者である彼なら、観察する価値がないと匙を投げるに違いない。
(私自身が、観察不能なノイズの塊になってやるわ!)
エレノアは立ち上がった。
そして、これまで侯爵令嬢としてふさわしくないからと我慢してきた、ありとあらゆる“好きなこと”を解放すると決めた。
まずは服装である。
息苦しいコルセットとシルクのドレスを脱ぎ捨て、兄から譲り受けた乗馬服に袖を通す。
革のブーツを履き、髪も簡単に一つに結んだ。
鏡に映る姿は、完璧な侯爵令嬢とは程遠い。
けれどエレノアは、その姿を見て心から笑った。
「最高だわ」
予定されていた茶会も、昼食会も、社交の約束も、すべて取りやめた。
そして屋敷の厩舎へ向かい、愛馬を連れ出す。
「今日は好きなだけ走りましょう!」
エレノアは馬の背に飛び乗ると、広い草原へ駆け出した。
頬を撫でる風。
大地を蹴る蹄の音。
誰の視線も気にせず、思うままに馬を走らせる解放感。
「はあ……! なんて気持ちがいいのかしら!」
彼女の顔には、社交界では一度も見せたことのない、年相応の無邪気な笑みが浮かんでいた。
ふと上空を見上げる。
手のひらほどの大きさの小型魔導具が、ジリジリと羽音を立てながら、必死にエレノアを追いかけていた。
魔塔から飛んできた観察機に違いない。
「見ていなさい、カイル」
エレノアは挑むように笑うと、さらに馬の速度を上げた。
「あなたの計算なんて、全部めちゃくちゃにして差し上げますわ!」
◇
その頃、魔塔の最上階。
巨大な観測画面に映るエレノアを見つめ、カイルは珍しく目を見開いていた。
予定されていた茶会への出席率、ゼロ。
ドレスの着用率、ゼロ。
通常の行動範囲を大幅に逸脱。
馬の速度は、過去十年間の平均値を三七パーセント上回っている。
何より、画面の中で笑うエレノアの表情は、これまでに記録されたどの笑顔とも違っていた。
「幼い頃の君のままだ……」
カイルの頬が、わずかに緩む。
「なんて愛おしいんだ、エレノア」
持ち主の感情は、予想外の変化を喜んでいた。
しかし、魔導計算機はそれほど柔軟ではなかった。
ピピピピピピ――。
けたたましい警告音が、実験室に鳴り響く。
「ん?」
画面に、赤い文字が次々と浮かび上がった。
《行動予測不能》
《既存データとの一致率、二パーセント未満》
《感情変動の解析に失敗》
《予測不能ノイズ、一〇〇〇パーセント突破》
歯車が悲鳴を上げ、魔石が激しく明滅する。
カチカチカチカチ――バンッ!
次の瞬間、巨大な魔導計算機が爆発した。
轟音と共に黒煙が噴き上がり、実験室の一角が吹き飛ぶ。
煤だらけになった助手たちが悲鳴を上げて逃げ惑う中、カイルだけは身じろぎ一つしなかった。
銀色の髪を黒焦げにしたまま、壊れた画面に表示された数値を見つめている。
やがて彼は震える手で眼鏡を押し上げ、恍惚とした笑みを浮かべた。
「なんということだ、エレノア……」
彼の青い瞳に、かつてない探究心の炎が燃え上がる。
「過去十年間のデータを、たった一日で覆すなんて」
エレノアの予想とは、正反対だった。
「素晴らしい……!」
彼女が巻き起こした騒動は、婚約者を諦めさせるどころか――
天才魔術師の探究心に、盛大な火をつけてしまったのである。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
愛ゆえに、エレノアのすべてを記録・解析しようとするカイル。
そんな彼の「データ収集狂」ぶりに耐え続けてきたエレノアも、ついに我慢の限界を迎えました。
婚約破棄すら愛情表現だと解析され、言葉では何を伝えても理解してもらえない。
それならばと、エレノアはカイルの予測を覆すために動きだします。
果たして彼女は、観察不能なノイズとなり、自由を取り戻せるのでしょうか。
すれ違っているようで、どこか噛み合っている二人の勘違い恋愛劇を、くすりと笑っていただけましたら幸いです。
Ritaの世界観を少しでも楽しんでいただけましたら嬉しいです。
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