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歴史を修正しないと出られない部屋  作者: 久能のの
月桂冠に届かぬ告発状

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幕間4 エピローグ

 亜熱帯特有のまとわりつくような湿気と、じりじりと肌を焦がす強い日差しが、香港の街並みを重く覆い尽くしていた。


 香港での二泊三日の修学旅行は、息つく暇もないほど濃密だった。初日の香港島での歴史・文化研修から始まり、二日目のディズニーランドでの教育プログラム受講まで、タイトなカリキュラムが詰め込まれていた。そして最終日となる三日目の朝。大荷物をバスに預け、身軽になった生徒たちは、帰国便の搭乗手続きまでの約二時間半、尖沙咀エリアでのフィールドワークに放たれた。

 学校側から探究活動の拠点として強く推奨されていたのは、大規模な改修工事を経てリニューアルオープンしたばかりの香港歴史博物館であった。

 南丫島で出土した文物が示す文化の源流から、英国による植民地支配のもとでの中西融合、日本軍による占領期の歴史、そして現代の国際都市に至るまで、香港の重層的な歴史を多角的な視点から考察するための生きた教材がそこには広がっている。


 昌幸は、その博物館での見学を終え、喧騒から少し離れた周辺の通りを一人で歩いていた。

 周囲には、異国の修学旅行という解放感に浸り、笑顔で通り過ぎていく同級生たちの姿がある。しかし、昌幸の胸の内には、この平穏な風景とは不釣り合いな疑問がずっと渦巻いていた。

 あの古代ローマでの凄絶なミッション、すなわち地球全土が単一の帝国に塗り潰されるという途方もない歴史改変を阻止した出来事を最後に、二人があの不条理な密室に閉じ込められる異常現象は一切起きていなかった。突然始まった理不尽な歴史修正のゲームが、なぜパタリと鳴りを潜めたのか。その理由を紐解く鍵は、間違いなく青が握っているはずだった。

 昌幸は、この自由行動の時間を巧みに利用し、青に偶然を装って接触して探りを入れる機会を画策していた。


 とはいえ、彼には致命的な弱みがある。明智光秀の歴史改変に立ち向かった一番最初のミッションの際、彼が試しに引き出しを開けて自身の煩悩の産物を具現化させてしまい、あのタンスが使用者の深層心理の願望を具現化する装置であるという恐ろしい法則に気付いたという過去だ。もしあの事実が明るみに出れば、ただでさえ毒舌な彼女から完全なる汚物を見るような目で見られ、決定的な軽蔑を受けることは火を見るより明らかである。それゆえ、その事実だけは絶対に隠し通さなければならないという強固な防衛線が、彼の中で引かれていた。


 額に滲む汗を手の甲で拭いながら、考え事に没頭して博物館の角を曲がったその時だった。

 見慣れた、しかしこの異国の風景の中にあってなお目を引く凛とした姿が、不意に視界に飛び込んできた。


「……西園寺」


 私服姿の青だった。彼女もまた、この自由行動の時間を利用して博物館周辺を訪れていたようだ。

 彼女の腰まで届く艶やかな黒髪が、海から吹き込む湿った風にさらりと揺れる。陶器のように白い肌と、華奢でありながらも芯の通った背筋。喧騒を切り裂くような氷の美少女の佇まいは、亜熱帯の強い陽射しの下でも一切の乱れがなく、周囲の空気ごと清冽に保っているかのようだった。


 昌幸の呼びかけに、青は静かに振り返った。切れ長の瞳が昌幸を捉え、その整いすぎた顔立ちの奥で、極めて理知的な思考が高速で回転し始める。

 青はすでに、昌幸だけがタンスの法則に即座に気付けた理由の答えに行き着いていた。昌幸自身が、あの場で何かしらの個人的で言い逃れできない欲望をタンスから具現化させたからだ、と、彼のひた隠しにする秘密を完全に看破していたのである。

 一方で、彼女自身も決して譲れない秘密を抱えていた。古代ローマのミッションの最後にタンスから出現した、自身の入部届と湯呑み。あの異常現象の元凶が、他でもない自分自身の恋愛感情の具現化であったという事実である。氷の美少女としての矜持にかけて、それだけは死んでも昌幸に悟られるわけにはいかない。


 そして同時に、彼女の胸の奥底には新たな目標が芽生えていた。

 部屋の発生条件が「一緒にいたい」という無意識の願望の具現化であるならば、その法則を逆手に取ることもできるはずだ。自身の恋愛感情をすでに自覚している青が無意識の暴走で部屋を生み出すことはもうない。つまり、もし次にあの部屋が発動したとすれば、それは青ではなく昌幸の側が無意識下で青を強く求めた結果であり、彼からの好意の決定的な証明になるのだと彼女は確信していた。そのため、青は昌幸の深層心理を揺さぶり、彼自身の願望を原因として人工的にあの白い密室を再発動させることを、密かな目標として設定していたのである。


 異国の空の下、修学旅行の解放感に包まれた街角で偶然の遭遇を果たした二人。それぞれの胸の奥に、相手に知られたくない決定的な秘密と、相手から引き出したい真相への渇望を隠し持ったまま、彼らの視線は静かに、そして鋭く交錯した。

 二人は歩調を合わせ、並んで歩きながら、互いに相手に聞きたいことと絶対に隠したいことを抱えたまま、探り合いの言葉を交わし始めた。


「そういえば、あれからパッタリとあの白い部屋に呼ばれなくなったな。西園寺、お前、あの最後の時にタンスから出てきたもので、一体何に気付いたんだ?」


 昌幸は気怠げな声色を装いながらも、探るような視線で青の横顔を窺う。彼は以前タンスから自らの煩悩の産物を生み出してしまったという事実を絶対に悟られまいと強固な防衛線を張りつつ、現象が途絶えた理由を聞き出そうとしていた。


「さあ、何のことかしら。単に、あの理不尽な現象が気まぐれに終わっただけじゃないの?」


 対する青は、完璧に整った顔立ちに涼しい微笑を浮かべ、その問いをあっさりと躱す。彼女もまた、自身の恋愛感情こそが密室発生の元凶であったという事実を、意地でも隠し通すつもりでいた。


「それよりも、稗田くん。あなたは随分とあのタンスの法則に気付くのが早かったわね。まるで、自分自身で何か言い逃れのできない個人的な欲望でも具現化させた経験があるかのように」


 青の紡いだ言葉は、鋭利な刃物のように昌幸の急所を的確に突いた。その声色には一切の感情が交じっていないように聞こえるが、切れ長の瞳の奥底には、昌幸の反応を楽しむような暗い光が宿っている。


「なっ……そんなわけないだろ。これまでの状況を統合した、ただの論理的な推測だ」


 昌幸は一瞬だけ心臓が跳ね上がるのを自覚しながらも、表情の筋肉を強引に制御して反論した。背中を嫌な汗が流れ落ちる感覚がある。ここで動揺を見せれば、彼女の明晰な頭脳はすぐにすべてを悟ってしまうだろう。


 お互いに核心を巧みに避けながら、いつものような高度な探り合いと皮肉の応酬を繰り広げていく。決して自らの弱みは見せず、相手の言葉の隙を突くような鋭い会話は、どこまでも平行線を辿っていた。

 二階建てバスが重低音を響かせて横を通り過ぎる。通りから漂ってくる香辛料の混じった匂いが、ここが日常の延長ではない異国であることを思い出させる。


 やがて、互いの秘密を守り抜いたまま平行線を辿る会話の終盤、張り詰めていた空気に少しだけ疲労を感じたのか、昌幸はふと心底からの安堵を込めた深い溜息を吐き出した。


「まあいい、もうあの理不尽な部屋に閉じ込められることもないだろうしな」


 それは、あの極限の緊張感から完全に解放されたことを示す、油断に満ちた言葉だった。これまでの平行線を辿っていた会話を打ち切るように肩の力を抜き、完全に警戒を解いた無防備な姿を見せる。


 普段であれば、その気の抜けた言葉に対して青から容赦のない毒舌が飛んでくるはずだった。

 しかし、彼女はいつもの皮肉で返すことはなく、ふいにその足を止めた。

 昌幸が無防備な姿を見せたこの瞬間こそが、青にとって密かな目標を達成するための絶好の機会であった。彼女は切れ長の瞳に決意の光を宿した。


 昌幸が怪訝に思い振り返ろうとした瞬間、青は普段の完全無欠な氷の美少女という理知的な仮面を意図的に外し、かつてないほどの至近距離へと踏み込んできた。

 彼女の体温と、微かな甘い香水のような匂いが、熱を帯びた空気ごと昌幸のパーソナルスペースを容赦なく侵食してくる。

 青は白魚のような細い指先を伸ばし、昌幸の服の袖を軽く引いた。

 驚きに全身を固まらせる昌幸を見上げ、青は少しだけ上目遣いになった。そして、いつもとは違うひどく無防備なトーンで、甘く囁くように言葉を落とした。


「……私は、もう一度くらい巻き込まれても、構わないけれど?」


 それは、かつてなくストレートな好意の匂わせであった。

 喧騒が遠のき、周囲の風景が完全に色褪せたような錯覚に陥る。

 普段の皮肉の応酬であれば、昌幸はいくらでも屁理屈をこねて反撃することができた。しかし、この想定外のストレートなデレという不意打ちの初撃に対して、彼の精神には一切の耐性が備わっていなかった。

 心臓が早鐘のように鳴り響き、喉がカラカラに乾く。昌幸の思考回路は論理的な演算を放棄して完全にショートし、みるみるうちに耳の裏から首筋までを真っ赤に染め上げて、甚大なダメージを受けた。

 口をパクパクとさせるだけで、気の利いた反撃の言葉はおろか、ただの相槌すら一つも出てこない。


 その完全に思考を停止させた無様な反応を至近距離で目の当たりにした青は、自らの放った大胆すぎる行動への強烈な羞恥が遅れて押し寄せてきたのか、一気に顔を朱に染めた。

 いたたまれなくなったように昌幸の袖から指を離すと、くるりと彼に背を向け、足早に歩き出す。


 昌幸からは見えないその切れ長の瞳には、微かな悪戯っぽい光が宿っていた。

 いつか彼の深層心理が書き換わり、彼が原因となってあの白い部屋が再発動する日を、青は胸の奥底で密かに待ちわびていた。いつもなら憎まれ口を叩いてくるはずの相棒が、耳まで真っ赤にして狼狽する様は悪くない。香港の熱を帯びた風が、彼女の少しだけ上気した頬を心地よく撫でて通り過ぎていった。

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