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歴史を修正しないと出られない部屋  作者: 久能のの


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3話

 純白の空間に、重苦しい沈黙が降りていた。

 床に散らばる古びた歴史書と、無機質な白い壁。その非現実的なコントラストの中で、青は長い睫毛を伏せ、手元の資料に視線を落としていた。

 彼女はまるで複雑なチェス盤の盤面を読み解くかのように、静止している。


「なあ、ちょっといいか」


 沈黙を破ったのは、昌幸の方だった。

 彼は床にあぐらをかき、手持ち無沙汰に『広辞苑』のページをパラパラとめくっていた手を止めると、眉を寄せて青に問いかけた。


「さっきの話の続きだけどよ……天王山なんて、標高たったの二百七十メートルだろ?」


 昌幸は視線を、資料に描かれた古地図の一点に向けた。


「山というよりは小高い丘に過ぎない。高所を取るのがセオリーなのは分かるが、たかだかその程度の高低差で、四万もの大軍を擁する羽柴秀吉が為す術もなく敗北するものなのか? 数の暴力で押し切れないほど、あそこの地利は強烈なのか?」


 昌幸は、資料の記述に疑わしげな視線を向けた。

 本来、山崎の戦いにおける両軍の戦力差は圧倒的だ。たった一つの場所取りで、その差が覆り、歴史がひっくり返る。記述通りのことが起きたとされるこの結果を、額面通りに信じていいものだろうか。


「そう思うのも無理はないわね」


 青は読んでいた資料から顔を上げ、細い人差し指でトントンと古地図の上を叩いた。


「でも、そこには明確な物理的な必然があるのよ」


 彼女の瞳は、教室で難解な数式を解いている時と同じ、感情を排した理知的な光を帯びていた。かつて流された万単位の兵士の血も、今の彼女にとっては論理パズルを構成する要素の一つに過ぎないようだった。


「高所を取れば、敵の布陣や動きを手に取るように把握できる。これが『視界情報の優位』。そして攻撃面では、高所からの射撃は放物線を描く弾道を伸ばしてくれるわ。平地での交戦とは比較にならない『有効射程』を保証してくれる。織田陣営同士の戦いで装備に差がないからこそ、物理を味方につけた方が勝つ。単純な理屈よ」


 なるほど、と昌幸は内心で唸った。

 単なる精神論や勢いではなく、物理的な有利不利が勝敗を分けていたというわけだ。戦国時代の合戦といえど、結局は物理法則と情報の非対称性が勝敗を決めるシビアなゲームなのだと、彼女の解説は雄弁に物語っていた。


 昌幸は、二人の目の前にある改変された歴史書の記述に視線を落とした。そこには、青が語った勝利の方程式が、残酷なほど綺麗に反転して記されている。


「つまり、今のこの歪んだ世界では、明智光秀が先にその物理的有利を手に入れてしまった。だから勝った」

「その通りよ。たった一つのポジション、たった数時間の差が、その後の数百年の歴史を書き換えてしまったの」


 青は音を立てて資料をパタリと閉じ、その白い表紙に華奢な手を置いた。

 彼女の中で、状況の分析は完了したようだった。


「修正プランはシンプルよ。複雑な政治工作も、大軍の指揮も必要ない。私たちがなすべきことはただ一つ」


 彼女は一度言葉を切り、この部屋の不条理なルールに真っ向から挑むように宣言した。


「明智軍よりも先に、天王山の山頂へ秀吉軍が到達している状態を作ること。……この一点のみが、私たちがクリアすべき勝利条件よ」


 白い部屋の静寂の中、二人は互いの視線を交わした。

 目的は定まった。だが、それはあくまで机上の空論におけるゴールでしかない。

 問題は、武器も兵力も持たないただの高校生二人が、どうやって戦国最強の武装集団を出し抜いてその状態を作り出すかだ。


 昌幸は重くなった頭を振るように、ため息をついた。

 視界いっぱいに広がる白が、閉塞感を伴って迫ってくる。

 また、厄介なことになりそうだ。


 ◇


「天正十年六月一三日。場所は天王山。私たちのミッションは、明智光秀の軍勢よりも先に、羽柴秀吉の軍勢を山頂に到達させること」


 青はそこで一度言葉を切り、少し思案してから訂正を加えた。


「……いいえ、正確には『明智軍に先着を許さない』ことね」

「どう違うんだ? 結局は早い者勝ちだろ?」

「必ずしも秀吉軍が先に着く必要はないのよ。タッチの差、あるいは同着でも構わない」


 史実における羽柴秀吉の軍勢は約四万。対する明智光秀は一万数千に過ぎない。

 戦になれば、兵力差という暴力が勝敗を決する。光秀が勝てたのは、あくまで山頂を先に制圧し、高所からの射撃で数の不利を覆したからだ。


「明智軍による地形ボーナスの独占さえ防げればいい。そうすれば、あとは史実通り、兵力の差で羽柴軍が押し切るわ」

「なるほど。最悪、引き分けに持ち込めば俺たちの勝ちってことか」

「それを踏まえて具体的なプランニングに移るわよ」


 青の指示はいつも簡潔で、そして容赦がない。

 昌幸は、彼女の言葉を聞きながら重いため息をついた。同着で良いとは言え、相手は生きるか死ぬかの極限状態にある軍隊である。平和ボケした現代の高校生が二人で乗り込んで、「すみません、歴史を変えたいので場所を譲ってください」と言って通じる相手ではない。


「プランニングって言ってもな……。俺たちが使える手札なんて皆無に等しいぞ。丸腰で戦場に行くなんて、自殺志願者もいいところだ」

「思考停止しないで。手札がないなら、盤面をひっくり返す方法を考えるの」


 青は艶やかな黒髪を払い、長い足を組み直すと、白魚のような指を一本立てた。


「案その一。明智軍への直接妨害。進軍ルートに罠を張る、あるいは嘘の情報を流して足を止められないかしら」

「却下だ」


 昌幸は即座に首を横に振った。考えるまでもない愚策だ。


「相手は万以上の軍勢だぞ? 俺たち二人がスコップで落とし穴を掘ったところで、何の意味もない。それに、身元不明の子供が流す情報を信じるほど、戦国の武将は甘くないだろ。見つかって怪しまれれば、問答無用で斬り捨てられて終わりだ。俺はまだ死にたくない」

「……妥当な判断ね。物理的な戦力差とリスクを考慮すれば、確かに非効率的だわ」


 青は表情を変えずに頷き、二本目の指を立てる。彼女にとって、昌幸の否定も想定内のシミュレーションの一部なのだろう。


「では、案その二。秀吉軍への接触と進軍加速。秀吉本陣に乗り込んで『もっと急げ』と尻を叩く……と言いたいところだけれど」


 彼女はそこで言葉を区切り、自ら首を横に振った。


「これも却下ね。歴史的な『中国大返し』の凄まじさは言うまでもないでしょう。備中高松から京までの約二百キロを、わずか一週間足らずで走破した神速の行軍。当時の常識はおろか、現代の軍隊でも困難なレベルだわ。極限まで張り詰めた弓の弦をこれ以上引き絞れば、矢を放つ前に弦そのものが切れてしまう。物理的に不可能な要求よ」

「それに、戦時中のピリついた本陣に近づけるわけがない。スパイ扱いされて処刑されるのがオチだ」


 昌幸が付け加えると、青は「ええ、リスクと効果が見合わないわね」と淡々と肯定した。

 彼女の頭脳の中で、無数の可能性が検証されては切り捨てられていく。青は少しの間を置いて、三本目の指を立てた。


「案その三。第三勢力の利用。例えば、日和見を決め込んでいる筒井順慶あたりを説得して、こちらの味方につける」

「交渉材料がない。どこの馬の骨とも知れない高校生の話を、一国の大名が真に受けるわけがないだろ。スマホも通じない時代に、どうやって目通りを願うんだ?」

「その通りよ。それに……」


 青は昌幸の言葉を引き取り、深刻そうに眉をひそめた。


「歴史への影響、バタフライ・エフェクトが大きすぎるわ。本来動かなかった勢力を動かせば、元の歴史とも、今の改変された歴史とも違う『第三の歴史』が生まれてしまう危険性がある。予測不能な変数を増やすのは悪手だわ」


 三つの案がすべて潰えた。

 白い部屋に、先ほどよりも重苦しい沈黙が降りる。

 戦闘能力なし、交渉能力なし、社会的信用なし。ないない尽くしの彼らが、歴史の巨大な奔流に抗う術などあるのだろうか。手詰まり感が、部屋の空気を淀ませていく。


「戦えない。話を聞いてもらえない。歴史を大きく歪めることもできない……」


 昌幸は床に転がる『戦国大名全史』の表紙を、意味もなく指でなぞった。

 明智軍を止めることも、秀吉軍を早く呼ぶこともできない。

 だが、この部屋を出るための条件は、あくまで「秀吉軍が先に着いた」という事実を作ることだ。


 事実……?

 いや、待てよ。

 昌幸の手が止まった。脳裏に、微かな違和感が引っかかった。


「……なぁ、西園寺」

「何? 降伏宣言なら聞かないわよ」

「違う。俺たちがやろうとしてるのは『明智軍を山頂に行かせないこと』だろ?」


 昌幸の中で、一つの発想が閃光のように弾けた。

 それはあまりに馬鹿げていて、正攻法とは対極にある奇策だった。だが、この絶望的な制約条件だらけの状況下では、唯一の正解に思えるイカサマだった。


「明智軍が山頂を目指すのは、高所という戦術的優位を取るためだ。だが、それはあくまで『まだ誰もいない』という前提があるからこそ成立する作戦だ」

「ええ、そうよ。だから一秒でも早く登る必要があるの」

「なら、逆に言えば『既に先を越された』と思わせれば、奴らは足を止めるんじゃないか?」


 昌幸の言葉に、青の瞳がスッと細められた。彼女の怜悧な頭脳が、昌幸の投げかけた拙いアイデアを即座に分解し、戦術レベルへと昇華させていく。


「……続けて」

「実際に秀吉の大軍が到着していなくてもいいんだ。山の下から見上げた時に、『あ、もう秀吉軍がいるじゃん』って思わせる何かがあればいい」


 昌幸は身を乗り出し、言葉に熱を込めた。

 敵を倒す必要はない。敵を騙せばいいのだ。


「例えば、秀吉軍のシンボル……千成瓢箪の馬印と、派手な金色の軍旗とか」


 青は数秒間、沈黙した。

 その瞳の奥で、高速の演算が行われているのが分かる。リスク、実現可能性、効果。すべての変数が再計算され、やがて彼女の薄い唇が、微かに弧を描いた。


「……なるほど。ブラフね」


 彼女の声には、先ほどまでの冷たさとは違う、確信めいた響きが混じっていた。


「直接的な干渉ではなく、敵の心理を突く。数千の軍勢を用意する必要はない。敵が遠目に見ても分かる秀吉の象徴があれば、数キロ先の敵に錯覚を起こすことができるわね」

「ああ。それなら俺たち二人でも実行可能だ。戦闘も交渉もいらない。ただ山に登って、馬印と旗を立てて逃げ帰るだけでいい」


 青は作戦の核心を突くように、言葉を強めた。


「敵がいるかもしれないと思えば、彼らは警戒のために索敵をせざるを得ない。その分、必然的に足が遅くなるわ。特に今回の中国大返しは、当時の人間からすれば異次元のスピード。多少到着が前後しようとも、不審に思うより先に『もう来たのか』という恐怖が勝るはずよ」


 その数十分の警戒による遅れこそが、本物の秀吉軍が山頂に到達するための決定的な猶予を生むことになる。

 兵力ゼロで数千の敵を足止めする。

 それは決して正史には記録されない詐欺であり、もっとも効率的な「戦わずして勝つ」策だった。


「完璧よ、稗田くん。あなたのその腐った性根が、まさかこんな形で役に立つなんてね」


 青は立ち上がり、昌幸を見下ろして不敵に笑った。

 それは相変わらずの憎まれ口だったが、この閉塞した状況を打破する正解を見つけた共犯者の顔だった。互いに性格は合わないが、目的のためなら手段を選ばない合理性において、二人は奇妙なほど噛み合っていた。


「採用よ。作戦名は『秀吉軍偽装工作』。敵を騙し、歴史を欺くわよ」

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