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歴史を修正しないと出られない部屋  作者: 久能のの
天王山に翻る偽りの旗

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2話

 『詳説日本史』と背表紙に銘打たれたその教科書は、無愛想な音を立ててバタリと閉じられた。


「……駄目ね。これだけじゃ話にならないわ」


 青は腰まで届く艶やかな黒髪を払い、閉じたばかりの教科書を無造作に昌幸の胸元へと押し付けた。

 その美しい顔には、明らかな落胆と苛立ちが滲んでいる。昌幸は慌ててその教科書を抱き留め、ご機嫌取りをするように彼女の顔色を窺った。


「話にならないって……明智光秀が天下を取った、という原因は確認できただろう? 天下がひっくり返っているんだ。これ以上の異常事態はないと思うんだが」

「私が次に知りたいのは原因じゃなくて過程よ」


 青は昌幸の言葉を冷ややかな声で切り捨てた。

 彼女は細い腕を組み、出口のない白い壁を睨みつけながら、高速で思考を巡らせているようだった。その姿は、難解な数式を前にした数学者のようであり、同時に獲物を逃した狩人のようでもあった。


「いい? 歴史を修正しろと言うからには、過去のどこか一点で、本来起こるはずだった出来事がねじ曲げられた瞬間があるはずなの。バタフライ・エフェクトの起点とでも言うべき分岐点がね」


 彼女は整った顎で、昌幸の手にある教科書を指し示した。


「でも、その教科書に書かれているのは『明智光秀が幕府を開いた』という大雑把な出来事だけ。具体的にいつ・どこで・何が起きたせいで勝者が覆ったのか、肝心なディテールがすっぽりと抜け落ちているわ」


 なるほど、と昌幸は心の中で独りごちた。言われてみれば彼女の主張は正論である。

 今、二人に求められているのは、漠然とした歴史の再学習ではない。歪んでしまった時空に対する、外科手術のようにピンポイントな修復作業だ。患部が特定できなければ、メスを入れることもできない。ただ闇雲に過去へ飛び、明智光秀を暗殺すれば済むという話ではないだろう。そんなことをすれば、さらに歴史が乱れ、取り返しのつかない第三の歴史が生まれてしまうリスクすらある。


「もっと詳細なデータが必要ね。教科書の記述レベルじゃ粗すぎるわ」


 青の鋭い視線が、値踏みするように昌幸を射抜いた。


「稗田くん、もっと詳しい資料を探して」

「探してって言われてもなあ……」


 昌幸はわざとらしく肩をすくめ、部屋の中を見渡した。

 視界を埋め尽くすのは、相変わらず陰鬱な白一色の壁と床だけだ。継ぎ目一つないその壁面には、隠し扉や収納スペースの類は一切見当たらない。あるのは、中央に鎮座するふざけたデザインのタイムマシンと、彼らが現在進行形で踏みしめている靴、そして先ほどまで読んでいた教科書くらいのものだ。


「見ての通り、ここには何もないぞ。あの怪しげなタイムマシン以外は」

「目は飾りなの? そこに時代錯誤な遺物があるじゃない」


 彼女の白魚のような指先が、部屋の隅をビシりと指し示した。

 そこには、この近未来的なSF空間において異質な存在感を放つ、古ぼけた木製のタンスが鎮座していた。


「……あれか」


 昌幸は溜息をつきたい衝動をこらえ、その遺物へと歩み寄った。

 昭和の時代劇や、田舎の祖母の家でしかお目にかかれないような、取っ手のついた茶色い木製家具だ。なぜこんなアナログな遺物が、ハイテクな時空間転移装置と同居しているのか。この部屋を設計した管理者の美的センス、あるいは正気を疑いたくなる光景だった。


 教科書の情報だけでは不十分だ。

 かといって、あてもなくタイムマシンで過去へ飛び、自力で歴史を調査するなど不可能に近い。長大な日本史の奔流から、たった一つしかない歴史改変の起点――バタフライ・エフェクトを特定することなどできるはずがないのだ。


(……なら、この部屋にある唯一の収納家具に賭けるしかない)


 何かヒントがあってくれ、と昌幸は祈るような気持ちでタンスの前にしゃがみ込んだ。もしこれが単なる古着入れなら手詰まりだ。だが、このふざけた部屋を用意した管理者が、クリア不可能なゲームを作るはずがないという微かな期待もあった。

 昌幸は一番上の引き出しの金具に手を掛けた。少し力を込め、引き出しを引く。古びた木同士が擦れ合い、ゴトゴトという重たい音と共に引き出しが開いた。


「……は?」


 中身を目にした瞬間、昌幸の口から間の抜けた声が漏れた。

 空っぽではなかった。そこには、重厚な装丁の書物が隙間なく、ぎっしりと詰め込まれていたのだ。


 昌幸はおそるおそる、その中の一冊を取り出した。

 ずっしりとした重量感が手に伝わる。ハードカバーの表紙には、金文字で『戦国大名全史』と記されていた。

 さらに奥を探ると、『明智光秀・天下統一全史』という、今の彼らにとってあつらえ向きすぎるタイトルの専門書や、個別の戦にフィーチャーしたマニアックな戦記物、さらには『広辞苑』のような汎用的な事典までもが出てきた。


「おい、マジかよ……」


 昌幸は驚きを通り越して、あまりのタイミングの良さに呆気にとられた。

 まるでここが図書館の閉架書庫であるかのような充実ぶりだ。こんな得体の知れない部屋の、しかも何の脈絡もない古タンスの中に、今の状況を解決するために必要な専門書がセットで用意されているとは。


「どうしたの? ゴミでも入ってた?」


 背後から、青の訝しむような声が飛んでくる。

 昌幸は我に返り、抱え込んだ書籍の山を彼女に見えるように掲げた。


「いや、大当たりだ。……信じられないことに、お前が欲しがってた詳細なデータが全部入ってたぞ」


 昌幸が床に本を広げると、青はわずかに目を見開いたが、すぐにいつもの冷静な表情に戻った。驚愕よりも先に、利便性を評価する理性が働いたらしい。


「『戦国大名全史』に、専門の戦記解説書……。随分と親切な品揃えね」

「ああ。親切すぎて怖いくらいだ」


 昌幸はタンスを振り返り、その古びた木目をもう一度見つめた。

 ただのボロ家具だと思っていたが、意外と役に立つ収納庫だったらしい。あるいは、この状況を用意したゲームマスターのような存在が、プレイヤーが詰んでしまわないように、この中に救済アイテムを用意してくれているのだろうか。

 青はすでにタンスへの興味を失ったようで、即座に本の山へと手を伸ばしていた。彼女にとっては、それがどこから出てきたかよりも、使える情報があるかどうかが全てなのだろう。


「無駄口を叩いている暇はないわ。さっさと解析を始めるわよ」

「へいへい」


 昌幸もタンスへの関心を切り上げ、床に座り込んだ。

 幸運な偶然に感謝しつつ、二人は分厚い表紙を開いた。


 ◇


 無機質な白い空間に、紙の束が擦れる音だけが、異様な密度で響いていた。


 二人は床に車座になり、タンスから発掘された大量の資料と格闘していた。

 正確には、格闘しているのは青だ。彼女は『明智光秀・天下統一全史』という分厚いハードカバーを膝に乗せ、まるで高性能なスキャナーがデータを取り込むような速度で読み進めている。美しい指先がページを右から左へ――現代から過去へと時間を巻き戻すように繰るたびに、この歪んだ世界の歴史が彼女の脳内で遡って検証されているのだろう。


「……信じられないわね」


 青が極めて低い声で呟いた。

 その瞳は、普段の理知的な光とは違う、どこか熱っぽい輝きを帯びていた。


「どうした? 何か見つけたか?」

「ええ。驚くべき整合性よ。この検地の記述、土地の等級区分が史実の太閤検地よりも合理的だわ。それに見て、この商業法。楽市楽座の発展形として完璧なロジックで構築されている。単なるパロディ歴史だと思っていたけれど、法整備から貨幣経済の流通経路に至るまで、矛盾が一切ない……」


 彼女はページをめくる手を止めず、ブツブツと専門用語を呟き続けている。

 昌幸は、その様子を半ば呆れて眺めていた。


(……こいつ、楽しんでやがる)


 昌幸は直感した。

 西園寺青は、完璧主義者であり、歴史オタクでもある。

 本来なら脱出の手がかりを探すべき場面だ。だが、彼女の興味は今、目の前にある架空の歴史の完成度の高さそのものに向いてしまっている。

 誰が作ったか知らないこの偽史の世界観が、あまりに精緻に作り込まれているせいで、彼女の学者肌の好奇心が刺激され、本来の目的である歴史の修正点を探す作業から、無意識にこの世界の歴史考証へと目的がすり替わっているのだ。


「……西園寺さん? あの、そろそろ脱出の話をしたいんですが」

「静かにして。今、畿内の物流ルートにおける関所撤廃の影響をシミュレートしているところよ。この仮説が正しければ、江戸時代の鎖国政策も根本から変わっていた可能性が……」

「ダメだこれ」


 昌幸は天を仰いだ。このままでは、彼女がこの偽史を完全に解析して満足するまで、あと三日はここから出られない。

 付き合ってられない、と昌幸はため息をつき、積み上げられた本の中から一際分厚いレンガのような一冊を引っこ抜いた。

 『広辞苑』だ。


 彼女が歴史のディテールに囚われているなら、昌幸はもっと単純に、その大筋を直接確かめるしかない。

 この世界がどうあろうと、歴史が変わった決定的な瞬間は一つだ。


(明智光秀が生きているなら、その運命が決した戦いの結果が変わっているはずだ)


 昌幸は『広辞苑』の重い表紙を開いた。

 詳細な歴史書を読む必要はない。もっと単純で、誰もが知っている結果から逆引きすればいい。正史において、明智光秀が敗れ、秀吉が天下人となる決定打となった戦い。その地名がついた、あまりに有名な慣用句。


「勝負の分かれ目……『天王山』」


 もし歴史が改変され、光秀が生き延びているのなら、秀吉が天下を取る決定打となったこの戦いの結末も違うはずだ。

 だとしたら、そもそもこの言葉自体が、この世界の辞書には存在しない可能性が一番高い。

 もしくは、載っていたとしても――その意味は、俺たちの知るものとは別物になっているはずだ。

 昌幸はパラパラと薄い紙をめくり、「て」の項目を探した。


「てんのうざん【天王山】……あった」


 指先で文字を追う。


『① 勝敗や運命を決める重大な局面。正念場。』


 現代と同じだ。昌幸の知る意味と相違はない。

 だが、続く語源の解説を目にした瞬間、昌幸の思考が凍りついた。


『天正十年(一五八二)、山崎の戦いにおいて、明智光秀がいち早くこの地を制し、羽柴秀吉軍を撃破して勝利を決定づけた故事による。』


「……は?」


 思わず、素っ頓狂な声が出た。

 昌幸は目をこすり、もう一度その文章を読み直す。何度読んでも、そこに書かれている事実は変わらない。

 明智光秀が、天王山を制した。だから勝った。

 昌幸の記憶にある歴史、そしてテスト勉強で覚えた知識とは、主語が真逆になっていた。


「おい、西園寺」

「今、中国攻めの記述を精査しているところよ。話しかけないで」


 青は顔も上げずに冷たく応じるが、今の昌幸には構っている余裕はなかった。これはただ事ではない。


「精査もなにも、答えはもっと前だ。こっちの辞書、語源の記述が逆になってる」

「逆? 何の話?」


 ようやく彼女が顔を上げ、怪訝そうに眉をひそめた。

 昌幸は広辞苑を開いたまま彼女の目の前に突き出し、その項目を指し示した。


「ここだ。『天王山』の語源。俺たちの知ってる歴史じゃ、先に山頂を取ったのは秀吉だったはずだろ? それがこっちじゃ、光秀が取ったことになってる」


 青は昌幸の手から辞書を奪い取るようにして引き寄せると、鋭い視線をその記述に走らせた。

 数秒の沈黙が降りる。

 彼女の瞳に宿っていた思索の色が消え、一つの解答に辿り着いた知性的な光へと切り替わるのが見て取れた。


「……なるほど。そういうこと」


 青は静かに呟くと、辞書を閉じることなく、傍らに置いていた『明智光秀・天下統一全史』を同時に開いた。

 二つの資料を見比べるその横顔は、難解なパズルのピースがカチリと噛み合う瞬間を目撃した時のように、研ぎ澄まされていた。


「天下統一という結果から遡ってもボロが出ないわけだわ。全ての起点が、この一戦で書き換わっているんだもの」


 彼女の言葉に、昌幸はジト目を向けた。


「お前、さっきまで歴史オタクとして楽しんでただけで、真面目に探してなかったよな?」

「結果的に見つかったんだからいいでしょ。なんか文句ある?」


 青は昌幸の抗議を一蹴する。

 何事もなかったかのように居住まいを正すと、改めて昌幸を真っ直ぐに見据えた。


「本来なら秀吉の勝因となった天王山の確保。この世界では、それが光秀の勝因として記録されている。つまり、ここよ。正史と分岐した特異点は」

「なるほどな。その位置取りの順番さえひっくり返せば、オセロみたいに歴史が元通りになるってわけか」


 昌幸が納得したように頷くと、青は「ご名答」と短く返し、それまで読んでいた『明智光秀・天下統一全史』をパタリと閉じた。


「裏付けを取るわ。辞書の記述が正しいなら、個別の合戦記録も書き換わっているはずよ」


 青は本の山から、特定の戦いに焦点を絞った別の一冊を抜き出した。

 『山崎の戦い・完全解析』。

 タンスから出てきた資料の中で、最も専門的な戦記だ。彼女は迷うことなくページをめくり、目的の記述を探り当てた。


「……あったわ。天王山を巡る攻防の、詳細な記録よ」


 彼女は視線を落としたまま、その一節を読み上げる。その声は、淡々としているがゆえに、事実としての重みを伴って響いた。


「『天正十年六月十三日夕刻、明智軍先鋒の並河易家・松田政近らは、秀吉軍の到着に先んじて天王山山頂に布陣。眼下の秀吉軍に対し、高所より鉄砲や弓による断続的な射撃を浴びせ、足場の悪さも相まって混乱した敵軍を壊走させた』……ですって」

「やっぱりか……」


 昌幸は重いため息とともに、頭をガシガシとかいた。

 歴史の授業で習った内容とは完全に食い違っている。昌幸の記憶では、天王山という要衝を巡って両軍が激突し、その争奪戦を制した秀吉軍が頂上を押さえたはずだった。

 だが、この書物に記された世界では、その両軍の激突の前に明智軍が天王山を手に入れている。

 ほんの数時間、あるいは数十分の差だったのかもしれない。その僅かな遅れが、秀吉の敗北を招き、明智光秀による幕府樹立という現在に繋がっているのだ。


 青は本をパタリと閉じると、理知的な瞳で昌幸を見据えた。まるで複雑な数式の解を導き出した数学教師のように、彼女は結論を口にする。


「状況は明白ね。歴史の分岐点は、本能寺でも安土城でもない。山崎にある、標高たった二百七十メートルの小山……『天王山』よ」


 彼女は人差し指を立て、空間に線を描くように語り続ける。


「誰が先に、あの山の頂上に陣取るか。その一点こそが、勝敗の天秤を逆転させ、この歪んだ現代を作り出した特異点だわ」

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