1話
視界の全てが、目が痛くなるほどの白に塗り潰されていた。
そこは、上下左右の感覚すら喪失してしまいそうな、果てのない無機質な空間だった。壁と床の境界線すら曖昧なその場所で、稗田昌幸は重い瞼を持ち上げた。
意識が覚醒するにつれて、鼓膜を圧迫するような静寂が肌にまとわりついてくるのが分かった。それは単なる静けさではない。ここには空気の自然な流れや、外界から届くはずの微かな振動、生活音といったノイズが完全に欠落していた。まるで世界そのものから切り離された空白の座標に放り出されたかのような、人工的な隔絶感がそこにあった。
彼は軽く頭を振り、視界の焦点を合わせようと努める。
「……何なの、ここ」
張り詰めた声が、凪いだ水面を叩くように静寂を切り裂いた。
声の主は、すぐ隣で身を起こした西園寺青だった。 昌幸のクラスメイトにして、共に所属する「歴史研究部」の部長でもある。もっとも、部員は昌幸と青の二人しかいないため、実質的には彼女と、その下僕である昌幸という構成だ。
彼女の豪奢な黒髪が僅かに乱れ、陶器のように滑らかな白い肌には、現状への困惑と微かな緊張が浮かんでいる。しかし、彼女は取り乱して悲鳴を上げるようなことはしなかった。即座に立ち上がると、鋭い視線を周囲に走らせ、警戒心を露わにして身構える。その切れ長の瞳は、得体の知れない事態への不快感と、本能的な警戒色に染まっていたが、そこにあるのは恐怖というよりは異常事態への分析に近い理知的な光だった。
「さあな……。ただ、ろくな場所じゃないのは確かだ」
昌幸は努めて冷静な声を出しながら、ゆっくりと立ち上がった。内心では、背筋を這い上がるような薄気味悪さを感じていたが、それを表に出すことは躊躇われた。隣にいるのが青である以上、無様なパニックを見せるわけにはいかないという奇妙な自尊心が働いたのかもしれない。
二人は、出口を探して四方を囲む白い壁へと歩み寄った。
どこまでも続く白一色の壁面。昌幸が指先で壁に触れると、冷やりとした硬質な感触が返ってきた。継ぎ目もなければ、扉の隙間一つ見当たらない。空調の吹き出し口も照明器具もなく、光源すら特定できないこの空間は、まるで全体が一つの巨大な密閉容器であるかのような閉塞感に満ちていた。
「出口はなしか。……冗談にしては、手が込みすぎている」
「ええ。それに、見て」
青が形の良い顎をしゃくった先、部屋の中央には異様な存在感を放つ装置が鎮座していた。
何もない空間に突如として置かれたその物体は、あまりにチープで、それゆえに不気味な代物だった。床から数センチほど浮遊している薄い板状のボディに、取ってつけたような操縦席と数本のレバー。その形状は、テレビで放送されている国民的アニメに出てきそうな、いかにもステレオタイプなタイムマシンそのものだった。
二人は互いに顔を見合わせ、慎重な足取りでその装置へと近づいた。不用意に触れることすら躊躇われる、危険な空気が漂っている。
さらに視線を巡らせると、部屋の隅には場違いなほど古びた木製のタンスが一つ置かれていた。
塗装の剥げかけた茶色の表面、錆びついた取っ手。昭和の茶の間にでもありそうなその生活感のある佇まいが、この近未来的な白い空間においては、かえってシュールな不気味さを際立たせていた。最新鋭のハイテク機器と、古ぼけた和家具。脈絡のない配置は、この空間を作った者の正気を疑わせるには十分だった。
そして、二人の足元には一冊の本が転がっていた。
「教科書……?」
昌幸は眉をひそめながら、その本を拾い上げた。
『詳説日本史』。
高校生ならば誰もが一度は目にしたことのある、見慣れた表紙のデザイン。そのありふれた紙の感触だけが、この異常な空間における唯一の現実的な手触りだった。
逃げ場のない白い密室にあるのは、正体不明の機械と古タンス、そして一冊の歴史の教科書。状況を整理しようにも、あまりに要素が断片的すぎて思考が追いつかない。
不穏な沈黙を破ったのは、唐突な電子音だった。
ピ、という無機質な音が響くと同時に、今まで何の継ぎ目もなかった真っ白な壁面の一部が、不意に発光したのだ。
昌幸と青は、弾かれたようにその光へと視線を向けた。 光を放ち始めた壁面に、黒い明朝体の文字が次々と浮かび上がっていく。
そこに浮かび上がったのは、この不可解な監禁状態に対する、あまりにもふざけた解答だった。
『歴史を修正しないと出られない部屋』
その一文を目にした瞬間、昌幸の脳内を占めていた警戒心は、急速に冷ややかな諦めへと変質していった。
……やっぱりか、と昌幸は心の中で毒づく。
思わず、肺の奥に溜まっていた空気をすべて吐き出すような、深い溜息が漏れた。
ネット上の創作で使い古されたシチュエーション。「〇〇しないと出られない部屋」。もしその〇〇に入る言葉が、思春期の男女をパニックに陥れる「アレ」のことなら、ここにはムードのある照明や、ダブルベッドの一つも置かれているはずだ。だが、周囲を見渡してもそんな気の利いた家具はない。あるのは無機質な機械と、場違いな古タンスだけ。
そして、提示された条件は歴史の修正という、斜め上の要求だった。
この手の部屋の例に漏れず、この空間にもルールを敷いた管理者がいるはずだ。こんな手の込んだ真似をする以上、その目的は高尚な実験などではなく、単なる悪趣味な退屈しのぎだろう。姿は見せずとも、この箱庭のどこかからニヤニヤとこちらを覗き見ているに違いない。 昌幸は、手にした教科書の背表紙を指でなぞりながら、見えない監視者に向かって鬱屈とした視線を投げかけた。
「……なるほど。状況は理解したわ」
隣から聞こえたのは、悲鳴でも動揺の言葉でもなく、氷のように冷静な納得の声だった。
青は、壁の文字を見据えたまま、腕を組んで思案顔を浮かべている。
この異常事態において、彼女の反応はあまりに理性的すぎた。彼女にとって、この閉鎖空間は恐怖の対象ではなく、単に解くべきパズルとして認識されたらしい。その整った横顔には、感情的な揺らぎは一切見当たらない。
「脱出条件は歴史を修正すること。随分と曖昧なルールだけど、やることは明確ね」
「西園寺、お前……怖くないのか? ここはどこかも分からない監禁部屋だぞ」
「パニックを起こして事態が好転するならいくらでも叫んであげるけれど、時間の無駄でしょ」
彼女はそっけなく言い捨てると、部屋の中央に鎮座する巨大な機械――タイムマシンへと歩み寄った。
昌幸も渋々、その後を追う。
青の細い指先が、コンソールパネルの一部を指し示した。
「見て、稗田くん。親切設計というわけでもなさそうよ」
彼女が指したディスプレイには、『待機中』の文字と共に、赤いデジタル数字が表示されている。そしてその数値の横には、小さくも明確なフォントで『TIME REMAINING』と表示されていた。
「……残り時間、か。この表記がある以上、無限にトライ&エラーができるわけじゃないってことだな」
昌幸が補足すると、青はご名答とばかりに小さく頷いた。
失敗は許されない。タイムマシンの稼働時間には限りがあるからだ。
もし歴史を修正できないまま時間を使い切ってしまえば、二度と過去へ飛ぶことはできず、永遠にこの部屋から出られなくなってしまう。
そう突きつけられているにも関わらず、昌幸の中に焦燥感は薄かった。どうせ自分の人生なんて、いつもこんな風に貧乏くじを引かされることの連続だという諦念が、恐怖を麻痺させているのかもしれない。
昌幸は卑屈な笑みを噛み殺し、肩をすくめた。
「要するに、一度か二度のチャンスで正解を引けっていう、理不尽な無理ゲーってわけだ」
「文句を言っている暇があったら頭を動かしなさい。いつまでも私と不審者を同じ部屋に監禁しないで」
「不審者って俺のこと?」
青は昌幸の質問を無視し、床に転がっていた教科書を見下ろす。
二人は、望むと望まざるとにかかわらず、このふざけた歴史改変ゲームのプレイヤーに選ばれてしまったのだ。
「修正が必要ということは、現状の歴史が間違っているということよ。まずは現状の確認が必要ね」
青は腕を組み、美しい顔立ちを僅かに歪めて昌幸の方へと視線を流した。
「拾って確認なさい」
「……へいへい」
昌幸は小さな溜息と共に、足元の教科書を拾う。
彼女は司令塔であり、自分は手足。このカーストはこの白い部屋でも健在らしい。
「どこから調べる?」
「現代から遡りなさい。結果から原因を探るのが定石よ」
彼女の指示に従い、昌幸は教科書の最後のページから、時間を逆行するようにめくり始めた。
平成、昭和、大正……。
近現代の記述を目で追っていた昌幸の手が、ピクリと止まった。 世界大戦、高度経済成長、バブル崩壊。歴史の大枠は合っている。だが、見過ごせない単語が網膜に焼き付いた。
「……おい、嘘だろ」
「何よ?」
「首都が東京じゃない。国会議事堂の所在地が京都になってる」
昌幸はページを指で弾いた。そこには見慣れた東京の風景ではなく、近代化された京都の市街地が描かれている。江戸は単なる地方都市扱いだった。
「首都機能の移転が行われていない……? なら、東京が存在しない世界ってこと?」
「ああ。今の俺たちがいるのはそういう世界線らしい。『東京』は京都から見た『東の京』って意味だからな。都が移ってないから、東京という名前ですらないみたいだ」
昌幸が唖然として顔を上げると、青は冷静に顎に手を当て、即座に次の指示を出した。
「現代がそれだけ歪んでいるなら、分岐点はもっと前よ。明治、江戸……いいえ、もっと遡りなさい。結果から原因を探すのよ」
「……了解」
昌幸は気を取り直し、さらに時間を遡るべくページをめくった。
ペリー来航、開国要求、尊王攘夷運動。
一見すると見慣れた単語が並んでいる。だが、その激動の時代の中心にあるべき組織の記述に差し掛かった時、この世界のズレが確信へと変わった。
『黒船の来航に動揺した幕府は、京に近い近江国坂本の居城にて評定を行い……』
「近江の坂本……?」
幕府が琵琶湖のほとりにあることになっている。
昌幸は背筋が寒くなるような予感を覚え、幕末の混乱期から一気にページを遡った。この坂本にある幕府はいったい誰が作ったものなのか。その原点を確認しなければならない。
二百年以上の平和な治世をすっ飛ばし、戦国の世が終わるそのページを開いた瞬間、昌幸は息を呑んだ。
見間違いであってくれと願いながら、そのページに掲載されている肖像画を凝視する。
本来なら、そこには恰幅の良い古狸のような天下人が描かれているはずだった。
だが、そこに描かれていたのは、理知的だがどこか神経質そうな顔立ちの男。
そして、その肖像画の下には、信じがたいキャプションが記されていた。
『坂本幕府 初代将軍 明智光秀』
「どうしたの?」
沈黙を不審に思ったのか、青が背後から覗き込んでくる。
昌幸は無言で、その異常なページを彼女に突きつけた。
「……なるほどね」
青は眉ひとつ動かさず、しかし興味深そうにその記述を読み上げる。
「『織田信長の死後、速やかに混乱を収拾した明智光秀は、近江国坂本に拠点を構え、征夷大将軍に任じられた』……ですって」
本文に目を走らせれば、そこには二人の知らない歴史が淡々と、さも正史であるかのように記されていた。
江戸ではなく坂本に開かれた幕府。徳川家康という存在が消え、代わりに明智光秀がその座に収まっている世界。
この部屋が求めている歴史の修正とは、このねじ曲がった結末を白紙に戻すことを意味していたのだ。




