第58話 鈍い逃走
耳障りな音だった。
分かっていても本能が忌避反応を見せる。日常で聞くことがあるとすれば工事現場のそれであろうが、これほどの至近距離で音に圧されることなどそうそうある訳でもない。ミエコ達はギィギィと聞くに堪えない甲高い摩擦音に顔を歪ませた。眼前で、教祖の男すら予想しなかった現実が動き出していた。
「この女……、まだ抵抗するかッ!」
後ろを振り向きフード越しに男が叫んだ。
それから即座に何か呪い言葉を呟いているようだが、巨大ロボットはまるで意に介さぬように、鋼鉄の支柱を握りつぶしては寸胴な脚部で小さな筐の壁に相対した。
息を呑むのも束の間。
大きく振りかぶったロボットの腕部、手首をぐるりと取り巻く穴から猛烈な勢いで水が噴き出した。滝、ではない。噴流と言った方が適切だった。轟音と圧風で工場全体を揺るがしながら、強烈な水流は鉄と木で出来た工場の壁を、カッターのように切り裂いた。
白熱灯の鈍い光に照らされて、キラキラと舞い散る水滴が如何にも幻想的ではあったが、あまりに場違いな美しさであった。
「く、くそッ……!」
崇高な闇を語った男が見るからに狼狽している。しかしそれも長くは続かなかった。ロボットが壁を貫いた時点で、男は呆然としている中宮の手を強引に引っ張った。
糸の切れたマリオネットがぐらりと揺れ、フードの男はロボットとは逆方向に向かって走り出した。
「待ちなさいッ!」
声を上げても眼前の衝撃的光景に、ヒノエが矢を番えるのが遅れる。志乃のライフルも銃口が上がりきらない。
慌てて逃げる男は一瞥もない。視線は――恐らく脱出口があるであろう方向に向けられ、意識は既にミエコ達にない。背はがらんどう。
即座に動いたのはミエコだった。
26年式拳銃の銃口が、無意識に反応するように男へ向けられる。
するりと持ち上がって、ピタリと止まる。
乙女にも分からなかった。考える暇もなかったと言って良い。それでもミエコの指先は確りと引き鉄に触れ、今や引かんと力が加えられる。
懊悩などない。
照準、照星の向こうにいるのはにっくき男。
級友を誑かしたクロークの背中。瞬時に去来する己の下手さ加減だけが、ほんの僅かに指先を鈍らせたが、――乙女は強く願いながら引き金を引いた。
『お願い……当たって!』
パンッ――と、雑音と金属音の賛歌の中、ささやかな独唱が響き渡った。
「ぐっ!」
あわや物陰に隠れきるその寸前に、教祖は痛みに声を漏らし上半身を大きく仰け反らせた。乙女の銃弾は、十数米という距離を的確に飛び、教祖の右肩に見事着弾していた。
教祖のフードが仰け反った反動で背中に落ちた。
ぐるりと振り返ったその顔――。
男。
間違いない、男だ。白熱灯の暈けた光でも瞭然と分かる。短髪で精悍、鼻筋の通った顔立ちである。この場でなければ、ハンサムと形容して差し支えない。
ただ、その瞳は絶望的なまでに怒りに塗りつぶされている。炎のように揺らめきながら、煌々と感情が燃え盛っていた。
「貴様ら……」
歯軋りが聞こえそうなほどの強張った頬と剥き出しの歯。
しかし男は「チッ」と舌打ちすると、中宮を引き摺る腕を左に替えて物陰に隠れてしまった。僅かに遅れてヒノエの二の矢、志乃のライフル弾が放たれるが、男を捉えきれない。痛みに身体を僅かに捩らせながら消えていく影に向かって、乙女は叫んだ。
「待てッ!」
直情的に過ぎると頭で分かっていても、身体は止まらない。
床に散らばる水、血、骨、人だったモノなど気にも止めることなく、ミエコはゴム靴をキュッと鳴らして男を追いかけた。
「お嬢様!」
「待ちなさい、ミエコ!」
友の諌言も耳を撫でるばかり。乙女は念話で応える。
『志乃とヒノエはロボットを追って! 私はあの男を追うわッ! ……マスター、ロボットを!』
スルスルと指示が飛び出る。一瞬の間の後、
『はい。大丈夫ですよ。捉えています』
と、声色穏やかいつものように、近堂が答えた。
ロボットが壁を完全に破壊し、水の噴流も収まった。壁材をバキバキと音を立ててこじ開け終わり、その一歩を工場外の脇道に踏み出した刹那、であった。
瞬く閃光が闇夜を照らし出した。
バラバラバラ――、と乾いた銃声が空気を切り裂き、ロボットの胴体に着弾した数多くの銃弾がバチバチ弾け光環に包まれた。
カガチの赤い舌が、巨大不明ロボットを舐めた。
国産自動車に搭載されたガイドレール付き車載型機関銃。座席を全て倒し、屋根を外し、車体後方からぐるりと引き上げ、天頂部に備える圧倒的近代火力。事前に清祓の呪を施された超音速の銃弾が怪異を切り裂く。
ロボットは僅かに怯む姿を見せているが、倒れる気配はない。
ミエコは一瞬だけ振り返り、その様子を確認すると、直ぐさまに男と中宮を追った。乙女の柔肌は今や逆立つ鱗のように、死臭漂う風を切り裂いていた。機械を跳び越え、壁を抜け、工場の外に出た。
来た時と変わらない死んだような空である。
闇が闇を纏い、誰何がなければ人の形などすぐに影に融ける。
(あの声――)
一瞬だけ聞こえたような、懐かしい声。
誰かの声か判然としない微かな声。それでも分かる。女の声だ。懐かしい女の声――と、息を整えながら頭を整理するが、脳味噌に鍵が掛かったように引っかかって思い出せない。
ミエコは唇を噛みしめながら男を追った。
しかし、工場から出た頃には既に暗闇が彼らを覆っており、もはや影の余韻しか感じさせるものはない。街灯が真っ暗な道をぼつぼつと照らしているものの、否、寧ろそれ故に光ある点だけが眼に焼き付く。
それでも追わねばならない。
後方で繰り広げられる賑やかな戦場音を背に、吉田川の方へ向かった。
(ヒノエみたいに見えないけど――)
乙女の嗅覚で行くしかない。
どれもこれも同じ面構えの倉庫街を駆け抜け、吉田川の川縁まで来た。左右を見回しても彼らの姿はない。ミエコは歯がみしながら地団駄を踏んだ。
『何処に行ったのよ! この卑怯者!』
怪我をしながら、しかも放心状態の女を連れながら乙女の健脚から逃れる。
そんな事が出来るだろうか?
確かに廃ビルで戦った時は怖ろしく早い逃走であった。それは間違いない。或いは土地鑑があって隠れるのが上手か、将又――、とミエコが溜め息混じりに、星さえ死んだ空を見上げた時であった。
「そこまでだ、お転婆娘」
闇を滲ませた冷たい声が、近くから聞こえた。
吉田川沿いの街路樹の暗い影から、独りの影がぬるりと産み出される。聞き覚えのある、否、忘れるはずもない声。
死人と見紛う青白き顔をした御影大佐であった。




